虹色トレイン
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車掌室を出た後、私が一人で歩いて来た順路を少し速足気味に戻る。
先ほど自分の車両から車掌室に向かうまで乗客は一人もいなかったはずだが、車掌室から数えて4車両目…私が乗っていた隣の車両にはいつの間にか数名の乗客が増えていた。
「この列車は、不慮の事故により生死を彷徨っている魂を死の世界まで送り届ける、まぁ…魂の輸送列車と言ったところかの。車両は事故の案件ごとで分かれとる」
車掌の説明が事実なら、この車両の人たちも何かしらの事故に巻き込まれてここにたどり着いたということだろう。
先ほど見た自分の記憶から、薄々勘づいてはいたので事実を聞いても意外にも頭は冷静だった。
あまり驚く様子のない私が気にかかったのか、数歩前を歩いていた車掌はショックか?と一言添えて少し振り返り私の顔色を窺う。
「いえ。やっぱりそうかというのが本音です。つまり…私は死んだということでしょうか」
私の問いかけに、いいやと言って車掌は首を横に振る。
「まだ死んどらん。車両にあったカレンダーと時計を覚えとるか。あのカレンダーは乗車と同時に4日目からスタートし、0日目になるまでカウントダウンされる。0日目がゴール、すなわち無事に死の世界へ輸送完了っていう仕組みなり」
私がもしこの列車に来たばかりの頃の状態のまま何も行動を起こしていなかったら、あっという間に時間が流れ死んでしまっていたかもしれない。そう考えると背筋がぞっとした。
歩きながら車掌は説明を続ける。
「魂は、基本的に人間の生理的欲求、人だった時の思い出、時間の感覚そのすべてがない云わば無の存在。
お前さんにも覚えがあるじゃろ。ここに来たばかりの頃、無気力で、自分のことが何もわからないにも関わらずどうでもいいというような反応をしとった自分を。
自分の名前すらわからないことに疑問を持とうともせんかった。当然、生きたい、ましてや帰りたいなどと思いもせん。無とはそういうことよ」
自分が元居た車両にたどり着くと、乗客たちは先ほど私が座席を立った時とまるで同じ過ごし方をしている。
「車両同士は、繋がっているようで正確には別々の空間になっとる。魂は本来一人で車両同士の行き来は出来ん。仮に出来たとしても、異空間を彷徨うハメになる可能性が高い。お前さんが一人で車掌室まで来られたのは、俺の一部を持っていたおかげというわけじゃき。命拾いしたの」
不敵な笑みをたたえ車掌は言う。
さらっと恐ろしい事実を聞かされた気がした。
手を引かれるまま前方のドアをくぐる直前、ふとあのカレンダーを見るとそこには『1』と表示されていた。
車両を出ると、先ほどまでとは違う空間に出た。
広い空間で、物は何も配置されていない。
天井一面は、列車の外の景色を見ることができるようになっており、そこはまるで展望デッキのようだった。
奥には不自然に一つ扉があるのも確認出来る。
車掌はデッキにたどり着くなり、もう大丈夫と言いそれまできつく繋いでいた手をすっと離した。
「…………」
「…?」
しかし、手を離すなりこちらを振り向こうとも何かを発言しようともしないその様子に少し違和感を覚えた私は、声をかけようと車掌の前に回り込む。
そこで私は、車掌の様子がおかしいことに気が付いた。
青白くなった顔、額には大量の汗を流し呼吸も幾分か荒い。
突然何が起きているのか頭の整理が追い付かず、かける言葉を失くしていると彼はそんな私を見てははっと苦しそうに笑った。
「さっきの、話の続きじゃが…人間の記憶は思ったよりも根深いもんでの。一度記憶したことは忘れてもちょっとした拍子で思い出してしまう。だから、車掌は極力乗客と会話をしない、稀に質問をされても何も答えず受け流すのがルー…ル…」
がくんと膝が折れ、左の手のひらを床に勢いよく打ちつける。
何度も荒い呼吸を繰り返し、右手は制服の胸元を皺がつくほどきつく握りしめており、今にも倒れてしまいそうだった。
まるで、さっきの私のように。
「なんで…急に…」
先ほど、彼が言っていた言葉を思い出す。
『極力乗客と会話をしない、稀に質問をされても何も答えず受け流すのがルール』
もしかすると、これは私と話しをすることで、ルールを破った罰?
でも、それならなぜ今まで何ともなかったのだろうか。
「今までだってずっと…」
『ずっと』
私はある仮説を導き出す。
もしかすると、彼はこうなることがわかっていた上で…
「…最初から、耐えていた…?」
ぽつりと私が導き出した仮説を発すると、観念してとでも言いたそうな表情で大きく深い溜息を吐く。
「もう、さすがに隠せんか…」
ふらふらと今にも倒れそうな彼の身体を両腕で支えると、優しいのうと小さく呟き私の肩に首を預ける。
至近距離から聞こえる呼吸は先ほどよりも荒く、辛そうな様子に私まで苦しくなった。
「貴方は、こうなることを最初から知っていたんですよね…?なのにどうして…」
私の問いかけに、彼はさあのう…と視線を外し天井を見上げる。
「最初の乗車客の確認の時…お前さんの顔を見た瞬間に逝かせてはならんと直感で思った。なぜそう思ったかはわからないが…生きて、帰してやりたいと思った」
「だからって…見ず知らずの私のために車掌さんがそんな目に遭うことなんて…っ!」
「見ず知らず…な。俺はどうも、お前さんが赤の他人とは思えんかった」
「え…」
私の肩に預けていた首を起こす代わりに、彼の右手が肩に置かれる。
頬に添えられる大きな左手、徐々に近づく彼の顔。
互いの額がこつんとぶつかり、至近距離で目つめ合う。
「俺はもう、取り返しがつかないほど規則を破った。だから、今更もう一つ破ったって同じことよ」
反射的に目をつむると、唇に温かい感触が伝わる。
最初から容赦なく侵入してくる彼に舌を絡めとられ、深く深く口づけを落とされる。
理由は自分でもわからないが、目頭がじんわりと熱くなりぼろぼろと涙が零れた。
彼のその感触を記憶の奥の片隅で知っているような気がしたからだ。
そっと唇が離れ、薄く目を開けると視界いっぱいに広がる彼の顔。
苦しそうだが満足そうに口元を緩めた。
「さ、これが…最後の宿題よ。ノーヒントだが、お前さんにならもうわかるはずじゃき」
最後。
この車掌の言うところの最後に何が待っているのだろう。
涙でゆがむ視界の中、震える指で手渡された4枚目の紙を広げる。
そこにはたった一文のみ、書かれていた。
・あなたの名前は?
「私の…名前は…」
直後、一気に意識が遠のくような感覚に襲われ、断片的な記憶が走馬灯のように流れ自身の記憶として落とし込まれていく。
時間にするとほんの数秒の出来事だが、私はそれまで自分が生きてきた17年間の記憶量に眩暈を起こす。
彼は、自分も苦しいはずなのにそんな私の身体を力強く支えてくれていた。
ぼろぼろと涙が溢れ出る。
彼の名前も、思い出も、何も覚えていないけれど
私の記憶は、今目の前にあるこのあたたかさを確かに知っていた。
何も言えずにいる私の頭を彼はそっと優しく撫でる。
「…お前さんがよければ名前、教えてくれんか」
彼の問いかけに、私は何の疑いもなく一度頷いて応える。
「私は…由紀。神崎由紀です」
「いい名だな。…そういえば、俺のもう1つの役目を教えてなかったの。
俺の2つ目の役割は、途中で下車させするべき乗客を見逃さす、この列車からすぐさま降ろすこと。下車させるべき乗客とは、無の状態から自己を取り戻し、現実に帰りたいと願っているやつのことを指す。
…今のお前さんや、さっきまでお前さんの横の席に座っていた男のようにな」
直後、バンッ!と大きな物音がしたと同時に物凄い強風が吹き荒れる。
風は私の背中越しに向かって吹いている様子で、振り向くと先ほどまでは閉じていたはずのデッキの扉が開いていた。
扉の奥は真っ暗な闇に包まれている。
車掌は、まるでこうなることがわかっていたかのように私の肩を片手できつく抱き、その闇に吸い込まれていかないようもう片方の手は手すりを握っていた。
「これって…っ」
「少々荒っぽいが、この風に乗ってあの空間に飛び込めば、お前さんは現実に帰ることができる」
よかったの、と笑うその表情には無理が入っているような気がしてならなかった。
「車掌さんを置いていけない…!」
「元々俺が一人で決めてやったことじゃき、気にしなさんな」
何でもないような振る舞いをしながら、本当は苦しくて苦しくて仕方がないはず。
このあと彼がどんな罰を受けるかもわからない。
「貴方も一緒に…っ」
こんなにぼろぼろになってまで助けてくれたのに
きっと彼は私にとって大切な存在であったはずの人なのに
私はまだこの人のことを思い出せてもいないし、何もしてあげられていない。
「…一緒には行けん。俺は、もう自分を取り戻せないほど長くここにいすぎた」
風は私たちを引き離そうと徐々に強まっていく。
「そんなのやってみなきゃわからないじゃないですか…!私がたくさん質問します…っ 好きな食べ物は?どこに住んでいたの?貴方の本当の名前は何?嫌です…貴方と一緒に生きたいです…!私、まだあなたに何も…っ」
「…っ 頼む、聞き分けてくれ」
ぐいと顔を引き寄せられ、再度口づけられる。
先ほどより荒々しいそれは、別れの覚悟が込められているように感じた。
風はいよいよ最終段階と言わんばかりに、私たちの周りを吹き荒れ、人の力では到底逆らえず二人の距離は引き裂かれる。
ふわりと体が宙に乗って浮き始める。
「私、帰ったら必ず貴方を探すから…だから死なずに待っていて…っ!」
「由紀…」
彼が私の名前を呟いた瞬間、私の頭の中に一つとある名前が浮かぶ。
直感、というものかもしれない。
ただ、これが彼のことなのかはわからない。
風の音でもうほとんど音が聞こえないかもしれない。
でも、もしこれが彼も帰ることが出来るきっかけになるのなら、伝えたい。
身体が風にのって宙を舞う中、私は大きく深呼吸し、精一杯の力で叫ぶ。
「どこにいても必ず見つけるから!待ってて…っ
雅治…!」
彼の耳に届いたという確信は無い。
けれども、彼の見開かれた瞳と表情で、きっとおそらく私の声は届いたのではないかと思う。
直後、扉の外の真っ暗な空間に向かって身体が投げ出された。
私が覚えているのは、その瞬間までだった。
先ほど自分の車両から車掌室に向かうまで乗客は一人もいなかったはずだが、車掌室から数えて4車両目…私が乗っていた隣の車両にはいつの間にか数名の乗客が増えていた。
「この列車は、不慮の事故により生死を彷徨っている魂を死の世界まで送り届ける、まぁ…魂の輸送列車と言ったところかの。車両は事故の案件ごとで分かれとる」
車掌の説明が事実なら、この車両の人たちも何かしらの事故に巻き込まれてここにたどり着いたということだろう。
先ほど見た自分の記憶から、薄々勘づいてはいたので事実を聞いても意外にも頭は冷静だった。
あまり驚く様子のない私が気にかかったのか、数歩前を歩いていた車掌はショックか?と一言添えて少し振り返り私の顔色を窺う。
「いえ。やっぱりそうかというのが本音です。つまり…私は死んだということでしょうか」
私の問いかけに、いいやと言って車掌は首を横に振る。
「まだ死んどらん。車両にあったカレンダーと時計を覚えとるか。あのカレンダーは乗車と同時に4日目からスタートし、0日目になるまでカウントダウンされる。0日目がゴール、すなわち無事に死の世界へ輸送完了っていう仕組みなり」
私がもしこの列車に来たばかりの頃の状態のまま何も行動を起こしていなかったら、あっという間に時間が流れ死んでしまっていたかもしれない。そう考えると背筋がぞっとした。
歩きながら車掌は説明を続ける。
「魂は、基本的に人間の生理的欲求、人だった時の思い出、時間の感覚そのすべてがない云わば無の存在。
お前さんにも覚えがあるじゃろ。ここに来たばかりの頃、無気力で、自分のことが何もわからないにも関わらずどうでもいいというような反応をしとった自分を。
自分の名前すらわからないことに疑問を持とうともせんかった。当然、生きたい、ましてや帰りたいなどと思いもせん。無とはそういうことよ」
自分が元居た車両にたどり着くと、乗客たちは先ほど私が座席を立った時とまるで同じ過ごし方をしている。
「車両同士は、繋がっているようで正確には別々の空間になっとる。魂は本来一人で車両同士の行き来は出来ん。仮に出来たとしても、異空間を彷徨うハメになる可能性が高い。お前さんが一人で車掌室まで来られたのは、俺の一部を持っていたおかげというわけじゃき。命拾いしたの」
不敵な笑みをたたえ車掌は言う。
さらっと恐ろしい事実を聞かされた気がした。
手を引かれるまま前方のドアをくぐる直前、ふとあのカレンダーを見るとそこには『1』と表示されていた。
車両を出ると、先ほどまでとは違う空間に出た。
広い空間で、物は何も配置されていない。
天井一面は、列車の外の景色を見ることができるようになっており、そこはまるで展望デッキのようだった。
奥には不自然に一つ扉があるのも確認出来る。
車掌はデッキにたどり着くなり、もう大丈夫と言いそれまできつく繋いでいた手をすっと離した。
「…………」
「…?」
しかし、手を離すなりこちらを振り向こうとも何かを発言しようともしないその様子に少し違和感を覚えた私は、声をかけようと車掌の前に回り込む。
そこで私は、車掌の様子がおかしいことに気が付いた。
青白くなった顔、額には大量の汗を流し呼吸も幾分か荒い。
突然何が起きているのか頭の整理が追い付かず、かける言葉を失くしていると彼はそんな私を見てははっと苦しそうに笑った。
「さっきの、話の続きじゃが…人間の記憶は思ったよりも根深いもんでの。一度記憶したことは忘れてもちょっとした拍子で思い出してしまう。だから、車掌は極力乗客と会話をしない、稀に質問をされても何も答えず受け流すのがルー…ル…」
がくんと膝が折れ、左の手のひらを床に勢いよく打ちつける。
何度も荒い呼吸を繰り返し、右手は制服の胸元を皺がつくほどきつく握りしめており、今にも倒れてしまいそうだった。
まるで、さっきの私のように。
「なんで…急に…」
先ほど、彼が言っていた言葉を思い出す。
『極力乗客と会話をしない、稀に質問をされても何も答えず受け流すのがルール』
もしかすると、これは私と話しをすることで、ルールを破った罰?
でも、それならなぜ今まで何ともなかったのだろうか。
「今までだってずっと…」
『ずっと』
私はある仮説を導き出す。
もしかすると、彼はこうなることがわかっていた上で…
「…最初から、耐えていた…?」
ぽつりと私が導き出した仮説を発すると、観念してとでも言いたそうな表情で大きく深い溜息を吐く。
「もう、さすがに隠せんか…」
ふらふらと今にも倒れそうな彼の身体を両腕で支えると、優しいのうと小さく呟き私の肩に首を預ける。
至近距離から聞こえる呼吸は先ほどよりも荒く、辛そうな様子に私まで苦しくなった。
「貴方は、こうなることを最初から知っていたんですよね…?なのにどうして…」
私の問いかけに、彼はさあのう…と視線を外し天井を見上げる。
「最初の乗車客の確認の時…お前さんの顔を見た瞬間に逝かせてはならんと直感で思った。なぜそう思ったかはわからないが…生きて、帰してやりたいと思った」
「だからって…見ず知らずの私のために車掌さんがそんな目に遭うことなんて…っ!」
「見ず知らず…な。俺はどうも、お前さんが赤の他人とは思えんかった」
「え…」
私の肩に預けていた首を起こす代わりに、彼の右手が肩に置かれる。
頬に添えられる大きな左手、徐々に近づく彼の顔。
互いの額がこつんとぶつかり、至近距離で目つめ合う。
「俺はもう、取り返しがつかないほど規則を破った。だから、今更もう一つ破ったって同じことよ」
反射的に目をつむると、唇に温かい感触が伝わる。
最初から容赦なく侵入してくる彼に舌を絡めとられ、深く深く口づけを落とされる。
理由は自分でもわからないが、目頭がじんわりと熱くなりぼろぼろと涙が零れた。
彼のその感触を記憶の奥の片隅で知っているような気がしたからだ。
そっと唇が離れ、薄く目を開けると視界いっぱいに広がる彼の顔。
苦しそうだが満足そうに口元を緩めた。
「さ、これが…最後の宿題よ。ノーヒントだが、お前さんにならもうわかるはずじゃき」
最後。
この車掌の言うところの最後に何が待っているのだろう。
涙でゆがむ視界の中、震える指で手渡された4枚目の紙を広げる。
そこにはたった一文のみ、書かれていた。
・あなたの名前は?
「私の…名前は…」
直後、一気に意識が遠のくような感覚に襲われ、断片的な記憶が走馬灯のように流れ自身の記憶として落とし込まれていく。
時間にするとほんの数秒の出来事だが、私はそれまで自分が生きてきた17年間の記憶量に眩暈を起こす。
彼は、自分も苦しいはずなのにそんな私の身体を力強く支えてくれていた。
ぼろぼろと涙が溢れ出る。
彼の名前も、思い出も、何も覚えていないけれど
私の記憶は、今目の前にあるこのあたたかさを確かに知っていた。
何も言えずにいる私の頭を彼はそっと優しく撫でる。
「…お前さんがよければ名前、教えてくれんか」
彼の問いかけに、私は何の疑いもなく一度頷いて応える。
「私は…由紀。神崎由紀です」
「いい名だな。…そういえば、俺のもう1つの役目を教えてなかったの。
俺の2つ目の役割は、途中で下車させするべき乗客を見逃さす、この列車からすぐさま降ろすこと。下車させるべき乗客とは、無の状態から自己を取り戻し、現実に帰りたいと願っているやつのことを指す。
…今のお前さんや、さっきまでお前さんの横の席に座っていた男のようにな」
直後、バンッ!と大きな物音がしたと同時に物凄い強風が吹き荒れる。
風は私の背中越しに向かって吹いている様子で、振り向くと先ほどまでは閉じていたはずのデッキの扉が開いていた。
扉の奥は真っ暗な闇に包まれている。
車掌は、まるでこうなることがわかっていたかのように私の肩を片手できつく抱き、その闇に吸い込まれていかないようもう片方の手は手すりを握っていた。
「これって…っ」
「少々荒っぽいが、この風に乗ってあの空間に飛び込めば、お前さんは現実に帰ることができる」
よかったの、と笑うその表情には無理が入っているような気がしてならなかった。
「車掌さんを置いていけない…!」
「元々俺が一人で決めてやったことじゃき、気にしなさんな」
何でもないような振る舞いをしながら、本当は苦しくて苦しくて仕方がないはず。
このあと彼がどんな罰を受けるかもわからない。
「貴方も一緒に…っ」
こんなにぼろぼろになってまで助けてくれたのに
きっと彼は私にとって大切な存在であったはずの人なのに
私はまだこの人のことを思い出せてもいないし、何もしてあげられていない。
「…一緒には行けん。俺は、もう自分を取り戻せないほど長くここにいすぎた」
風は私たちを引き離そうと徐々に強まっていく。
「そんなのやってみなきゃわからないじゃないですか…!私がたくさん質問します…っ 好きな食べ物は?どこに住んでいたの?貴方の本当の名前は何?嫌です…貴方と一緒に生きたいです…!私、まだあなたに何も…っ」
「…っ 頼む、聞き分けてくれ」
ぐいと顔を引き寄せられ、再度口づけられる。
先ほどより荒々しいそれは、別れの覚悟が込められているように感じた。
風はいよいよ最終段階と言わんばかりに、私たちの周りを吹き荒れ、人の力では到底逆らえず二人の距離は引き裂かれる。
ふわりと体が宙に乗って浮き始める。
「私、帰ったら必ず貴方を探すから…だから死なずに待っていて…っ!」
「由紀…」
彼が私の名前を呟いた瞬間、私の頭の中に一つとある名前が浮かぶ。
直感、というものかもしれない。
ただ、これが彼のことなのかはわからない。
風の音でもうほとんど音が聞こえないかもしれない。
でも、もしこれが彼も帰ることが出来るきっかけになるのなら、伝えたい。
身体が風にのって宙を舞う中、私は大きく深呼吸し、精一杯の力で叫ぶ。
「どこにいても必ず見つけるから!待ってて…っ
雅治…!」
彼の耳に届いたという確信は無い。
けれども、彼の見開かれた瞳と表情で、きっとおそらく私の声は届いたのではないかと思う。
直後、扉の外の真っ暗な空間に向かって身体が投げ出された。
私が覚えているのは、その瞬間までだった。