虹色トレイン
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目覚めた日から数日が経った。
今は、病院でのリハビリを終えて自宅に戻り、夕食をとっている。
ダイニングテーブルには、自分の好物が連日のように並ぶ。
無理して毎日のように自分の好きなものを用意しなくてもいいのだと母親にそれとなく伝えたのだが、私がそうしたいだけなのと嬉しそうに笑って言うだけだった。
今日は父も姉弟たちも帰りが遅くなるらしく、母親と二人で先に食卓を囲む。
他愛もない会話をしながら、由紀のことを思い出していた。
事故に遭う前はよく家に遊びに来ていた。
俺が部活で疲れて眠ってしまった時なんかは、いつのまにか一人で1階に降りて行き、母親と楽しそうに話をしていたり、はたまた一緒に夕食を作ったりなんてこともしばしばあった。
姉は母親と一緒に料理をするようなタイプではなかったので、由紀に料理を教えている時とても楽しそうだったのをよく覚えている。
おそらく素直で明るい性格の彼女のことを気に入っていたと思うのだが、俺が目覚めて以来一度もその名を口にしたことがないことにふと気がついた。
もしかしたら俺に余計な気を遣わせまいとあえてその名は口に出さないようにしているのかもしれないと思い、そういえば…と話を切り出すことにした。
「のお、由紀のことなんじゃけど」
「え?」
「俺の彼女。何回か連れて来たことがあったじゃろ」
俺の問いかけに、首をかしげて悩む素振りを見せる。
そして、次に発した母親の言葉に、衝撃を受けることになる。
「由紀ちゃんなんて、家に来たことあったかしら?」
背筋が凍りつくように冷たくなるのを感じた。
由紀は今までうちの母親に何度も会っている。なのに、たった1年半で忘れるなんておかしい。
一緒に料理をしたことや、夕食を食べたことなど詳しく説明しても全く覚えがないの一点張り。
しかし、母嫌が冗談でそんなことを言っているようには到底見えなかった。
「その子‥あなたの夢、とかじゃなくて?」
心配そうな表情で俺に問いかける。
これ以上は心配させるだけだと悟り、こちらが折れることに決めた。
「…はは、そうかもしれんのう、すまん。忘れてくれ」
そんなわけがあるか、と言いたくなった言葉は飲み込んで早々に食事をすませて自室へ戻る。
まだまだふらふらと足元がおぼつかないが、この数日でゆっくりとなら自室までなら歩けるようになった。
ベッドに身体ごと倒れこみ、彼女の顔と彼女と過ごした日々のことを思い出す。
大丈夫、俺はまだつい昨日まで一緒だったかと思うほど鮮明に覚えている。
しかし、何とも奇妙な違和感が全身をめぐっていた。
階段の下から聞こえる、俺の名前を呼ぶ母親の声でふと目が覚めた。
ベッドから身体を起こして周囲を見回すと、外はすっかり暗くなってしまっており当然部屋の電気も点いていなかった。
すると、突如背後からガチャリと自室のドアが開く音がした。同時に部屋に明かりが灯る。
眩しさに手で目を覆うと、複数の足音が耳に響いた。
「よっ」
「仁王君、お元気でしたか」
聞きなれた友人たちの声。
眩む視界の中少しずつ目を開くと、目の前に現れたのはかつてのチームメイトの丸井ブン太と柳生比呂士だった。
二人は定期的に目覚めない俺の見舞いに足を運んでくれていたらしい。
今日の昼間、病院に行くと看護師から俺の意識が戻り退院したことを聞いて駆け付けてくれたとのことだ。
まじまじと二人を交互に見やる。
自分の記憶の中の二人よりほんの少し大人びた姿を見て、改めて時間の流れを実感した。
ブン太はどかっと俺のベッドに腰かけ、柳生は床に座る。
自分の意識が戻らなかったこの1年半の間の出来事をブン太が次から次へと話し、柳生が相槌をうったり時々補足を加えるという昔から変わらない一連の流れ。
相変わらずの二人の様子に安堵をしたのも束の間、ややしばらくしてその違和感に気が付く。
由紀の話題が1度も出てこない。
同じ学校の同級生、ましてや友人の彼女となれば知らないはずがない。
先ほどの母親のあの反応も気になる。
もしかして、まさか、そんな言葉が頭を過り握られた拳に自然に力が入る。
「…のお、ブン太、柳生」
どくんどくんと心臓が嫌な音を立てる。
これでいよいよ、仮説が現実となってしまうかもしれないと思うと、これから自分が紡ごうとしている言葉を発することが怖い。
急に改まった様子の俺に、二人は何事かと顔を見合わせる。
すっと軽く息を吸う。
「お前さんら由紀って、覚えとらんか」
部屋がしんと静まり返る。
丸井が先に、んーと考える素振りを見せる。
俺には、そのブン太の反応で二人の返答がわかってしまっていた。
「悪ぃ、誰だっけ?」
「そうですね、私も聞き覚えがありませんね」
予想はしていたとはいえ、やはり直接そう言われるとショックなものだ。
それと同時に、仮説は確信へと変わった。
俺以外から“由紀の記憶”が消えている。
どうやら、俺自身が思っていたより“罰”というものは残酷に俺に振りかかっていたようだ。
しかし、じゃあ由紀はどこに行ってしまったのだというのだろうか。
同じ学校にいれば、先生なりそのへんのやつらなり…誰かしらが知っているはず。
仮に俺と関わる記憶が消えていたとしても、さすがに存在自体がなくなるなんてことはないだろう。
この違和感の正体は何だ、もやもやする。
本当に、由紀に関する記憶が皆から消えただけなのか?
ぐるぐると自問自答をしているところに、柳生が口を開く。
「そういえば仁王君、君がもう少し落ち着いたらテニス部の後輩たちがお見舞いに来たいとおっしゃっていましたよ」
「あぁ別に…こんなんでもよけりゃ構わんのに。どうせ真田あたりが気をまわして…」
「真田って誰だよ」
ぴしりと、一筋の電流が走ったようだった。
そう言ったブン太の顔を見ると、なんだよ…俺変なこと言ったか?と不思議そうな顔でこちらを見る。
「…それ、冗談じゃろ」
「いいえ、少なくともうちの学校には真田さんというテニス部員はいなかったと思います。隣町の高校のテニス部にそんな方がいらっしゃったと思いますが…」
「お前さっきから大丈夫か?混乱してんじゃねぇの?それに、立海“南”高校テニス部の3年は俺たちしかいなかったろぃ」
「立海…南?」
何が…起きている。
真田だけじゃない。
柳、幸村、ジャッカル、みんな中等部から立海大附属高校へ進学したはずだ。
大学だって、そのまま立海大へ進んだはず。
「なぁ、俺は…お前さんらは、どこの大学に通っとる」
「…私たちも仁王君も立海大学を受験したじゃないですか」
「せっかく苦労して3人一緒に受かったのに事故に遭っちまうしよ…まぁ、混乱するのも無理ねぇよな」
状況が、少しだけ飲み込めて来た。
それと同時に先ほどまでもやもやしていた違和感の正体にも気づく。
俺以外から“由紀の記憶”が消えているだけじゃない。
そもそも由紀とは出会っていないことになっているし、立海大附属に俺たちは“いなかった”ことになっている。
すなわち、皆の記憶から消えたのは俺たち3人の方だったのだ。
俺は、今初めて後悔の念にかられている。
自分のとった行動で、二人からテニス部だった時の思い出も友人も全て奪い去ってしまったのだ。
厳しい練習に耐えてきたことも、部活帰りに皆で寄り道したことも、高等部で全国制覇を成し遂げたことも。
俺だけが覚えていて、二人の中では全て無かったことにしてしまった。
誰の情けなのか、柳生と丸井だけは俺に残してくれたようだが…それならいっそ、俺だけが皆の記憶から消えればよかったのに。
「…すまん、柳生、ブン太」
もう一度すまん、と声を絞り出すと柳生もブン太も何のことかと顔を見合わせて笑う。
「らしくないですよ」
「長く寝すぎて頭ん中ごちゃごちゃになってんだろぃ。すぐよくなるって」
涙は出なかった。
しかし、無意識に握りしめていた拳を指摘されほどくと、手の平には爪痕とその形に沿った血ががくっきりと滲んでいた。
僅かな後悔と、重い罪悪感が押し寄せる。
自分に何か、出来ることはないのだろうか。
翌年の春、痛みと辛さに耐えたリハビリをこなし、大学1年生からやりなおすことにはなったが晴れてまた大学へ通うことができることになった。
休学扱いで学年が1つ下がるというだけなので入学式には参加する必要はない。
だがもしも、彼女がこの大学に進んでいれば今年の1年のはずなのでこの式典に出席しているはずだと踏み彼女の姿を見つけるための目的だけに、大きな体育館の傍の木陰に座り人波の様子を目を凝らしてうかがう。
彼女がこの大学にいる確証はどこにもない。
立海大附属高校から大学まではエスカレーター式なのでいる可能性は高い方だと思うが、それでも彼女が外部受験をしていれば即刻アウトだ。
もしいなかったとしても、見つけ出すまで諦める予定はないのだが、それでも、僅かな希望にかけたい思いがあった。
きっと、彼女ならこの大学に進学するはずだと。
思い出の中の彼女と進路の話をしていた時、必ず俺を追いかけると約束した。
彼女が無意識的にでも、記憶の片隅で俺のことを覚えててくれてたのなら…間違いなくここにいるはずだと。
しかしこれだけの人数を注意しながら見続けるのは流石に大変だ。
由紀の顔、表情、声、俺にとってはまだどれも鮮明に覚えているが、これだけの集団の中からただ一人を見つけることが出来るだろうか。
だが、そんな不安はすぐに杞憂へと変わる。
人込みの中からでも、はっきりとこちらまで届いた一つの声。
その場で立ち上がって目を凝らし、目的の人物を探しながら幻聴ではないことを願った。
…見つけた。
スーツ姿の彼女は楽しそうな笑顔を浮かべて、友人と会話をしながら体育館の方へと向かっていく。
正直、今すぐにでも走って駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたが、今彼女の中に俺という人物は存在していない。
それこそ、不審者扱いで逮捕。さすがにそこまで馬鹿ではない。
俺の気持ちを他所に、彼女は体育館の中へと姿を消す。
頭ではわかっていても、油断すれば勝手に足が動きそうだった。
拳にぐっと力を入れ、衝動に耐える。
今走りだせば確実に手の届く範囲に彼女はいるのに触れられない。
もどかしさを感じつつ、理性が本能に負けないうちにとその場を立ち去った。
彼女が同じ大学にいるとわかり、学科を調べ、自分の学科との共通の科目を洗い出して迷わず選択。
あとは話しかけるタイミングを慎重に考えるはずだったのだが、その日はいともあっさりとやってきた。
「…出遅れたか」
講堂に入る扉の前で1度深く息を吐く。
彼女と共通科目の授業だけは遅れないようにと気をつけていたのだが、まんまと寝坊し1限の授業に遅れた。
慌てて家を出て来たこともあり、よりにもよって教科書まで忘れてきている。
しかもこの授業は教科書がないと話についていくのがほとほと難しいことで有名だ。
扉の奥からは、マイクを通し教授の声がしんと静まり返ったこの空間までよく聞こえてくる。
いっそ今日はさぼってしまそうか。
そんな悪魔の囁きが聞こえ一瞬迷ったが、彼女がいる空間に1分でも1秒でも長く共有したいという想いの方が勝ち、ようやく扉に手をかけた。
周りの迷惑になるべくならないように扉を静かに開け、さっと近くの空いている席に座る。
ふうと一息つき、何の気なしに自身の左側の席に目を向けて驚く。
鼓動がどくんと大きく1つ鳴るのと、どくどくと波打ち始めたのはほぼ同時だった。
彼女が、すぐ横で一人で座って授業を受けていた。
こんな偶然、あるだろうか。
すると、俺の視線に気づいた彼女が少しこちらを振り向いた。
「…っ」
久しぶりに真っすぐに視線があい、戸惑いと、感激とで何か声をかけたかったが思うように発することが出来ない。
そうこうしているうちに、彼女の表情がすっと陰りを帯び、視線が逸れる。
この表情は知っている、由紀の機嫌が悪い、もしくは何かに怒っている時の表情だ。
最初に視線があったときにはそんな様子はなかったので、おそらく後者だろう。
これではいけない、とこちらから声をかけ原因を探る。
教科書を忘れて来たので見せてほしいと言えば、あからさまに嫌そうな表情を浮かべながら渋々、嫌々といった様子で仕方がないと二人の丁度真ん中あたりに教科書が広げられた。
講義の終了を告げるチャイムが鳴ると、彼女は俺にお礼を言わせる間もなく早々に荷物を片付けて講堂から走り去った。
よほど俺のことが嫌だったのだろう。
少しばかりショックを受けたが、今はそんなこと気にしている場合ではない。
このまま逃がすわけにはいかなかった。
今追いかけなければ、もう二度と彼女との関係は修復できないような気がした。
がたりと音を立てて椅子から立ち上がり、彼女の背中を必死に追う。
リハビリの甲斐もあって日常生活は送ることができるようになったが、走ったり運動したりといったことにはまだ体が慣れ切っていないようだった。
息が切れる、足もおもうように前に進まない。でも彼女の姿を見失わないように追いかける。
「待てって…っ!」
講堂を出て廊下を抜けると中庭に出る。そこでようやく彼女に追いついた。
必死に掴んだ彼女の手首。そこから直に伝わる本物の熱に涙が出そうになったが何とかぐっと堪えた。
焦るな、焦るな。
ここからが、詐欺師の異名をもつ俺の腕の見せ所。
もう一度お前さんの隣を一緒に歩けるようになるのなら、初対面のふりでも何でも、仲の良い親友でも演じ切って見せる。
俺のことを思い出すその瞬間まで。
今は、病院でのリハビリを終えて自宅に戻り、夕食をとっている。
ダイニングテーブルには、自分の好物が連日のように並ぶ。
無理して毎日のように自分の好きなものを用意しなくてもいいのだと母親にそれとなく伝えたのだが、私がそうしたいだけなのと嬉しそうに笑って言うだけだった。
今日は父も姉弟たちも帰りが遅くなるらしく、母親と二人で先に食卓を囲む。
他愛もない会話をしながら、由紀のことを思い出していた。
事故に遭う前はよく家に遊びに来ていた。
俺が部活で疲れて眠ってしまった時なんかは、いつのまにか一人で1階に降りて行き、母親と楽しそうに話をしていたり、はたまた一緒に夕食を作ったりなんてこともしばしばあった。
姉は母親と一緒に料理をするようなタイプではなかったので、由紀に料理を教えている時とても楽しそうだったのをよく覚えている。
おそらく素直で明るい性格の彼女のことを気に入っていたと思うのだが、俺が目覚めて以来一度もその名を口にしたことがないことにふと気がついた。
もしかしたら俺に余計な気を遣わせまいとあえてその名は口に出さないようにしているのかもしれないと思い、そういえば…と話を切り出すことにした。
「のお、由紀のことなんじゃけど」
「え?」
「俺の彼女。何回か連れて来たことがあったじゃろ」
俺の問いかけに、首をかしげて悩む素振りを見せる。
そして、次に発した母親の言葉に、衝撃を受けることになる。
「由紀ちゃんなんて、家に来たことあったかしら?」
背筋が凍りつくように冷たくなるのを感じた。
由紀は今までうちの母親に何度も会っている。なのに、たった1年半で忘れるなんておかしい。
一緒に料理をしたことや、夕食を食べたことなど詳しく説明しても全く覚えがないの一点張り。
しかし、母嫌が冗談でそんなことを言っているようには到底見えなかった。
「その子‥あなたの夢、とかじゃなくて?」
心配そうな表情で俺に問いかける。
これ以上は心配させるだけだと悟り、こちらが折れることに決めた。
「…はは、そうかもしれんのう、すまん。忘れてくれ」
そんなわけがあるか、と言いたくなった言葉は飲み込んで早々に食事をすませて自室へ戻る。
まだまだふらふらと足元がおぼつかないが、この数日でゆっくりとなら自室までなら歩けるようになった。
ベッドに身体ごと倒れこみ、彼女の顔と彼女と過ごした日々のことを思い出す。
大丈夫、俺はまだつい昨日まで一緒だったかと思うほど鮮明に覚えている。
しかし、何とも奇妙な違和感が全身をめぐっていた。
階段の下から聞こえる、俺の名前を呼ぶ母親の声でふと目が覚めた。
ベッドから身体を起こして周囲を見回すと、外はすっかり暗くなってしまっており当然部屋の電気も点いていなかった。
すると、突如背後からガチャリと自室のドアが開く音がした。同時に部屋に明かりが灯る。
眩しさに手で目を覆うと、複数の足音が耳に響いた。
「よっ」
「仁王君、お元気でしたか」
聞きなれた友人たちの声。
眩む視界の中少しずつ目を開くと、目の前に現れたのはかつてのチームメイトの丸井ブン太と柳生比呂士だった。
二人は定期的に目覚めない俺の見舞いに足を運んでくれていたらしい。
今日の昼間、病院に行くと看護師から俺の意識が戻り退院したことを聞いて駆け付けてくれたとのことだ。
まじまじと二人を交互に見やる。
自分の記憶の中の二人よりほんの少し大人びた姿を見て、改めて時間の流れを実感した。
ブン太はどかっと俺のベッドに腰かけ、柳生は床に座る。
自分の意識が戻らなかったこの1年半の間の出来事をブン太が次から次へと話し、柳生が相槌をうったり時々補足を加えるという昔から変わらない一連の流れ。
相変わらずの二人の様子に安堵をしたのも束の間、ややしばらくしてその違和感に気が付く。
由紀の話題が1度も出てこない。
同じ学校の同級生、ましてや友人の彼女となれば知らないはずがない。
先ほどの母親のあの反応も気になる。
もしかして、まさか、そんな言葉が頭を過り握られた拳に自然に力が入る。
「…のお、ブン太、柳生」
どくんどくんと心臓が嫌な音を立てる。
これでいよいよ、仮説が現実となってしまうかもしれないと思うと、これから自分が紡ごうとしている言葉を発することが怖い。
急に改まった様子の俺に、二人は何事かと顔を見合わせる。
すっと軽く息を吸う。
「お前さんら由紀って、覚えとらんか」
部屋がしんと静まり返る。
丸井が先に、んーと考える素振りを見せる。
俺には、そのブン太の反応で二人の返答がわかってしまっていた。
「悪ぃ、誰だっけ?」
「そうですね、私も聞き覚えがありませんね」
予想はしていたとはいえ、やはり直接そう言われるとショックなものだ。
それと同時に、仮説は確信へと変わった。
俺以外から“由紀の記憶”が消えている。
どうやら、俺自身が思っていたより“罰”というものは残酷に俺に振りかかっていたようだ。
しかし、じゃあ由紀はどこに行ってしまったのだというのだろうか。
同じ学校にいれば、先生なりそのへんのやつらなり…誰かしらが知っているはず。
仮に俺と関わる記憶が消えていたとしても、さすがに存在自体がなくなるなんてことはないだろう。
この違和感の正体は何だ、もやもやする。
本当に、由紀に関する記憶が皆から消えただけなのか?
ぐるぐると自問自答をしているところに、柳生が口を開く。
「そういえば仁王君、君がもう少し落ち着いたらテニス部の後輩たちがお見舞いに来たいとおっしゃっていましたよ」
「あぁ別に…こんなんでもよけりゃ構わんのに。どうせ真田あたりが気をまわして…」
「真田って誰だよ」
ぴしりと、一筋の電流が走ったようだった。
そう言ったブン太の顔を見ると、なんだよ…俺変なこと言ったか?と不思議そうな顔でこちらを見る。
「…それ、冗談じゃろ」
「いいえ、少なくともうちの学校には真田さんというテニス部員はいなかったと思います。隣町の高校のテニス部にそんな方がいらっしゃったと思いますが…」
「お前さっきから大丈夫か?混乱してんじゃねぇの?それに、立海“南”高校テニス部の3年は俺たちしかいなかったろぃ」
「立海…南?」
何が…起きている。
真田だけじゃない。
柳、幸村、ジャッカル、みんな中等部から立海大附属高校へ進学したはずだ。
大学だって、そのまま立海大へ進んだはず。
「なぁ、俺は…お前さんらは、どこの大学に通っとる」
「…私たちも仁王君も立海大学を受験したじゃないですか」
「せっかく苦労して3人一緒に受かったのに事故に遭っちまうしよ…まぁ、混乱するのも無理ねぇよな」
状況が、少しだけ飲み込めて来た。
それと同時に先ほどまでもやもやしていた違和感の正体にも気づく。
俺以外から“由紀の記憶”が消えているだけじゃない。
そもそも由紀とは出会っていないことになっているし、立海大附属に俺たちは“いなかった”ことになっている。
すなわち、皆の記憶から消えたのは俺たち3人の方だったのだ。
俺は、今初めて後悔の念にかられている。
自分のとった行動で、二人からテニス部だった時の思い出も友人も全て奪い去ってしまったのだ。
厳しい練習に耐えてきたことも、部活帰りに皆で寄り道したことも、高等部で全国制覇を成し遂げたことも。
俺だけが覚えていて、二人の中では全て無かったことにしてしまった。
誰の情けなのか、柳生と丸井だけは俺に残してくれたようだが…それならいっそ、俺だけが皆の記憶から消えればよかったのに。
「…すまん、柳生、ブン太」
もう一度すまん、と声を絞り出すと柳生もブン太も何のことかと顔を見合わせて笑う。
「らしくないですよ」
「長く寝すぎて頭ん中ごちゃごちゃになってんだろぃ。すぐよくなるって」
涙は出なかった。
しかし、無意識に握りしめていた拳を指摘されほどくと、手の平には爪痕とその形に沿った血ががくっきりと滲んでいた。
僅かな後悔と、重い罪悪感が押し寄せる。
自分に何か、出来ることはないのだろうか。
翌年の春、痛みと辛さに耐えたリハビリをこなし、大学1年生からやりなおすことにはなったが晴れてまた大学へ通うことができることになった。
休学扱いで学年が1つ下がるというだけなので入学式には参加する必要はない。
だがもしも、彼女がこの大学に進んでいれば今年の1年のはずなのでこの式典に出席しているはずだと踏み彼女の姿を見つけるための目的だけに、大きな体育館の傍の木陰に座り人波の様子を目を凝らしてうかがう。
彼女がこの大学にいる確証はどこにもない。
立海大附属高校から大学まではエスカレーター式なのでいる可能性は高い方だと思うが、それでも彼女が外部受験をしていれば即刻アウトだ。
もしいなかったとしても、見つけ出すまで諦める予定はないのだが、それでも、僅かな希望にかけたい思いがあった。
きっと、彼女ならこの大学に進学するはずだと。
思い出の中の彼女と進路の話をしていた時、必ず俺を追いかけると約束した。
彼女が無意識的にでも、記憶の片隅で俺のことを覚えててくれてたのなら…間違いなくここにいるはずだと。
しかしこれだけの人数を注意しながら見続けるのは流石に大変だ。
由紀の顔、表情、声、俺にとってはまだどれも鮮明に覚えているが、これだけの集団の中からただ一人を見つけることが出来るだろうか。
だが、そんな不安はすぐに杞憂へと変わる。
人込みの中からでも、はっきりとこちらまで届いた一つの声。
その場で立ち上がって目を凝らし、目的の人物を探しながら幻聴ではないことを願った。
…見つけた。
スーツ姿の彼女は楽しそうな笑顔を浮かべて、友人と会話をしながら体育館の方へと向かっていく。
正直、今すぐにでも走って駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたが、今彼女の中に俺という人物は存在していない。
それこそ、不審者扱いで逮捕。さすがにそこまで馬鹿ではない。
俺の気持ちを他所に、彼女は体育館の中へと姿を消す。
頭ではわかっていても、油断すれば勝手に足が動きそうだった。
拳にぐっと力を入れ、衝動に耐える。
今走りだせば確実に手の届く範囲に彼女はいるのに触れられない。
もどかしさを感じつつ、理性が本能に負けないうちにとその場を立ち去った。
彼女が同じ大学にいるとわかり、学科を調べ、自分の学科との共通の科目を洗い出して迷わず選択。
あとは話しかけるタイミングを慎重に考えるはずだったのだが、その日はいともあっさりとやってきた。
「…出遅れたか」
講堂に入る扉の前で1度深く息を吐く。
彼女と共通科目の授業だけは遅れないようにと気をつけていたのだが、まんまと寝坊し1限の授業に遅れた。
慌てて家を出て来たこともあり、よりにもよって教科書まで忘れてきている。
しかもこの授業は教科書がないと話についていくのがほとほと難しいことで有名だ。
扉の奥からは、マイクを通し教授の声がしんと静まり返ったこの空間までよく聞こえてくる。
いっそ今日はさぼってしまそうか。
そんな悪魔の囁きが聞こえ一瞬迷ったが、彼女がいる空間に1分でも1秒でも長く共有したいという想いの方が勝ち、ようやく扉に手をかけた。
周りの迷惑になるべくならないように扉を静かに開け、さっと近くの空いている席に座る。
ふうと一息つき、何の気なしに自身の左側の席に目を向けて驚く。
鼓動がどくんと大きく1つ鳴るのと、どくどくと波打ち始めたのはほぼ同時だった。
彼女が、すぐ横で一人で座って授業を受けていた。
こんな偶然、あるだろうか。
すると、俺の視線に気づいた彼女が少しこちらを振り向いた。
「…っ」
久しぶりに真っすぐに視線があい、戸惑いと、感激とで何か声をかけたかったが思うように発することが出来ない。
そうこうしているうちに、彼女の表情がすっと陰りを帯び、視線が逸れる。
この表情は知っている、由紀の機嫌が悪い、もしくは何かに怒っている時の表情だ。
最初に視線があったときにはそんな様子はなかったので、おそらく後者だろう。
これではいけない、とこちらから声をかけ原因を探る。
教科書を忘れて来たので見せてほしいと言えば、あからさまに嫌そうな表情を浮かべながら渋々、嫌々といった様子で仕方がないと二人の丁度真ん中あたりに教科書が広げられた。
講義の終了を告げるチャイムが鳴ると、彼女は俺にお礼を言わせる間もなく早々に荷物を片付けて講堂から走り去った。
よほど俺のことが嫌だったのだろう。
少しばかりショックを受けたが、今はそんなこと気にしている場合ではない。
このまま逃がすわけにはいかなかった。
今追いかけなければ、もう二度と彼女との関係は修復できないような気がした。
がたりと音を立てて椅子から立ち上がり、彼女の背中を必死に追う。
リハビリの甲斐もあって日常生活は送ることができるようになったが、走ったり運動したりといったことにはまだ体が慣れ切っていないようだった。
息が切れる、足もおもうように前に進まない。でも彼女の姿を見失わないように追いかける。
「待てって…っ!」
講堂を出て廊下を抜けると中庭に出る。そこでようやく彼女に追いついた。
必死に掴んだ彼女の手首。そこから直に伝わる本物の熱に涙が出そうになったが何とかぐっと堪えた。
焦るな、焦るな。
ここからが、詐欺師の異名をもつ俺の腕の見せ所。
もう一度お前さんの隣を一緒に歩けるようになるのなら、初対面のふりでも何でも、仲の良い親友でも演じ切って見せる。
俺のことを思い出すその瞬間まで。
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