虹色トレイン
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薄く目を開くと、ぼんやりとした視界の中で遠くに動く影が複数見えた。
身体は鉛のように重く、手足も動かない。
かろうじて動く目線だけを頼りに、自分の今置かれている状況を把握しようと努めた。
辺りには様々な医療器具が設置されており、自分の傍にもたくさんの機械が置かれている。
白いカーテン、鼻をつくツンとした独特の薬品の香り。
恐らく、ここは病院なのだろうとまだはっきりとはしない意識の中でぼんやりと考えていた。
傍にいた看護師らしき女性が私が目を開けたことを確認すると慌てた様子で誰かを呼びにいく姿が見える。
何分も経たずして、医者の男性らしき人物と、その後ろに見慣れた両親の顔が視界に入った。
両親は、泣きながら私の手を力強く握った。
周囲が話している内容から、何となく自分が置かれた状況を理解してきた。
私はあの日バスに乗っていて事故に遭った。
居眠り運転をしていたトラックドライバーがハンドル操作を誤り交差点に進入、そのままブレーキをかけることなく一直線に私たちの乗っていたバスへ突っ込んだそうだ。
事故の現場は悲惨なもので、乗客のほとんどが即死または意識不明の重体で、私もそんな中の一人。
意識が回復することの方が奇跡、と言われたほどにいつ死んでもおかしくない状況だったらしい。
数日たって両親から聞いた話によると、私自身は事故のあった日から4日目に意識を取り戻したそうだが、2日前にも乗客の男性の一人が意識を取り戻していたそうだ。
あの事故で一命をとりとめたのはその男性と、私の2人だけで他に乗っていた乗客は全員亡くなってしまったらしい。
後日、後遺症もなく無事に退院の日を迎えた日の夕方、両親とともにあの事故の現場に出向きお花を供えた。
事故現場へ向かう途中、あの日小さな女の子が一緒に乗っていたことを思い出してお菓子も一緒に供えた。
ただ思い出せずにいることが1つだけある。
それは、私があの日どうしてあのバスに乗っていたのかということだ。
何のために、どこに向かおうとしていたのか、両親や病院の先生に聞かれても全く思い出すことが出来なかった。
周りは不思議がっていたが、あれだけ大きな事故だったのだ、思い出せないことの1つや2つあったとところでどうでもいいといった空気になり、私自身も忘れるぐらいのきっと大した用事ではなかったのだと思うことにした。
時は流れて、2年後の春。
私は晴れて、地元の大学の1年生となった。
元々、大学までのエスカレーター式の高校に通っていたこともあったというのもあるが、ここから離れたくないという強い気持ちがあり地元に残ることに決めた。
私は、2年前の事故の時に思い出せなかった記憶の一部のことを未だにずるずると引きずっている。
地元を離れてしまったら最後、もうあの忘れてしまった記憶を思い出すことは出来ないような気がしたからだ。
事故当時は、大した用事ではなかったのだろうと納得したが、後々になってどうしてもあの日私がただなんとなくバスに乗っていたとは思えなかった。
私は何か大事な、すごく大切なことを忘れてしまっているままのような気がする。
ぽっかりと体の一部部分に穴があき続けているようなそんな感覚だ。
入学式を終え、数日後には講義が始まった。
今日の講義はたまたま仲の良い友人が選択していない科目だったので、空いていた右側前方5列目の一番端の席に座る。
講義が始まって数分後、板書に集中している際中に私から見て右側のドアが静かに薄く開かれ、意識がそちらの方へ向く。
目線をすぐに黒板へ戻し、遅刻組が遅れて来たのかなぐらいの認識でぼんやり考えていると、人の気配が徐々に近づいてくるのを感じた。
気配のした右側を振り向くと、男性が一人私の横に座っていた。
おそらく、先ほどの遅刻して来た人物だろう。
男性はキレ長の瞳で大人っぽい独特の雰囲気を纏っており、思わず目を惹いた。
今日の講義は1年生だけのはずなのだが、こんな生徒入学式の時にいただろうか。
これだけ目立つ容姿をしていれば、気づきそうなものだが…とも考えたがきっと私が見落としていただけだろう。
男性は私の視線に気が付き、こちらをちらりと目る。
「…っ」
瞬間、男性は一瞬驚いた様子で目を見開く。
まるで…人の顔をお化けでもみるかのように。
全く失礼な男性だ。
気分を害した私は、ふいとまた黒板の方に視線を戻す。
ややしばらく講義に集中していると右側からトントンと軽く机を叩かれる。
何かと思い振り向けば、先ほどの失礼な男性が両手を顔の前で小さく合わせ小声で話しかけてきた。
「すまん、教科書見せてくれんか。忘れてきた」
「……」
この見ず知らずの男のせいで気分を害したばかりなので本当は見せたくなかったのだが、確かにこの講義は教科書がないと話についていくのが難しい。
「…どうぞ」
渋々、彼との距離をつめて教科書を二人の間に広げる。
ありがとな、と言って見せた笑顔に何だか不思議と覚えがあるような気がした。
講義が終わり、早々に教科書を片付けで席を立つ。
ちょっと待てと先ほどの男性に呼び止められたが、私は彼のせいで大変気分を害していたので無視して足早に講堂を出た。
廊下を駆け足気味で歩いていると、背後から待てって!と声がかかり手首をぐっと掴まれる。
「お前さん、ちと早すぎないか」
ぜえぜえと息切れしながらも、男性は私の手首を離す気はないようだった。
それにしても、そんなに息が切れるほどの移動距離だっただろうか。
「あの、大丈夫ですか。具合悪そうですけど」
「ん?あぁ…病み上がりっちゅうやつでの。2年間まともに身体を動かしてなかったからこのざまじゃ」
ふうと大きく一息つき、心配してくれんのか?と悪戯に笑う男性に私はまた少し気分を害す。
この人と会話をしていると、なんだか心配していたことが損したように感じられる。
「…私怒ってるんですよ。最初、人の顔見るなり幽霊でも見たような顔をして…今だって心配してるのに…」
そう言うと、男性は少し真面目な表情になって私を瞳を真っ直ぐに見た。
「そうか…嫌な気分にさせてたか。お前さんが昔の知人にえらく似ておっての。すっかりそのノリで話してしまって…すまんの。機嫌直してくれんか」
ぽんぽんと男性は私の頭を撫でる。
まるで子供扱いの行動に一瞬むっとしたが、不思議と嫌悪感はなかった。
むしろ…妙ななつかしささえ覚えた。
それからというもの、彼とは不思議と講義が重なる機会が多く、私の姿を見つけては近くの座席に座るようになった。
最初は何故私なんかに構うのかと疑問ー持ちながら渋々会話に付き合っていたのだが、徐々に他愛もない話をするような関係になった。
彼の名前は仁王雅治といい、年齢は私よりも2歳年上だ。
出会ってすぐに入学式に来ていなかったことを指摘すると、彼は19歳で大学生になったばかりの頃に、大きな交通事故に巻き込まれて、1年半もの間意識が戻らなかったらしい。
昨年の秋頃に意識を奇跡的に取り戻したが、普通の生活に戻るためのリハビリに思っていた以上の時間がかかり、晴れて今年の春よりまた大学1年生からやり直すことになったそうだ。
第一印象こそ最悪だったが、一緒に過ごす時間が増えるにつれ彼が意外と面倒見がよい一面がうかがえたり、優しい部分も見えたりして、隣にいることが居心地よく感じるようになっていた。
夏が過ぎ、秋になる頃には大学で友人と一緒に過ごす時間以外のほとんどを彼と一緒に過ごすようになっていた。
はた目から見れば、まるで付き合っていると思われてもおかしくないほど私と彼の距離感は近くなっていた。
でも、好きだとか、付き合おうだとか、そういったたぐいのことをお互いに言ったことはなかった。
それはきっと、私が2年前に置いてきてしまった記憶の一部を今も未練がましく引きずっていることが原因だ。
記憶の彼方に忘れてきてしまった大切なモノ…ヒトだったかもれないが
それを思い出すまでは私の気持ちは頑なに動かないだろうことを、彼も理解してくれていた。
季節は巡り、また春。
うららかな陽気に包まれ、桜が満開に咲き誇る春休みの最終日に、私は今自宅近くの公園の噴水前で愛犬を連れて立っている。
この子は私が小さい頃に河原で拾ってきた捨て犬だったが、すくすくと大きくなり今でも元気に走り回っている。
名前の由来は何故だか思い出せないのだが、何か大切な願いをこめてこの名前をつけた気がする。
犬を飼っていることを彼に伝えると、会ってみたいというので今日は散歩に付き合ってもらうことになっている。
予定時刻の5分前になると、向こうの方から彼が手をひらひらとしながらゆっくりと歩いてくる。
「神崎、待たせたかの」
「ううん、仁王君こそわざわざ家の近くまで来てくれてありがとう」
「お前さんの犬に会いたいって言いだしたのは俺の方じゃけの」
どれどれと犬の前にしゃがみ込み、頭をわしゃわしゃと撫でまわす。
愛犬の方も心地よいのか目を細め、すでに彼に懐いている様子だ。
「仁王君凄いね。コウは大人しい子だけど、初対面の人にはあまり懐かないのに…」
「…ほお、なるほどな」
二人の間を少し強い風が吹き抜ける。
意味深な彼の言動に、なんだか胸の奥がざわつく感じがした。
「こいつは虹、とかいてコウじゃろ」
「なんで…知って…」
コウが虹とかいてコウと読むということは、私しか知らないはず。
なのに何故、彼は知っているのだろう。
「お前だけはちゃんと俺のこと覚えとってくれたんじゃな」
わしわしとまた頭を撫でれば、コウは彼にすり寄ってくんくんと鳴いた。
この鳴き方には、覚えがある。
それは確か、コウを拾った時に…
私は、どうやってコウを見つけたんだっけ。
確かあの日、河原の傍でダンボールを…
誰が見つけたんだっけ?
…私?
いや、誰かもう一人傍にいたような
「…っ」
突如、頭に電流が走ったかのような衝撃を受ける。
ぎりぎりと割れるように痛い。
それと同時に何か、何かがそこまで出かかっている。
何が?
もしかしてこれが、失くした記憶の一部…
「神崎!おい、どうしたしっかりしろ!」
彼は、痛みに耐え倒れそうになっている私の身体を優しく支えてくれている。
コウは異様な様子に、心配そうに見上げ黙って私たちの様子を見守っていた。
『記憶は思ったよりも根深い。一度記憶したことは忘れてもちょっとした拍子で思い出してしまう』
誰かが言ったその言葉が脳内に響き、痛みはさらにずきずきと増していく。
「痛…っい 車掌さ…っ」
「…!記憶が…」
吐きそうだ、視界がぐらぐらする。自分が何を発しているのかもわからない。
私は、何かを思い出しかけているのだろうか。
「頼む…耐えてくれ…っ 由紀」
パキリ
彼が私の名前を呼んだ瞬間、
何かが割れる音がしたような気がした。
突如、崩壊したダムのように流れ込んでくる大量の記憶。
『いつかこの子に会いに来て!約束』
帰宅途中に河原でコウを一緒に見つけた男の子と、また会おうと約束をした。
『お客様、お顔を拝見』
『じゃぁ俺からの宿題』
妙な列車で車掌さんと出会って、次々に宿題を出されては考え、答えを見つけてきた。
『俺はどうも、お前さんが赤の他人とは思えんかった』
『…っ 頼む、聞き分けてくれ』
自分を犠牲にしてまで、私が生きて帰る手助けをしてくれた。
『どこにいても必ず見つけるから!待ってて…っ雅治…!』
別れ際に思い出した彼の名前、必ず見つけると約束した私
『雅治…っ 目を開けてよ…!』
病院のベッドの上に横たわる、最愛の人と泣き崩れる私。
その記憶のどれもこれにも、彼の姿があった。
最後に流れてきたのは、2年前の…私があの列車の中で思い出すことが出来なかった最後の記憶。
そうだ、私はあの日…17歳の夏の日。
交通事故で意識不明の重体となり、目を覚まさない大切な人のお見舞いに向かう途中で自らも事故に巻き込まれた。
そして、あの不思議な列車の中で彼は車掌として私の前に現れ、ずっと私を助けてくれていたのだ。
失くした記憶の波が途切れると同時に、すっとそれまで強烈に響いていた痛みが引いていく。
同時に、この2年間の間ずっと心に空いていた大きな穴が埋まるのも感じた。
そして今、私を支えてくれているこの人が私の何だったのか
どうして私にこんなに構うのか
どうしてこんなに懐かしさを感じるのか
時折感じていた疑問がようやく全て繋がった。
「…貴方に先に見つけられちゃいましたね、車掌さん」
「お前…」
私は彼の首に腕を回し、そっと抱きしめて、泣きそうになりながらも声を絞り出す。
「2年間…ずっと待ってたよ雅治…っ」
今目の前にいる、会いたくて、話したくてたまらなかった最愛の人。
どうして、こんなに大切なことを忘れてしまっていたのだろう。
「由紀…っ!」
でも今はただ、この暖かくて大きな腕に包まれていたい。
私も彼も、忘れて、離れていた空白の時間を埋めるかのように、涙を流しきつく抱き合った。
身体は鉛のように重く、手足も動かない。
かろうじて動く目線だけを頼りに、自分の今置かれている状況を把握しようと努めた。
辺りには様々な医療器具が設置されており、自分の傍にもたくさんの機械が置かれている。
白いカーテン、鼻をつくツンとした独特の薬品の香り。
恐らく、ここは病院なのだろうとまだはっきりとはしない意識の中でぼんやりと考えていた。
傍にいた看護師らしき女性が私が目を開けたことを確認すると慌てた様子で誰かを呼びにいく姿が見える。
何分も経たずして、医者の男性らしき人物と、その後ろに見慣れた両親の顔が視界に入った。
両親は、泣きながら私の手を力強く握った。
周囲が話している内容から、何となく自分が置かれた状況を理解してきた。
私はあの日バスに乗っていて事故に遭った。
居眠り運転をしていたトラックドライバーがハンドル操作を誤り交差点に進入、そのままブレーキをかけることなく一直線に私たちの乗っていたバスへ突っ込んだそうだ。
事故の現場は悲惨なもので、乗客のほとんどが即死または意識不明の重体で、私もそんな中の一人。
意識が回復することの方が奇跡、と言われたほどにいつ死んでもおかしくない状況だったらしい。
数日たって両親から聞いた話によると、私自身は事故のあった日から4日目に意識を取り戻したそうだが、2日前にも乗客の男性の一人が意識を取り戻していたそうだ。
あの事故で一命をとりとめたのはその男性と、私の2人だけで他に乗っていた乗客は全員亡くなってしまったらしい。
後日、後遺症もなく無事に退院の日を迎えた日の夕方、両親とともにあの事故の現場に出向きお花を供えた。
事故現場へ向かう途中、あの日小さな女の子が一緒に乗っていたことを思い出してお菓子も一緒に供えた。
ただ思い出せずにいることが1つだけある。
それは、私があの日どうしてあのバスに乗っていたのかということだ。
何のために、どこに向かおうとしていたのか、両親や病院の先生に聞かれても全く思い出すことが出来なかった。
周りは不思議がっていたが、あれだけ大きな事故だったのだ、思い出せないことの1つや2つあったとところでどうでもいいといった空気になり、私自身も忘れるぐらいのきっと大した用事ではなかったのだと思うことにした。
時は流れて、2年後の春。
私は晴れて、地元の大学の1年生となった。
元々、大学までのエスカレーター式の高校に通っていたこともあったというのもあるが、ここから離れたくないという強い気持ちがあり地元に残ることに決めた。
私は、2年前の事故の時に思い出せなかった記憶の一部のことを未だにずるずると引きずっている。
地元を離れてしまったら最後、もうあの忘れてしまった記憶を思い出すことは出来ないような気がしたからだ。
事故当時は、大した用事ではなかったのだろうと納得したが、後々になってどうしてもあの日私がただなんとなくバスに乗っていたとは思えなかった。
私は何か大事な、すごく大切なことを忘れてしまっているままのような気がする。
ぽっかりと体の一部部分に穴があき続けているようなそんな感覚だ。
入学式を終え、数日後には講義が始まった。
今日の講義はたまたま仲の良い友人が選択していない科目だったので、空いていた右側前方5列目の一番端の席に座る。
講義が始まって数分後、板書に集中している際中に私から見て右側のドアが静かに薄く開かれ、意識がそちらの方へ向く。
目線をすぐに黒板へ戻し、遅刻組が遅れて来たのかなぐらいの認識でぼんやり考えていると、人の気配が徐々に近づいてくるのを感じた。
気配のした右側を振り向くと、男性が一人私の横に座っていた。
おそらく、先ほどの遅刻して来た人物だろう。
男性はキレ長の瞳で大人っぽい独特の雰囲気を纏っており、思わず目を惹いた。
今日の講義は1年生だけのはずなのだが、こんな生徒入学式の時にいただろうか。
これだけ目立つ容姿をしていれば、気づきそうなものだが…とも考えたがきっと私が見落としていただけだろう。
男性は私の視線に気が付き、こちらをちらりと目る。
「…っ」
瞬間、男性は一瞬驚いた様子で目を見開く。
まるで…人の顔をお化けでもみるかのように。
全く失礼な男性だ。
気分を害した私は、ふいとまた黒板の方に視線を戻す。
ややしばらく講義に集中していると右側からトントンと軽く机を叩かれる。
何かと思い振り向けば、先ほどの失礼な男性が両手を顔の前で小さく合わせ小声で話しかけてきた。
「すまん、教科書見せてくれんか。忘れてきた」
「……」
この見ず知らずの男のせいで気分を害したばかりなので本当は見せたくなかったのだが、確かにこの講義は教科書がないと話についていくのが難しい。
「…どうぞ」
渋々、彼との距離をつめて教科書を二人の間に広げる。
ありがとな、と言って見せた笑顔に何だか不思議と覚えがあるような気がした。
講義が終わり、早々に教科書を片付けで席を立つ。
ちょっと待てと先ほどの男性に呼び止められたが、私は彼のせいで大変気分を害していたので無視して足早に講堂を出た。
廊下を駆け足気味で歩いていると、背後から待てって!と声がかかり手首をぐっと掴まれる。
「お前さん、ちと早すぎないか」
ぜえぜえと息切れしながらも、男性は私の手首を離す気はないようだった。
それにしても、そんなに息が切れるほどの移動距離だっただろうか。
「あの、大丈夫ですか。具合悪そうですけど」
「ん?あぁ…病み上がりっちゅうやつでの。2年間まともに身体を動かしてなかったからこのざまじゃ」
ふうと大きく一息つき、心配してくれんのか?と悪戯に笑う男性に私はまた少し気分を害す。
この人と会話をしていると、なんだか心配していたことが損したように感じられる。
「…私怒ってるんですよ。最初、人の顔見るなり幽霊でも見たような顔をして…今だって心配してるのに…」
そう言うと、男性は少し真面目な表情になって私を瞳を真っ直ぐに見た。
「そうか…嫌な気分にさせてたか。お前さんが昔の知人にえらく似ておっての。すっかりそのノリで話してしまって…すまんの。機嫌直してくれんか」
ぽんぽんと男性は私の頭を撫でる。
まるで子供扱いの行動に一瞬むっとしたが、不思議と嫌悪感はなかった。
むしろ…妙ななつかしささえ覚えた。
それからというもの、彼とは不思議と講義が重なる機会が多く、私の姿を見つけては近くの座席に座るようになった。
最初は何故私なんかに構うのかと疑問ー持ちながら渋々会話に付き合っていたのだが、徐々に他愛もない話をするような関係になった。
彼の名前は仁王雅治といい、年齢は私よりも2歳年上だ。
出会ってすぐに入学式に来ていなかったことを指摘すると、彼は19歳で大学生になったばかりの頃に、大きな交通事故に巻き込まれて、1年半もの間意識が戻らなかったらしい。
昨年の秋頃に意識を奇跡的に取り戻したが、普通の生活に戻るためのリハビリに思っていた以上の時間がかかり、晴れて今年の春よりまた大学1年生からやり直すことになったそうだ。
第一印象こそ最悪だったが、一緒に過ごす時間が増えるにつれ彼が意外と面倒見がよい一面がうかがえたり、優しい部分も見えたりして、隣にいることが居心地よく感じるようになっていた。
夏が過ぎ、秋になる頃には大学で友人と一緒に過ごす時間以外のほとんどを彼と一緒に過ごすようになっていた。
はた目から見れば、まるで付き合っていると思われてもおかしくないほど私と彼の距離感は近くなっていた。
でも、好きだとか、付き合おうだとか、そういったたぐいのことをお互いに言ったことはなかった。
それはきっと、私が2年前に置いてきてしまった記憶の一部を今も未練がましく引きずっていることが原因だ。
記憶の彼方に忘れてきてしまった大切なモノ…ヒトだったかもれないが
それを思い出すまでは私の気持ちは頑なに動かないだろうことを、彼も理解してくれていた。
季節は巡り、また春。
うららかな陽気に包まれ、桜が満開に咲き誇る春休みの最終日に、私は今自宅近くの公園の噴水前で愛犬を連れて立っている。
この子は私が小さい頃に河原で拾ってきた捨て犬だったが、すくすくと大きくなり今でも元気に走り回っている。
名前の由来は何故だか思い出せないのだが、何か大切な願いをこめてこの名前をつけた気がする。
犬を飼っていることを彼に伝えると、会ってみたいというので今日は散歩に付き合ってもらうことになっている。
予定時刻の5分前になると、向こうの方から彼が手をひらひらとしながらゆっくりと歩いてくる。
「神崎、待たせたかの」
「ううん、仁王君こそわざわざ家の近くまで来てくれてありがとう」
「お前さんの犬に会いたいって言いだしたのは俺の方じゃけの」
どれどれと犬の前にしゃがみ込み、頭をわしゃわしゃと撫でまわす。
愛犬の方も心地よいのか目を細め、すでに彼に懐いている様子だ。
「仁王君凄いね。コウは大人しい子だけど、初対面の人にはあまり懐かないのに…」
「…ほお、なるほどな」
二人の間を少し強い風が吹き抜ける。
意味深な彼の言動に、なんだか胸の奥がざわつく感じがした。
「こいつは虹、とかいてコウじゃろ」
「なんで…知って…」
コウが虹とかいてコウと読むということは、私しか知らないはず。
なのに何故、彼は知っているのだろう。
「お前だけはちゃんと俺のこと覚えとってくれたんじゃな」
わしわしとまた頭を撫でれば、コウは彼にすり寄ってくんくんと鳴いた。
この鳴き方には、覚えがある。
それは確か、コウを拾った時に…
私は、どうやってコウを見つけたんだっけ。
確かあの日、河原の傍でダンボールを…
誰が見つけたんだっけ?
…私?
いや、誰かもう一人傍にいたような
「…っ」
突如、頭に電流が走ったかのような衝撃を受ける。
ぎりぎりと割れるように痛い。
それと同時に何か、何かがそこまで出かかっている。
何が?
もしかしてこれが、失くした記憶の一部…
「神崎!おい、どうしたしっかりしろ!」
彼は、痛みに耐え倒れそうになっている私の身体を優しく支えてくれている。
コウは異様な様子に、心配そうに見上げ黙って私たちの様子を見守っていた。
『記憶は思ったよりも根深い。一度記憶したことは忘れてもちょっとした拍子で思い出してしまう』
誰かが言ったその言葉が脳内に響き、痛みはさらにずきずきと増していく。
「痛…っい 車掌さ…っ」
「…!記憶が…」
吐きそうだ、視界がぐらぐらする。自分が何を発しているのかもわからない。
私は、何かを思い出しかけているのだろうか。
「頼む…耐えてくれ…っ 由紀」
パキリ
彼が私の名前を呼んだ瞬間、
何かが割れる音がしたような気がした。
突如、崩壊したダムのように流れ込んでくる大量の記憶。
『いつかこの子に会いに来て!約束』
帰宅途中に河原でコウを一緒に見つけた男の子と、また会おうと約束をした。
『お客様、お顔を拝見』
『じゃぁ俺からの宿題』
妙な列車で車掌さんと出会って、次々に宿題を出されては考え、答えを見つけてきた。
『俺はどうも、お前さんが赤の他人とは思えんかった』
『…っ 頼む、聞き分けてくれ』
自分を犠牲にしてまで、私が生きて帰る手助けをしてくれた。
『どこにいても必ず見つけるから!待ってて…っ雅治…!』
別れ際に思い出した彼の名前、必ず見つけると約束した私
『雅治…っ 目を開けてよ…!』
病院のベッドの上に横たわる、最愛の人と泣き崩れる私。
その記憶のどれもこれにも、彼の姿があった。
最後に流れてきたのは、2年前の…私があの列車の中で思い出すことが出来なかった最後の記憶。
そうだ、私はあの日…17歳の夏の日。
交通事故で意識不明の重体となり、目を覚まさない大切な人のお見舞いに向かう途中で自らも事故に巻き込まれた。
そして、あの不思議な列車の中で彼は車掌として私の前に現れ、ずっと私を助けてくれていたのだ。
失くした記憶の波が途切れると同時に、すっとそれまで強烈に響いていた痛みが引いていく。
同時に、この2年間の間ずっと心に空いていた大きな穴が埋まるのも感じた。
そして今、私を支えてくれているこの人が私の何だったのか
どうして私にこんなに構うのか
どうしてこんなに懐かしさを感じるのか
時折感じていた疑問がようやく全て繋がった。
「…貴方に先に見つけられちゃいましたね、車掌さん」
「お前…」
私は彼の首に腕を回し、そっと抱きしめて、泣きそうになりながらも声を絞り出す。
「2年間…ずっと待ってたよ雅治…っ」
今目の前にいる、会いたくて、話したくてたまらなかった最愛の人。
どうして、こんなに大切なことを忘れてしまっていたのだろう。
「由紀…っ!」
でも今はただ、この暖かくて大きな腕に包まれていたい。
私も彼も、忘れて、離れていた空白の時間を埋めるかのように、涙を流しきつく抱き合った。