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妊娠したかもって冗談で言ったら想像以上にやばいことになった



「妊娠したかもしれません」

 アズール先輩の笑顔がぴしゃりと凍りついた瞬間だった。
 悪戯心から冗談を言ってみただけだった。ちょっと構って欲しくて、揶揄いたくて言ってみただけなのに、こんな風に真顔で凍りつかれるとは思わなくて、胸の内がじくじくと痛みだす。
 卒業したら私とすぐ結婚したいだのなんだの言いつつも、どうせ心の奥底ではもっと私より良い女を求めているんでしょう。そうだよね、そんなふうに内心思っているのなら、私には妊娠なんてして欲しく無いもんね。
 自分から仕掛けた悪戯なのに、相手の反応に勝手に傷付いているなんて。先に仕掛けた自分が悪いのはわかっている。
 でも、アズール先輩のあの、凍りついたまま動かなかった表情が私の脳裏に焼き付いて離れない。
 漸くアズール先輩の硬直が解けたのだろう、彼が唇を開こうとした寸前、私は先輩からの言葉を聞きたく無い一心で気が付いたらその場から逃げ出していた。
 
 気が付いたらオンボロ寮の扉の前に私は立っていた。どこをどうやって走って帰ってきたのかは覚えていない。
 脇目も振らずにずっと走っていたから、喉が焼けつくように熱い。肺に穴が空いたかのように、ひゅぅひゅぅと笛の音のような浅い呼吸しかできない。肩を揺らして必死に肺へと酸素を取り込む。
 漸く呼吸が上手く出来るようになってきたかと思えば、今度は膝がガクガクと笑い始めた。
 そして、崩れ落ちるようにして寮の扉の前で座り込む。
 心臓がばくばくと脈打つ音が妙に大きく聞こえるような気がする。その激しさはまるで、私に警笛を鳴らしているようにも思える。
 瞼がじわりと熱を持ったかと思えば、次から次へと瞳からは熱い涙が溢れ出てきた。泉のように湧いてきて止まらないそれは、私の頬を濡らし、ぼたぼたと地面へと滑り落ちた。
 泣きたくなんてなかった。誰にも泣き顔なんて見られたく無いのに。
 ぽたり、と空から雨粒が落ちてきた。
 それは、まるで私の涙を隠してくれるかのような慈雨のようだった。


 あの後、雨に打たれながら寮の玄関の前で泥まみれになって座り込んでいる私を見つけたグリムが、大騒ぎをしながら私を一生懸命引っ張って室内へと運んでくれた。

「なんでお前、あんなところに座り込んでたんだゾ? 風邪引くんだゾ!」

 ぶっきらぼうな声だったけど、それは、心配の色も滲んでいるような声色に思えた。

「なんでもないよ、大丈夫」
「なんでもないって顔じゃ無いんだゾ」
「なんでもない、から」

 泣くな。
 絶対に泣くな。
 これ以上グリムに心配はかけたくない。
 へらりと力無く口角を上げ、笑顔の仮面を貼り付ける。今、ちゃんと私は笑えているのだろうか。

「グリム、大丈夫だから」

 念を押すようにそう言えば、グリムは「ふな……」と小さく鳴いた。


 私は学校でアズール先輩と顔を合わせることに怯え、昨夜からずっとオンボロ寮に引きこもっていた。今日は学校を休むとグリムには伝えた。
 きっとアズール先輩に会ってしまったら、別れ話でもされるか、子どもを堕ろせだのなんだの言われるような気がしたから。
 実際、彼の子を妊娠した、というのはただの冗談だったのだけれども、それを真実だと勘違いしているであろうアズール先輩から拒絶の言葉を聞くのが嫌だった。
 嘘でした、とすぐに言えばその場では誤解晴れることだけど、きっとあの時の先輩の凍りついた表情は、この先時間が経っても私の心の中に抜けない棘となって残り続けるだろう。

 一人で毛布に包まって、芋虫のようにベッドの上でゴロゴロと惰眠を貪る。
 昨夜からずっと電源を切っていたスマホをつけた瞬間、とんでもない勢いで大量の通知がロック画面を埋め尽くす。
 ちなみにメッセージの送り主はアズール先輩の名前一色。しかも、十六時過ぎ頃から一分おきに着信がきていた。え、何、怖い。
 さーっと全身から血の気が引いていく。とりあえず適当にトークアプリの方で返信でもしておこう、とロック画面を開こうとした瞬間、またアズール先輩からの着信。恐怖のあまり反射的に通話を拒否するボタンを押す。ほっと一安心も束の間、三秒も経たぬ間に新たな着信が入り、私は再び秒速で通話を拒否した。
 今度はさっきとは違い、すぐに新しい着信は来なかった。今度こそ一安心。
 スマホをベッドに放り投げようとした瞬間、今度はトークアプリのメッセージ受信音が鳴る。

 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。 
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。
 新着メッセージを受信しました。

 なんなんだこの通知の数は。どんなホラー映画よりも怖すぎるんだが!? 
 呆気に取られて呆然と、無限に通知が入ってくるロック画面を眺めることしかできない。
 鳴り止まない通知の音に頭がおかしくなりそうになる。
 そして、暫しの沈黙の時間がやってきた。通知音が突然鳴り止み、遠くで烏の声泣く声が耳を掠める。
 
 新着メッセージを受信しました。

 そしてまた一通、メッセージが届いた。
 恐る恐る、既読を付けないようトーク画面を覗き見する。

『今からオンボロ寮に行きます』

 新着メッセージを受信しました。

『今、2-Cの教室を出ました』

 新着メッセージを受信しました。
『今、鏡舎にいます』
 新着メッセージを受信しました。

『今、メインストリートに出ました』

 新着メッセージを受信しました。

『今、植物園の近くにいます』

 いやいやいやいやいやいやいやいや、、待って待って怖すぎる。メリーさんか? この人メリーさんの子孫か何かなのか? 
 じわりじわりとオンボロ裏へと確実にアズール先輩は迫ってきていた。
 別れ話をされるのが怖い、なんて甘い感情はもう無い。今あるのは、本能的恐怖心のみ。取って食われるんじゃ無いかっていう恐怖心だけだった。いや、マジで怖い。

 新着メッセージを受信しました。

『オンボロ寮に着きます』
 
 うわっ、来た!!!!!! やばい、玄関の扉鍵掛けてない!!!!
 足を縺れさせながらも慌てて玄関へと向かい、扉のロックに手を掛けた瞬間、ドアノブがガチャッと動かされる。汗で湿った手で急いでロックを掛け、開けられないように施錠をした。これでもう大丈夫だ。

「ユウさん」

 扉越しのくぐもったアズール先輩の声が私の名を呼ぶ。
「ここを開けてください」
 トントン、と軽く扉を叩く音。息を殺して居留守をキメていると、だんだんとそのノックの音は大きくなっていく。ドンドン、と扉を叩かれるたび軋むような音を扉は立てる。いや、絵面がマジでホラーすぎて笑えん。

「いるのはわかっているんですよ」
「イ、イマセン! 監督生、ココ、イナイヨ!」

 ゴーストの振りをして返事をすると、ぴたりと扉を叩く音は止んだ。
 やっと諦めたのか……とほっと息を吐いた直後、勢いよく扉が蹴破られ、辺りはモクモクと砂煙が立ち込めた。

「う、嘘やん………………」 

 砂埃の向こうからうっすらと三人分のシルエットが見える。

「小エビちゃ〜〜ん! ごめんねぇ、勢いつけすぎてうっかりドア壊しちゃったぁ」
「申し訳ございません、僕もうっかり手を貸してしまい、力が入りすぎてしまったようです」

 砂煙越しに見える縦に長いシルエットが二つ。耳馴染みのあるあの双子の声。

「ユウさん、学校をお休みしたと小耳に挟んだので、会いにきました」

 そして、透明感のある、愛しい男の声も続いて聞こえる。
 砂煙が晴れ、三人の姿がはっきりと視界に捉えられる。
 何しに来たんだ! と色々なツッコミを入れる前にすごーく気になるものが視界にチラつく。
 オンボロ寮の前にいくつか並べられた大きな段ボール。先輩たちの手には大きな紙袋。それらはいったいなんなんだろうか。
 呆気に取られていると、フロイド先輩が私の前へとやってきて、その大きな紙袋の一つを私へと差し出した。

「小エビちゃん、はい! どうぞ!」
「え、あ…………はい?」
「監督生さん、こちらも受け取ってください」
「は、はぁ……?」

されるがまま、その大きな紙袋をウツボの兄弟から受け取る。
 これは一体なんなのだろうか。お見舞いの手土産にしてはちょっと大袈裟すぎるのではないか。
 あんぐりと口を開けていると、こんどは外にある大きな段ボールを兄弟たちはいそいそと運び始めた。

「あの、その大きな段ボールの中、何が入っているんですか」
「ベビーベッドです」

 食い気味にアズール先輩はそう答えた。
 Why? なぜ? 
 受け取った手元の紙袋を恐る恐ると開くと、中には乳児用の靴下や、服などが詰め込まれていた。なんだこれ。

「小エビちゃん妊娠おめでとう」
「アズールがとても喜んでいますよ。フフフッ僕達も張り切って妊娠のお祝いの品を買いすぎてしまいました」

 私はどうやら、大きなミスと大きな勘違いをしてしまったようだった。

「ユウさん、ご安心ください。僕がきちんとあなたと僕達の子を養いますので。学生寮の中よりも、オンボロ寮の方が広くスペースが使えるので、卒業するまではこちらで稚魚を育てましょうね」
「待って」
「ああ、大丈夫です。もちろん育児は僕もやります。二人で協力して稚魚を育てましょうね」

 アズール先輩はそれもう、全身から幸福なオーラが漂っていて、いつもは胡散臭くみえる笑顔も今日ばかりは年相応に見える。にこにこと機嫌良さそうに私を抱き締めにきたアズール先輩と対照的に、私の顔からは血の気が段々と失われていく。

「籍は、ユウさんが卒業してすぐに入れましょうね。婚約の証として指輪も作るので待っていてください」

 何度も何度も額に触れるだけのキスをされる。人前でこんな風にイチャつくのは先輩は好きじゃ無いはずなのに、今日はそんなのも気にならないくらい機嫌が良いみたいだ。

「稚魚の名前もじっくり一緒に考えましょうね」

 言わないと。

「雌と雄どっちなんでしょうね。僕は元気に生まれてきてくれればどちらでも構いませんが」

 言わないと。

「あなたに似た女の子だったらきっと溺愛してしまいますね、僕」

 言わない、と…………。


 い、言いにくい!!!!!!!!


 私が唇をかみしめて俯いている間に、先輩たち三人はどんどんとベビーベッドを組み立てていく。
 そして、私は勇気を出してか細い声で呟いた。

「え、えっと、あれは冗談で言いました…………妊娠してません……」

 お茶目感を演出しようと「てへっ☆」と言う仕草も追加するが、どうやら滑ったようだ。
 アズール先輩の表情からみるみるうちに色が消えていく。目にハイライトが差していないような気がするのは、私の気のせいなんだろうか。
 空気が冷えていく。
 体感温度は氷点下。おかしいな、今は春の陽気なはずなのに。

「嘘を、吐いたんですか」

 鋭い声色に、恐怖心で肩がびくんと跳ねる。体を縮こめたまま、こくり、と頷く。

「ただ、構って欲しくて……その……冗談を言っちゃいました」

 アズール先輩は何も言わない。空洞のような瞳で、ただ私を真っ直ぐと見据えていた。

「ご、ごめんなさい…………」
 
 こんな大騒ぎにしてしまって流石に申し訳ない。だばだばと自然に涙が溢れてきて、子どものように私は泣いていた。

「ううっぐすっ……ごめんなさい……だからその、ベビーベッドの組み立てもしなくて大丈夫ですし、買ってきて頂いたベビー用品も返品して大丈夫なので……」
「結構です。そのまま準備を進めていてください」
「え」

 ふわり、と持ち上げられる。気が付いたら私の体はアズール先輩に横抱きにされていた。そして、オンボロ寮の外へと出ると鏡舎へと向かって、先輩は私を抱えたまま歩き出す。

「え、赤ちゃんはいないから準備する必要はありませんよ?」

 慌てて私がそう言うと、アズール先輩は氷のように冷たい笑顔でこう言った。

「いないのならば、作ればいいだけの話ですよ」


   
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