ミクロコスモス

「福丸の奴、遅いなー。電車止まっちゃったのかな」
 椿家扇茶はジョッキを傾けた。水滴が垂れてテーブルに落ちるのを眺める。今昔亭四蔵は相変わらず無表情でこちらを見ていた。反応に困る。そんな目で見るな。四蔵の目はまるで夜空のようだ。暗くて、感情が見通せない。

 今昔亭四蔵は特異な存在だった。見る限り、友達が多いように見えないが、疎外されるわけでもなく、楽屋に来ればただそこにいる芸人仲間だと認識される。
「四蔵はさ、俺たちと一緒にいないときは何してるの?」
「稽古だよ」
「何の?」
「落語の」
「ずーっと?」
「だって、やることが無いから」
「偉いねぇ、やっぱNHKで最優秀賞を取った人はやることが違う。俺なんかはやること無いから遊んじゃうよ」
 だからって、稽古してないわけじゃないけど。扇茶はビールを喉に流し込んだ。
 実際、四蔵に実力で抜かれていることは理解していた。けれどまさか、彼がNHK新人落語コンクールで最優秀賞を取るとは思ってもみなかった。扇茶と福丸は本選にも進めなかったのに。
「NHK獲れた」
 改めて本人の口から結果を聞いた時、どんな反応をすべきかわからず、扇茶は何も動けずにいた。福丸は真っ先に駆け寄り、天使のような笑みをたたえて彼の背を撫でた。天使にしては随分間抜けな顔か。完全に出遅れた扇茶は「よかったね」と言って、右手でピースサインを作った。そうすると、四蔵も同じくピースサインを返した。目を細めた四蔵の顔は、いつになく嬉しそうだった。

「ずーっと思ってるんだけど、お前と福丸って『親友』の域を越えてるくらい仲いいよね。小学校から高校まで一緒だったのは知ってるけど」
 四蔵の口角が上がる。
「なんでそう思うの?」
「だって、福丸がいるとお前の目がキランキランになるんだよ。お前がそんな目してるの、人前にいる時か福丸といる時ぐらいだよ」
「……そう?」
「無自覚かよ」
 首を傾げた四蔵の顔面は無機質だった。この男が高座へ上がると急に表情豊かになるのが未だに信じられない。何度も現場を見ているから受け入れざるを得ないが、今昔亭四蔵の落語は、二ツ目にしては世界が出来上がりすぎている。月並みな言葉だが、本当に人が会話をしているようだった。魔法にかけられたような心地だ。四蔵が消えて、脳天気な八五郎と知識人のご隠居がくだらない会話を繰り広げる下町の風景が、この目で見える。しかし、一席を終えて楽屋に戻ってくると、仕掛けを失った人形の如く表情筋が動かなくなる。その場に福丸の姿があれば、その限りではないが。
「落語のときは意識的にやってるけど……」
「ますます恐ろしいな。なんで福丸限定なんだよ。俺にもそういう顔して欲しいよ」
「今、笑ってみようか」
 声に抑揚がない。
「いい、いい。無理して笑うことないから。ありのままのお前でいてくれ」
 福丸以外の誰と話しても、四蔵は基本的にこういう態度なので、嫌われているのではないと扇茶は信じている。師匠の千蔵と話している時でさえこの顔なのだから、これが素の人柄なのだろう。
「お前、落語とかやったり、福丸と一緒にいたりして疲れてない?」
「別に」
 いやに素っ気ない返事だった。

 2年前、四蔵は睡眠薬を飲んで自殺を図った。
 あの日は二人とも浅草演芸会館夜席の出番があった。本来は四蔵の出番の後、交互出演枠に入っていた扇茶が出る筈だったが、四蔵が時間になっても現れなかったため、扇茶が早めに高座に上がって繋いだ。電話にも出ないというので、普段着に着替えてすぐ楽屋を飛び出し、彼の自宅へ向かった。開いたままの玄関に違和感を覚えつつ、足を踏み入れた。
 居間の床に、彼は横たわっていた。
「おい!四蔵!」
 駆け寄って、彼を揺さぶった。名前を呼んでも反応がない。胸に手を当てると、微かに上下している。最悪の事態は免れたようだが、一刻も早く病院へ連れていかなくてはならない。
「四蔵、四蔵!起きろ!」
「……ん……」
「病院行こう、お前、薬飲んで……!」
「…………」
 それから救急車が来るまでの間、扇茶はずっと四蔵に声をかけ続けた。
「大丈夫だ、大丈夫」
 何度もそう言い続けた。
 病院に着いた後も、四蔵は意識不明のままだった。医師の説明によると、睡眠薬の他に精神安定剤を併用していたようで、それが合わなかったらしい。幸い、致死量に達しておらず、必要な処置を受けた後、目が覚めるまで入院となった。扇茶はベッド横の丸椅子に座って彼の様子を観察していた。
 新雪のように透き通る肌は、普段以上に青白く見えた。びっしりと生えた長い睫毛が呼吸に合わせて震える。その奥にある瞳は、まだ見えない。彼を構成する一つひとつのパーツには、精巧な作り物を思わせる美しさがあった。少し触れれば砕けてしまいそうな儚さも内包している。
 扇茶は四蔵の顔がとても好きだ。けれど、同時に恐ろしくもあった。このまま永遠に眠ったままになってしまったら、という想像が頭を過ぎる。
「早く起きろよ。千蔵師匠も福丸も心配するぞー」
「……ん……」
 微かに四蔵の唇が動いた。しかし、目は開かない。呼吸する音だけが聞こえる。

 四蔵が意識を取り戻したのは、それから丸一日が過ぎた頃だった。再び見舞いに訪れた扇茶は、その瞬間に立ち会うことができた。暗い瞳が緩慢に動き、扇茶を見つめる。
「なんで、いるの」
「随分冷めた第一声だな」
「……ごめん」
「お前、睡眠薬飲むのやめろ。体壊すぞ」
「……うん……」
 扇茶は四蔵に声をかけるが、反応は薄い。
「……なんで、いるの」
「いるよ。友達だからな」
 四蔵は眉をぴくりと動かした。しかし、すぐに無表情に戻ってしまった。扇茶は彼の隣に椅子を持ってきて座った。ベッドが少し軋んだ。
「福丸がいなくて良かったな。あいつが知ったらパニックになって泣いちゃうぞ」
「今、福丸いないの?」
「あいつは昨日から広島で仕事だよ」
「広島?」
「藤丸師匠たちと一門会やるんだってさ」
「そう……」
「千蔵師匠にはお前が倒れたの、伝えといたから。福丸のところには絶対伝えないようにも言ってる」
 四蔵はため息をついた。
「お前さ、福丸となんかあったの?」
「なんで?」
「福丸がふみちゃんと結婚してから、なんかお前、変わったなーって思って」
 四蔵は答えなかった。しかし、少し間を置いて、彼は口を開いた。
「福丸は、凄いよ」
「……凄い?」
 扇茶は首を傾げた。
「うん」
 四蔵は頷いた。そして再び目を閉じてしまった。

「あの時言った、『福丸は凄い』って、どういう意味?」
 四蔵は子供のように瞬きした。口元を手で押さえて物を咀嚼する所に、彼の育ちの良さを感じた。
「どんな風に凄いと思ってんの?」
 ゴクリと飲み込むと、四蔵は言う。
「……一言で言うなら、太陽みたいだと思う」
「あー。福丸は底抜けに明るいもんなあ」
「福丸がいなかったら、落語なんてやってない。福丸が落語を薦めてくれたから、今はそれを仕事にしてる」
 黒い目が真っ直ぐにこちらを見た。都心の夜空みたいに何もない。
「福丸がいるから、俺は生きてる」
 目の前の相手がぽつりと吐き出した答えは、空虚な響きだった。
「お前は福丸とどういう関係なんだ」
「親友」
「本当に?」
「……うん」
「福丸のことが好き?」
「うん」
「一度も嫌いになったことはない?」
「うん」
 四蔵は淀みなく答える。彼の本心がわからない。扇茶は残ったビールを飲み干した。空になったジョッキをテーブルに叩きつける。
「兄さんは」
 四蔵は何か言ったかと思うと、口をつぐんでしまった。あの夜空みたいな目が、さっきからずっと扇茶の顔を覗いている。そこに小宇宙があるかのようで、恐ろしさすら感じた。
 瞳に扇茶の影が映り、背筋が伸びる。
 小宇宙は何を考える。何が渦巻いている。
「兄さんはいい人だよ」
 なんだそれは。逡巡の末に導き出した答えがそれか。
「俺は悪いやつかもしれないよ」
「兄さんは優しい。俺に付き合ってくれる」
「そりゃどうも。俺達がお前を振り回してるもんだと思ってたからなんか安心したな」
 四蔵は何も言わない。黙ってビールを流し込むだけだ。扇茶は再び箸を持ち、料理をかき込む。
「はやく来ないかなあ」
 消えそうなほど小さな声を、扇茶の耳は聴き逃さなかった。
「福丸の奴、四蔵に心配かけんじゃねーよ」
 歯に物がこびりついたまま喋る。笑ってみせると、四蔵も目を細めた。
「フフッ」
 四蔵は笑った。次の瞬間には元の表情に戻ってしまったが。
「あいつには勝てねぇや」
 扇茶はビールの残りを飲み干した。ジョッキにびっしり付着した水滴が、ぽたぽた、テーブルに落ちた。
 
「お待たせ」
 聞き慣れた声がした刹那、四蔵の目に光が灯る。満天の星空みたいな目だった。
「随分待たせたじゃねーか、コノヤロー」
「今回ばっかりは俺のせいじゃないよ、兄さん。電車が遅れたんだよ」
 へへ、と気の抜けた笑顔を見せる福丸。
「お疲れ。お腹空いただろ」
 四蔵の声に感情が宿った。顔が柔らかく綻んで、見るからに幸せそうだった。
「もう腹ぺこだよ俺」
 福丸は困ったように笑い、四蔵の隣に座った。四蔵は福丸の方を向いていた。そこには二人だけの世界があった。
 いつかこの関係が壊れてしまう日が来るのだろうか。この世に不変などない。今食べた物は消化されて身体の外へ出ていくし、今ジョッキから垂れた水滴は気化する。人間関係は変わっていくし、生き物はみんな死ぬ。
 二人がどんな人生を歩んできたかなんて知ったことではないが、とにかく幸せでいてくれればいいや。四蔵は将来大スターになりそうだと扇茶は思った。努力家で実際に評価されている。彼は努力を辞めないだろう。福丸はそのままでいて欲しい。彼がいると場の空気が段違いに良くなる。
 扇茶は床に足をつけた。しばらく賑やかな二人を鑑賞して、物思いにふけった。
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