スカイブルーの追憶
『アズール先輩、決めました。この世界に残ります』
『例え私がこの世界の異分子だとして、自分の意思なんて関係なくある日突然元の世界に戻されたとしても、心だけはこの世界に置いていきます』
ユウさんは僕と小指を絡めて、約束の言葉を口にしてくれた。彼女の左手の薬指に嵌められた銀色が太陽の光を反射させてキラキラと輝く。幸せだ、幸せだったんだ。一生この幸せが続くと僕は信じて疑わなかった。
「行ってきますユウさん、今夜は早く帰りますね」
「わ!結婚記念日だからですか!嬉しい!実は私から大事な話もあるんです!だから楽しみに待っていますね」
「わかりました。ケーキはあなたの好きな苺がたくさんのったケーキを買ってきます」
「よっしゃ〜〜!!いってらっしゃいアズールさん!」
いつもの通り手を振る愛しい番の姿。さあ、帰り際には彼女の大好きな苺ののったケーキと花束を買って帰ろう。彼女はどんな顔をして喜んでくれるのだろうかと、想像を膨らませるだけで今からもう帰宅が楽しみで仕方がない。
「アズール今日はご機嫌じゃん」
「ふふふっフロイド、なんせ今日は愛しの奥方との結婚記念日ですよ。それはそれはご機嫌に違いありません」
「あーね!!結婚何年目だっけ今?」
「彼女が卒業してすぐに籍を入れたので今年で三年目です」
ウツボ兄弟たちから揶揄われるも、今日の僕はいつも以上に心が広い。今なら何を言われても許してやれらような気分だ。
「じゃあ今日は早く帰ってあげないとねぇ、アズール社長!」
「今日は残業なんてせずにしっかり定時で上がってください。残った仕事は僕たちにお任せください」
お前たちに借りを作ること程恐ろしい事はない、と突っぱねたい所ではあるが、今日ばかりは彼らの力を借りねば定時で帰ることは厳しい。
ナイトレイブンカレッジを卒業して『モストロ商会』をすぐに立ち上げ、人口の多い輝石の国にモストロ・ラウンジ二号店をオープンさせた。僕の予想通り売り上げは上々。つい最近三号店をオープンさせたばかりで業務も増えていたからだ。
「お言葉に甘えさせて頂きます………対価は何を差し出せば良いのですか」
「来月まとまった休みを頂きたいですね。ここ暫く山と触れ合えていないものでして」
「オレもまとまった休み欲しい〜〜!!」
「スケジュール調整するので返事は待っててください」
嬉しそうにハイタッチをするウツボたちを横目に溜まっている書類へと向かう。ああ、早く仕事を終わらせて彼女の元へ帰りたい。彼女の花開くような笑顔を頭の片隅に置きながら書類の束を手に取り、目を通し始めた。
漸く長い仕事も終わり、僕はケーキ屋へ訪れていた。
「すみません、予約していたケーキを取りに伺いました。アーシェングロットと申します」
「はい、アーシェングロット様ですね。毎年ご注文して下さりありがとうございます」
どこか見覚えのある店員は柔らかく微笑みながら両手でケーキの箱を僕へと手渡す。
「覚えてくださっていたんですね、ありがとうございます。毎年お世話になっています。妻がこちらの苺のケーキを気に入っているんです」
「あら、嬉しいわぁ。奥様のことを大切にしていらっしゃるんですね。ふふっ。今日はお二人で仲良く過ごしてくださいね」
ふわりと柔和な笑顔がよく似合う彼女はそう言うと、次の客への対応へ向かっていった。
薔薇の花束を抱えて帰路に着く。彼女の喜ぶ顔を想像しながら玄関の扉を開きリビングへと向かえば、室内は灯りがなくしんと冷え切っていた。いつも帰宅した僕を迎えてくれるユウさんの姿は無い。秒針が時を刻む音と、僕の呼吸だけが響いていた。嫌な予感が僕の胸を過ぎるり、不安による緊張で脚が竦む。
「ユウさん」
彼女の名前を呼ぶものの、いつも僕を迎えてくれる温かな声はなく、冷や汗ばかりが背筋を伝う。早足でキッチンの方へ向かえば、目の前には先程まで彼女がいたと思われる痕跡が広がっていた。
白い湯気をあげる出来立てのスープ、切りかけの野菜たち。調理棚には投げ出されたままの包丁が寂しげに置かれていた。まるでその場にいた彼女だけが泡となって消えてしまったかのように。
いつかはこんな日が来てしまうのかもしれないとは薄々気が付いてはいながらも、僕は無意識のうちに目を逸らしていた。彼女は突然この世界へと放り込まれてきたのだ。ならばある日突然いなくなってしまう、なんてことも十分あり得るんだということを。
目が覚めたら、目の前には見慣れた天井の白。壁掛け時計にチラリと視線をよこせば時刻は午前八時をとっくに回っていた。うっわもう学校遅刻じゃん。慌てて跳び起きてリビングへ向かっって階段を駆け下りる。キッチンの方から香る母のお味噌汁の匂いが妙に懐かしく感じられた。
「お母さんおはよう!なんで起こしてくれなかったの!?」リビングに入ってきた私の姿を見た両親の表情は筆舌に尽くし難いものがあった。あえて例えるならば、まるで数百年前に亡くなった者の亡霊を見るような瞳。
「え、何、どうしたの」
二人はゆっくりと顔を見合わせる。
「ユ、ユ、ユウなの…?」
「お、お前本当に帰って……?」
二人の顔はそれはもう盛大に引き攣っていた。おかしい。何でこんな反応をされなければいけないのだろう、私はゴーストじゃないぞ。
「あなた、今まで一体どこにいたの!?何をしていたのよ!?本っっっ当に心配してたんだからね!?」
「良かった……良かった……何はともあれ無事に帰ってきてくれて良かった……」
「え、なんで泣いて……ええ……?」
突然私を抱き締めてきたかと思えば、二人は泣きながら良かった良かったとその言葉ばかりを繰り返していた。私だけまるで置いてけぼりじゃないか。
その後は学校へは行かずに即座に私は父の車の後部座席に詰め込まれ、病院へと連れて行かれた。何が起きているんだかさっぱりわからない。
病院に着いてから様々な検査をされ、検査が終わったかと思えばすぐに診察室へと連れ込まれた。そして医師によって私に着いての現状が漸く語られたのだ。
医師曰く、どうやら私はここ数年ずっと行方不明だったらしい。年齢ももう十六歳なんかじゃなくてとっくにの昔に二十代になっている、ということだ。正直信じられない、とも思ったけどこれが現実なのだから認めざるを得ない。
そしてもう一つ、驚きの事実が発覚した。なんとわたしのお腹には小さな命が宿っているらしい。驚きだ。身に覚えないぞ。まあ記憶がないから当たり前なんだけども。
誘拐犯に乱暴されて宿った命の可能性が高いと両親に言われ、堕胎した方が良いとも言われたけども、それだけは嫌だ、となぜか強く思った。絶対にこの子は殺してはいけない。この子だけは守らなくてはならない。
そうして私は両親の反対を押し切って、行方を眩ましていた間の記憶も碌にないまま、数ヶ月後には私はお腹の子を産み落とした。スカイブルーの宝石ような瞳が特徴的な可愛らしい女の子だった。どこか懐かしさを覚える生まれたてのスカイブルーをじっと見つめていると、じわりと瞼が熱を持つ。この子を産めて嬉しいはずなのに、どうして涙が止まらないんだろう。痛む胸をぎゅっと押さえて、生まれたばかりの小さな娘を抱きしめた。
それから時は流れて娘が生まれてから五年が経った。すっかり歩くのも喋るのも上手になって、今では私の家事の手伝いまでしてくれるようになったのだ。立派な娘に育ったものだ。
「ママ!ママ!じいじとばあばのお家いついくの!」
「今度私が連休取れた時に行こうね」
「やったあ!早くいきたいなあ」
父と母は最初はこの子を産むのを猛反対していたけれど、産まれてからはもうデレデレの甘々で猫可愛がりしてくれてとても安心した。どこの誰の遺伝子だからわからないけど本当に可愛らしい顔立ちに生まれたのだ。
「ママ!公園行きたい!ね! 海のちかくのの公園いこーよ!」
「はいはい、行こうか」
物心ついた頃からこの子は妙に海に執着するような気があった。なので海に近いアパートで今は二人暮らしをしている。私の仕事が休みの日は必ず海の近くの公園に遊びに行くのが日課なのだ。
急かす娘において行かれないように、慌ててテーブルの上に置いたままのシルバーの指輪を薬指に嵌める。実はこの指輪は私が帰ってきたあの日、左手の薬指に着けていた指輪だ。普通なら気持ちが悪いと捨ててしまうような物だけど、私はどうしてもこれが捨てられなかった。もしかしたら記憶を失う前の私が大切にしていたものだし、きっとこの子の父親からもらった物なのかもしれない。何よりこの指輪を見ていると、名前もわからない誰かへの愛しさが込み上げてくるのだ。なので、出かける時はいつもこの指輪を薬指に嵌めてでかけるようにしている。
娘に手を引かれて向かった公園。この公園にはすぐ近くにある海へと繋がる小道が延びている。その小道を娘と歩きながら他愛もない話をする時間が温かくて大好きだ。
海に辿り着くとすぐに娘は私の手を離して海辺へと駆けて行った。全く、やんちゃで困った娘だ。誰に似てしまったのだろうか。ため息をついて海辺に置かれているベンチへ腰を掛け、予め持ってきていた文庫本をバッグから取り出す。
娘のはしゃぐ声を聞きなから本を読み始めてからどのくらいの時間が経ったのだろう。そろそろ帰ろうと文庫本をバッグにしまった時、ふと自分の薬指からあの指輪がなくなっていたことに気がついた。
「すみません、お探しの物はこちらでしょうか」
馴染みのない男性の声。誰かが透き通るような声で私に話しかけてきたのだ。
振り返るとそこには銀髪がよく似合う、仕立ての良いグレーのスーツを着た男性が立っていた。海辺には不釣り合いな格好なはずなのに、なぜか違和感を覚えないのはどうしてなんだろう。
「この指輪はあなたの指輪ですか?」
「あ、はい!そうです!落としてしまってたみたいで……ありがとうございます!」
手のひらの上で受け取ろうとするも、彼は私の左手を手に取り、直接薬指に嵌めて返してくれた。ありがとう、とお礼を言おうと彼の瞳を真っ直ぐ見据える。彼の瞳は娘とそっくりなスカイブルーの色をしていた。どうしてこの人は今にも泣きそうな切なそうな表情で私を見下ろしているのだろう。
「あちらで一人で遊んでいらっしゃる女の子は、あなたの娘さんですか?」
「はい、そうです。やんちゃで困っちゃいます」
「ふふふっそうなんですね。あの子の瞳の色が僕とよく似ているので少し驚いてしまいましたよ」
「確かにそうですね!えっと、あなたはもしかして外人さんなんですか?顔つきとか目の色とか日本人らしくないですし」
「……そうですね、間違ってはいません」
困ったように笑いながら彼はそう呟いた。そしてその後も彼からいろいろな質問をされて暫く会話は続いていた。初めて会った人な筈なのに、なぜか心を許してゆっくり話をしてしまえるような、そんな不思議な人だったのだ。
「あの、私たちどこかでお会いしたことはありませんか?」
彼は被っていたハットをのつば広を掴むと表情を隠すように深く被り直し、俯いた。
「そうかもしれませんね。もしかしたら覚えていないだけでそうだったのかもしれません」
「絶対どっかで会ったことありますってー!うーん、どこだろう。思い出せないなあ」
うんうんと唸りながら考え込む私を見て彼はまた柔らかく微笑んでいたのだ。その瞳にはどこか甘さと温かさが含まれているような気がして少しだけ居心地が悪く感じる。
「あなたは今、幸せですか?」
「え?そうですね、足りないものがあるような気がするんですけども、それでも可愛い娘も居てきっと今私は幸せなんだと思います」
「そうなんですね、良かった」
そう言うと彼は満足げに小さく笑みを溢し『それでは』と言いその場を立ち去ろうとした。
「あの……最後に名前をお聞きしても宜しいですか?」
無意識に私は尋ねてしまった。失礼なことを聞いてしまったのかもしれないけど、それでもどうしても私は彼の名前を知りたかった。私の中で眠るもう一人の私が、必死に彼に向かって手を伸ばしているような気がしたのだ。
「……アーシェングロットと申します」
「アーシェン……グロット……?」
聞き覚えのあるその名に肩がピクリと跳ねる。ズキッと頭に刺すような痛みが走る。あまりに酷い頭痛に、身動き一つ取ることすらできなかった。そして、頭の中はもうぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたかのように混乱してしまっていた。
そしてぽろり、ぽろり、と涙の粒が頬を濡らした。
私はどうしてこんなに泣いているんだろう。どうしてこんなにこの人に会いたいと思っていたんだろう。思い出したいのに何かが私の記憶に蓋をしているせいで記憶の欠片すら拾い集めることはできなかった。
「お幸せに、ユウさん。またいつか会いましょうね」
「ま、待って!!どうして私の名前を!!」
涙でびしょ濡れの瞼を慌てて拭った時にはもう私の視界のどこにも彼の姿は映っていなかった。まるで白昼夢のようだ。
「ママー!!誰とお話ししてたのー!って!わああ!!ママ泣いてるのー!?!?よしよし泣かないでえ」
優しくて愛おしい娘が小さな手でしゃがみ込む私の頭を何度も何度も優しく撫でてくれていた。そしてふと思い立って薬指の指輪を外しリングの内側に刻まれた名前を読み上げる。【Azul Ashengrotto】と刻まれたその名は先程の彼のファミリーネームと全く同じものだった。
「良かったのぉ?一応明日まではこっちの世界に居られるみたいだけど〜〜」
「そうですよ。今回を逃してしまえば次はいつこちらの世界へ入れるかわかりませんよ」
「そうだよ〜〜学園長も言ってたじゃん。まだまだ異世界への召喚魔法は研究中の段階だから、無闇やたらに異世界に飛べるもんでもねぇって。たまたま今回は条件が揃っただけだってさぁ」
海辺の小道を歩いていると、ウツボの兄弟達が騒がしく僕へのブーイングを飛ばしてくるので、話半分で相槌を打つ。ふわりと風が吹いて僕の被っていたハットを攫う。異世界でも潮風の匂いというのは同じなのか、とどうでもいいことが頭に浮かぶくらいに頭の中は冷静になれていた。
「本当に良かったのですか」
もう一度ジェイドにそう尋ねられ、僕は今日一番の笑顔でこう返すのだ。
「僕のことはもう思い出せなかったとしても、彼女の心だけは、永遠に僕の傍らにありますので」
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