虹色トレイン
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気がつくと、私は列車の座席に座っていた。
車両内はほどよい明るさの暖色、2人用の座席が2つ向かい合う形で何列も配置されている。
アンティークな木目調に、上質な革張りの椅子はほどよい温もりを与えてくれ居心地の良い空間を演出していた。
乗客は私を含めて10人ほど車両内にいるが、皆それぞれがばらばらの席に座り思い思いの時間を過ごしている。
左側の通路を挟んだ席には、頭を左に右に抱えて何かに怯えている様子の男性がいたり、後ろの座席の男性は昔どこかで聞いたことのあるようなクラシックののんきな鼻歌のようなものが聞こえる。
それ以外の大半の人は私のようにただ何となくここにいるといったような雰囲気が窺えた。
列車の窓から見える景色は薄紫色の宇宙空間のような景色で、絵に描いた星のような物だとか、ドーナツ状の惑星のような物が通り過ぎて行く。
自分が一体いつこの電車に乗り、どれくらいの時間揺られているのか全く覚えていない。
長い間乗っているような気もするし、先ほど乗ったばかりのような気もする。
この列車がどこに向かっているのかもわからないが、ただこの心地よい揺れに身を任せていた。
どのくらいそうしていたのかわからないが、列車に揺られながら気づいたことが数点ある。
1つは睡眠、空腹等の生理的欲求がまるで湧かないこと
2つ目は同じ車両の乗客は知っているような気もするし、知らないような気もするが何となく赤の他人ではなさそうなこと
3つ目は、この車両の前方にカレンダーと掛け時計があるのだが、カレンダーは4日から3日へ戻り、掛け時計は反対回りをしていること。
4つ目は、自分自身のことが全くと言っていいほどわからないということだ。
全く、というのは名前を含めて全てのことで、私は私がわからないままいまこの場所に存在していることになる。
だが、それがさして重要なことだとは認識しておらず特段思い出せなくても問題はないように思えた。
ただ、自分はこれから何処に向かっているのだろうとぼんやり漠然と考えながら窓の外の不思議な宇宙空間を眺めていた。
窓の外を流れる空間の一点を見つめていると、突然車両内に何かが開いたような音が響き渡り意識が車内に引き戻される。
座席から身体を左側にほんの少し乗り出して前方を確認すると、そこには一人の若い男がしゃんと立っていた。
男性は深緑色の制服に身を包み、同色の帽子を被っている。この列車の乗組員だろうか。
制服のボタンは光り輝く金色、それに合わせたかのように同系色のネクタイを着崩すことなく締めている。
左胸にはエメラルドのような宝石が施された小振りでお洒落なチェーンブローチを身に付けていた。
よく見ると帽子にも金色の細かい刺繍が施されている。
男性は一礼し、車両内全体を見回す。
「ようこそ、当列車の車掌を務める者です。御用の際は遠慮なくお申し付けください。これから乗車されております皆様のお顔を確認しに参りますのでそのまま座席にてお待ちください」
そう言って深緑色の帽子をぎ深々と挨拶をする。
車掌の髪は美しい銀色をしており、一見全体を見ると派手ではあるが物腰や口調が柔らかいからか特段不快な印象は受けなかった。
車掌はバインダーを手に持ち、前方から一人ずつ顔を確認して回る。
顔を確認するだけでいいのか、とか、名前も確認せずにそもそもどう確認するのだろうとか、考えが頭を過ったが私自身自分の名前も思い出せていない状況だったのですぐにどうでもよくなり、自分の番が訪れるのを待った。
前方から左の座席、右の座席とテンポよく確認作業は進んでいく。
車掌はその手に持っているバインダーと、座席に座っている乗客の顔を交互に確認し、確認が終わると確かに、と一言だけ言い次々に進んでいく。
時折乗客の方から車掌に声をかけている姿も見受けられたが車掌は必ず、ご心配なくと一言だけ発した。
淡々と業務をこなすタイプなのだろうとぼんやり頭の片隅で思った。
とくに何事もなく進んでいた謎の顔だけ本人確認作業だが、私の左側の席の男性の番になると少し様子が変わる。
左側の男性の乗客は車掌さんと一言小さく発し、何かを言いたそうに目線で訴えている。
車掌も、その男性の周囲とは違う様子に気づいた様子で、指を口元に当て無言の合図を送り、男性のすぐ横にしゃがみこみ何か小声で話しかけ始めた。
私はほんの興味本位で横目でその様子を窺っていた。
するとどうだろう、車掌が何かを男性に伝えるとその男性は先ほどまでの怯えた様子から一変して安堵の表情を見せた。
車掌が何を彼に言ったのかは想像もつかなかったが、私はただ黙って車掌に案内されながら車両を出ていく男性の姿を見送った。
しばらく経って、車掌がまた車両に戻ってきたが、先ほどの男性は戻ってはこなかった。
「お客様、お顔を拝見」
「え、あ…はい」
いつの間にそこに立っていたのか、気づけば車掌は私の座席の目の前まで来ていた。
指示されるままに顔を上げると、車掌はふーんと言いながら手元の資料と私の顔をまじまじと見比べる。
「お嬢さん、名前は?」
それまでの周囲とのやり取りとの違いに一瞬動揺する。
自分に順番が回ってくるまでの様子をずっと見ていたが、車掌の方から何かを尋ねられるのは私が初めてだったからだ。
「すみません…憶えていません」
「そうじゃろうな」
車掌はやれやれといった表情を浮かべ、左右の手のひらを上に返しながら首を横に振る。
それまでの物腰柔らかな対応とはうって変わり、途端に表情と口調を崩し始め、私は何だか馬鹿にされているような気分になり不機嫌をあらわにした。
「そもそも、名前以外のことも何も覚えてないんですから」
私の不機嫌さが伝わったのか、車掌はまぁまぁ怒りなさんなと言いながら私の肩を2回たたく。
「じゃぁそんなお前さんに俺からの宿題。次に俺が来るときまでに、自分の好きな食べ物を1つ思い出してみんしゃい」
この車掌は何を言っているんだ、私の話を聞いていたのかと内心言いたくて仕方がなかった。
そもそも何も全く覚えていないこの状況でどう思い出せというのだ。
そんな私の文句の一つでも言いたさげな無言の訴えが通じたのか、車掌はじゃぁヒントをやろうと私に紙きれ1枚ペンを一本寄越した。
「そこにヒントが書いてある。いいか、わからなくても考えることが大切じゃ。答えが出たらすぐに俺に教えてくれ」
じゃあまた、と左手をひらひらさせながら車掌は次の乗客の本人確認をするため席を移動する。
先ほど私の座席の後ろで鼻歌を歌っていた男性の番になったが、やはり顔を確認するだけで車掌は何も会話はせず、次の車両へと移動していった。
私は先ほど手渡された謎の紙切れをそっと開く。
紙には箇条書きで3項目の記載があった。
・岐阜
・5歳
・祖母
これの一体何がヒントだというのだ。
書かれている内容を一読するも全くピンとこない。
ひとしきり考えた後、拉致があかないので仕方がなく先ほど車掌から渡されたペンを握り、この3つを連想させるものを頭の引き出しを片っ端に開けながら書き出していく。
岐阜、5歳、ようするに私は5歳の時に岐阜に居たということだろうか。
ではこの祖母というのは…駄目だ。なんのことだか見当もつかない。
何も考えが浮かばず、一度ペンを置いて窓の外を眺める。
まるで夢の中にいるような不思議な空間。遠くの方には、光る線路に光る列車が小さく見えた。
『わからなくても考える』
ふと、車掌が残した言葉が蘇る。
私は窓の外をぼんやりと眺めながら、先ほどの紙切れに書いてある項目を1つずつ読み上げる。
「5歳…私は、岐阜に、住んでたのかな。祖母…岐阜の…青い屋根の…あ、」
何かがパンとはじける音がした。
直後脳内にみるみる広がる光景。
薔薇がたくさん咲いている庭、青い屋根の大きな平屋のお家、庭で遊んでいる私に手を振る一人の女性。
その女性に呼ばれて家の中に入ると、ふんわりといい香りが漂う。
ダイニングテーブルには、たくさんの美味しそうな料理が並んでいる。
その中でも一際目立つのは、私の席の中央に置かれた子供用の可愛い食器に丁寧に盛り付けられた…
「これは、ハンバーグ…?」
おそらくこれが車掌から出された宿題の答えだったようだ。
先ほどまでのぼんやりとした記憶がより鮮明に蘇る。
私は5歳の時、母が弟を出産するために里帰りするため、一緒に岐阜の祖母の家に一時期住んでいたことがあった。
祖母は早くに夫を亡くし、広い平屋の家で一人暮らしをしていたため私たち親子を暖かく迎えてくれた。
丁寧に手入れがされた薔薇が咲く庭が私は大好きで、時間さえあれば庭に出て遊んでいた。
「おばあちゃん…」
その祖母はもう病気で亡くなってしまったが、幼い頃に作ってくれたあのハンバーグは今でも私の一番の好きな食べ物。
あの味を再現しようと何度も挑戦したが、結局同じ物は作れなかった。
今の今まで、そんな大好きな祖母との思い出を私は忘れてしまっていた。
「さて、思い出せたかのう」
不意に声がかかり、見上げると先ほどの車掌が私の前に再び立っていた。
「もう戻ってきたんですか?」
「…あぁ、そうか。お前さんの中ではたった数分の出来事じゃもんな」
車掌が前方を指さし、カレンダーと時計を見てみんしゃいと小声で呟く。
車両前方にある逆回転の掛け時計の針は、先ほど車掌が私の席を離れて行った時間からおおよそ6時間も進んでいた。
私の感覚では、車掌が離れて今ここに至るまで10分程度だったのに実際は6時間という長い時間が経っていたということになる。
「ここでは時間の感覚が人それぞれ違うんでのう。今のお前さんはざっと36倍のスピードで時間が進んでいる」
人それぞれ時間の経ち方が異なる、車掌の説明だけでは今のこの状況を理解しきることは出来なかった。
「どうして?」
「ん?ほう、疑問を持つようになったか。進歩進歩」
車掌はそう言いながら私の頭を撫でまわす。
「やめてください」
手を軽く払いのけると、車掌は悪い悪いとなんの悪びれもなく笑って言った。
「じゃぁ、2つ目の宿題。次はお前さんが飼っていたペットの名前を思い出してみんしゃい」
車掌はまた紙切れを1枚私に手渡す。
また思い出した頃に来ると言い残して車掌は後方の車両へと姿を消した。
このやりとりに何の意味があるのかわからないが、先ほど一部の記憶を取り戻したことから次の宿題をクリアすればまた違う自分自身の記憶が蘇る、そんな期待が膨らんだ。
つい先ほどまで、自分の名前すら思い出そうとしなかった私に少しずつ心境の変化が現れ始めていた。
車両内はほどよい明るさの暖色、2人用の座席が2つ向かい合う形で何列も配置されている。
アンティークな木目調に、上質な革張りの椅子はほどよい温もりを与えてくれ居心地の良い空間を演出していた。
乗客は私を含めて10人ほど車両内にいるが、皆それぞれがばらばらの席に座り思い思いの時間を過ごしている。
左側の通路を挟んだ席には、頭を左に右に抱えて何かに怯えている様子の男性がいたり、後ろの座席の男性は昔どこかで聞いたことのあるようなクラシックののんきな鼻歌のようなものが聞こえる。
それ以外の大半の人は私のようにただ何となくここにいるといったような雰囲気が窺えた。
列車の窓から見える景色は薄紫色の宇宙空間のような景色で、絵に描いた星のような物だとか、ドーナツ状の惑星のような物が通り過ぎて行く。
自分が一体いつこの電車に乗り、どれくらいの時間揺られているのか全く覚えていない。
長い間乗っているような気もするし、先ほど乗ったばかりのような気もする。
この列車がどこに向かっているのかもわからないが、ただこの心地よい揺れに身を任せていた。
どのくらいそうしていたのかわからないが、列車に揺られながら気づいたことが数点ある。
1つは睡眠、空腹等の生理的欲求がまるで湧かないこと
2つ目は同じ車両の乗客は知っているような気もするし、知らないような気もするが何となく赤の他人ではなさそうなこと
3つ目は、この車両の前方にカレンダーと掛け時計があるのだが、カレンダーは4日から3日へ戻り、掛け時計は反対回りをしていること。
4つ目は、自分自身のことが全くと言っていいほどわからないということだ。
全く、というのは名前を含めて全てのことで、私は私がわからないままいまこの場所に存在していることになる。
だが、それがさして重要なことだとは認識しておらず特段思い出せなくても問題はないように思えた。
ただ、自分はこれから何処に向かっているのだろうとぼんやり漠然と考えながら窓の外の不思議な宇宙空間を眺めていた。
窓の外を流れる空間の一点を見つめていると、突然車両内に何かが開いたような音が響き渡り意識が車内に引き戻される。
座席から身体を左側にほんの少し乗り出して前方を確認すると、そこには一人の若い男がしゃんと立っていた。
男性は深緑色の制服に身を包み、同色の帽子を被っている。この列車の乗組員だろうか。
制服のボタンは光り輝く金色、それに合わせたかのように同系色のネクタイを着崩すことなく締めている。
左胸にはエメラルドのような宝石が施された小振りでお洒落なチェーンブローチを身に付けていた。
よく見ると帽子にも金色の細かい刺繍が施されている。
男性は一礼し、車両内全体を見回す。
「ようこそ、当列車の車掌を務める者です。御用の際は遠慮なくお申し付けください。これから乗車されております皆様のお顔を確認しに参りますのでそのまま座席にてお待ちください」
そう言って深緑色の帽子をぎ深々と挨拶をする。
車掌の髪は美しい銀色をしており、一見全体を見ると派手ではあるが物腰や口調が柔らかいからか特段不快な印象は受けなかった。
車掌はバインダーを手に持ち、前方から一人ずつ顔を確認して回る。
顔を確認するだけでいいのか、とか、名前も確認せずにそもそもどう確認するのだろうとか、考えが頭を過ったが私自身自分の名前も思い出せていない状況だったのですぐにどうでもよくなり、自分の番が訪れるのを待った。
前方から左の座席、右の座席とテンポよく確認作業は進んでいく。
車掌はその手に持っているバインダーと、座席に座っている乗客の顔を交互に確認し、確認が終わると確かに、と一言だけ言い次々に進んでいく。
時折乗客の方から車掌に声をかけている姿も見受けられたが車掌は必ず、ご心配なくと一言だけ発した。
淡々と業務をこなすタイプなのだろうとぼんやり頭の片隅で思った。
とくに何事もなく進んでいた謎の顔だけ本人確認作業だが、私の左側の席の男性の番になると少し様子が変わる。
左側の男性の乗客は車掌さんと一言小さく発し、何かを言いたそうに目線で訴えている。
車掌も、その男性の周囲とは違う様子に気づいた様子で、指を口元に当て無言の合図を送り、男性のすぐ横にしゃがみこみ何か小声で話しかけ始めた。
私はほんの興味本位で横目でその様子を窺っていた。
するとどうだろう、車掌が何かを男性に伝えるとその男性は先ほどまでの怯えた様子から一変して安堵の表情を見せた。
車掌が何を彼に言ったのかは想像もつかなかったが、私はただ黙って車掌に案内されながら車両を出ていく男性の姿を見送った。
しばらく経って、車掌がまた車両に戻ってきたが、先ほどの男性は戻ってはこなかった。
「お客様、お顔を拝見」
「え、あ…はい」
いつの間にそこに立っていたのか、気づけば車掌は私の座席の目の前まで来ていた。
指示されるままに顔を上げると、車掌はふーんと言いながら手元の資料と私の顔をまじまじと見比べる。
「お嬢さん、名前は?」
それまでの周囲とのやり取りとの違いに一瞬動揺する。
自分に順番が回ってくるまでの様子をずっと見ていたが、車掌の方から何かを尋ねられるのは私が初めてだったからだ。
「すみません…憶えていません」
「そうじゃろうな」
車掌はやれやれといった表情を浮かべ、左右の手のひらを上に返しながら首を横に振る。
それまでの物腰柔らかな対応とはうって変わり、途端に表情と口調を崩し始め、私は何だか馬鹿にされているような気分になり不機嫌をあらわにした。
「そもそも、名前以外のことも何も覚えてないんですから」
私の不機嫌さが伝わったのか、車掌はまぁまぁ怒りなさんなと言いながら私の肩を2回たたく。
「じゃぁそんなお前さんに俺からの宿題。次に俺が来るときまでに、自分の好きな食べ物を1つ思い出してみんしゃい」
この車掌は何を言っているんだ、私の話を聞いていたのかと内心言いたくて仕方がなかった。
そもそも何も全く覚えていないこの状況でどう思い出せというのだ。
そんな私の文句の一つでも言いたさげな無言の訴えが通じたのか、車掌はじゃぁヒントをやろうと私に紙きれ1枚ペンを一本寄越した。
「そこにヒントが書いてある。いいか、わからなくても考えることが大切じゃ。答えが出たらすぐに俺に教えてくれ」
じゃあまた、と左手をひらひらさせながら車掌は次の乗客の本人確認をするため席を移動する。
先ほど私の座席の後ろで鼻歌を歌っていた男性の番になったが、やはり顔を確認するだけで車掌は何も会話はせず、次の車両へと移動していった。
私は先ほど手渡された謎の紙切れをそっと開く。
紙には箇条書きで3項目の記載があった。
・岐阜
・5歳
・祖母
これの一体何がヒントだというのだ。
書かれている内容を一読するも全くピンとこない。
ひとしきり考えた後、拉致があかないので仕方がなく先ほど車掌から渡されたペンを握り、この3つを連想させるものを頭の引き出しを片っ端に開けながら書き出していく。
岐阜、5歳、ようするに私は5歳の時に岐阜に居たということだろうか。
ではこの祖母というのは…駄目だ。なんのことだか見当もつかない。
何も考えが浮かばず、一度ペンを置いて窓の外を眺める。
まるで夢の中にいるような不思議な空間。遠くの方には、光る線路に光る列車が小さく見えた。
『わからなくても考える』
ふと、車掌が残した言葉が蘇る。
私は窓の外をぼんやりと眺めながら、先ほどの紙切れに書いてある項目を1つずつ読み上げる。
「5歳…私は、岐阜に、住んでたのかな。祖母…岐阜の…青い屋根の…あ、」
何かがパンとはじける音がした。
直後脳内にみるみる広がる光景。
薔薇がたくさん咲いている庭、青い屋根の大きな平屋のお家、庭で遊んでいる私に手を振る一人の女性。
その女性に呼ばれて家の中に入ると、ふんわりといい香りが漂う。
ダイニングテーブルには、たくさんの美味しそうな料理が並んでいる。
その中でも一際目立つのは、私の席の中央に置かれた子供用の可愛い食器に丁寧に盛り付けられた…
「これは、ハンバーグ…?」
おそらくこれが車掌から出された宿題の答えだったようだ。
先ほどまでのぼんやりとした記憶がより鮮明に蘇る。
私は5歳の時、母が弟を出産するために里帰りするため、一緒に岐阜の祖母の家に一時期住んでいたことがあった。
祖母は早くに夫を亡くし、広い平屋の家で一人暮らしをしていたため私たち親子を暖かく迎えてくれた。
丁寧に手入れがされた薔薇が咲く庭が私は大好きで、時間さえあれば庭に出て遊んでいた。
「おばあちゃん…」
その祖母はもう病気で亡くなってしまったが、幼い頃に作ってくれたあのハンバーグは今でも私の一番の好きな食べ物。
あの味を再現しようと何度も挑戦したが、結局同じ物は作れなかった。
今の今まで、そんな大好きな祖母との思い出を私は忘れてしまっていた。
「さて、思い出せたかのう」
不意に声がかかり、見上げると先ほどの車掌が私の前に再び立っていた。
「もう戻ってきたんですか?」
「…あぁ、そうか。お前さんの中ではたった数分の出来事じゃもんな」
車掌が前方を指さし、カレンダーと時計を見てみんしゃいと小声で呟く。
車両前方にある逆回転の掛け時計の針は、先ほど車掌が私の席を離れて行った時間からおおよそ6時間も進んでいた。
私の感覚では、車掌が離れて今ここに至るまで10分程度だったのに実際は6時間という長い時間が経っていたということになる。
「ここでは時間の感覚が人それぞれ違うんでのう。今のお前さんはざっと36倍のスピードで時間が進んでいる」
人それぞれ時間の経ち方が異なる、車掌の説明だけでは今のこの状況を理解しきることは出来なかった。
「どうして?」
「ん?ほう、疑問を持つようになったか。進歩進歩」
車掌はそう言いながら私の頭を撫でまわす。
「やめてください」
手を軽く払いのけると、車掌は悪い悪いとなんの悪びれもなく笑って言った。
「じゃぁ、2つ目の宿題。次はお前さんが飼っていたペットの名前を思い出してみんしゃい」
車掌はまた紙切れを1枚私に手渡す。
また思い出した頃に来ると言い残して車掌は後方の車両へと姿を消した。
このやりとりに何の意味があるのかわからないが、先ほど一部の記憶を取り戻したことから次の宿題をクリアすればまた違う自分自身の記憶が蘇る、そんな期待が膨らんだ。
つい先ほどまで、自分の名前すら思い出そうとしなかった私に少しずつ心境の変化が現れ始めていた。
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