まだ旅ははじまったばかり。
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長いな、とサボは退屈していた。
各都市の市長が顔を突き合わせ、やれ予算がどうとか実害の規模がどうとか、小難しい講釈をだらだらと述べ、話が先に進まない。俺がここにいる以上、やるべきことはひとつだろう、とサボは辟易した欠伸を噛み砕く。
ここは偉大なる航路に浮かぶハノーファ大陸。島は3国で構成され、各国を王族が統治している。ここハイル国は目下、内乱が起こる寸前のひっ迫した状況下に置かれていた。
事の発端は時の王ダナンが隣国と結託し、島の半島を統治しているベルン国を侵略して2国構成にするとの声明を発表した。これにハイルの国民は猛反対し、何度も侵略を辞めるよう嘆願してきたのだが国王はまったく聞く耳を持たず、ついにクーデターを起こそうとしているのである。
だが起こそうとして簡単に起こせるものではない。そのためには多大な資源、人材、武器が必要となり、迫りくる侵略戦争の前にどれほどの力を集められるか頭を悩ませていたところ、ロイ市長が革命軍とのコンタクトに成功した。
この要請に腰を上げたのが時の革命軍南西部隊分隊長サボである。
彼が予め持参した条件は二つ。
南西軍の勢力2万と武器の調達を対価に、現国王が退位した後は国民による選挙により次期国王を決めること。次に侵略しようとしているベルン国と交易を結び、革命軍との資源取引を締結させること。
「ちょっといいか、」
市長たちの意見が堂々巡りとなり、そろそろ口を挟めそうな雰囲気を察してサボが声を上げると、10の目が一斉に向けられた。のと同時に、
「ーー父さん、私の話を聞いて!!!」
激しい音を立てて会議室の扉が開かれ、一人の若い娘が突入してきた。皆目を丸くし、サボも振り返っては突然の乱入者の姿を確認すると、丸い目をさらに丸くして、あ、と小さく声を上げた。
「エマ、無礼な真似をするんじゃない!!」
ノックもせずに乱入してきた娘にグレン市長が真っ赤になって叱責する。どうもこの二人、父娘であることが察せられた。
エマ、と呼ばれた娘はよほど慌ててきたのであろう息を弾ませ、すぐ目の前にあったカップの紅茶を飲み干し、その狼藉ぶりに市長たちが唖然としてしまう。それはサボのために用意された紅茶だったからだ。
自身の行動に大人たちが呆気に取られているのも構わず、娘ーーエマは咥内を潤すと、勝ち誇ったように言う。
「ダナン国王との謁見の約束を取り付けたわ。3万名の署名と一緒に、十日後に会ってくる!!!」
会議室に激震が走った。
いつ、どこで、どうやってこの娘が国王とのコネクションを作ったというのか。3万名分の嘆願書は、この国の3分の1もの国民の意思に当たる。我が子の行動は父であるグレン市長も寝耳に水であり、目を白黒させて狼狽えるばかり。
そんな中、蚊帳の外にいたサボが再び口を開く。
「今までだって嘆願書は出してきたんだろ?今更話を聞いてやるだなんて、何か裏があると思わないか?」
そう言って試すような視線を寄越すサボに、ようやく彼の存在に気づいたエマが怪訝な表情を浮かべる。
「誰よ、あなた」
「俺は革命軍南西部隊分隊長サボだ。ロイ市長に呼ばれて、力を貸しに来た」
「革命軍…?ダメよ、そんなの。内乱なんて起こさせないし、あなたたちの力も必要ない。悪いけど帰ってもらえる?」
「エマ!!」
突然乱入し、身勝手極まりない振る舞いをするエマに面目を潰され、ロイ市長が目を三角にして怒るも、サボはそれを制して続ける。
「随分世間知らずなんだな、このお嬢さんは。そもそも他国に進攻しようだなんて考える奴は国民がどれだけ反対したって聞きゃしねェのさ。そんなバカにゃ嘆願書の価値もわからねェ紙切れ同然。お前の行動のほうがよっぽど国民の反感を煽る結果になると思うけどな」
「なっ、なんですって!?」
あまりの言われように顔を真っ赤にしてサボに掴みかかろうとするエマを父のグレン市長が慌てて取り押さえる。その様子をみてサボがおかしそうに笑うものだから、エマはますます赤くなって、頭から湯気が出そうになっていた。
「とはいえ、謁見の約束はしちまったんだろ?これから十日の間に俺たちは戦いの準備をする。…無駄骨になるなら、それが一番だけどな。話は以上だ」
それだけ言い置き、サボは去って行った。
怒りの矛先を失い、エマも憤怒したまま会議室を後にする。
まるで嵐が過ぎ去ったようで、呆気にとられるしかなかった5人の市長らはつくづく疲弊しきったため息をつくほかなかった。
ーー約束の日がやってきた。
正午きっかりに謁見の場が設けられ、5人の市長をはじめ、署名した群衆が王宮の前に詰め掛け、エマが出てくるのを今か今かと待ち侘びている。
その中にはサボの姿もあった。
1時間ほど時が経ち、王宮の入り口が重厚な音を立てて開かれたのと同時に群衆にどよめきが走る。
「エマ!!何があったんだ!!?」
「ひどい…!なんてことを…!!」
自力で立つこともままならぬほど痛めつけられたエマが、捕縛された状態で民衆の前に晒された。
肉体的な痛みよりも悔しさで顔を歪め、ぼろぼろと涙を流すエマを目の当たりにし、サボは全身が泡立つほどの怒りを覚える。
国王への非難が殺到する中、渦中の人物は至極煩わしそうにハエでも払うかのような動作を見せると、一際大きな声で言った。
「この騒動の首謀者はこの娘で間違いないな!?いたずらに民衆を煽り、混乱を招いた罪により、この場で死刑といたす!!!」
突然の死刑宣告に父であるグレン市長は卒倒しそうになるのを堪え、名乗りを上げる。
「待ってくれ!!娘は私の指示に従っただけだ、首謀者は私だ!!!斬るというなら私の首を斬れェ!!!」
「斬れ、だと…?」
真っ青な顔で悲願するグレン市長を忌々しげに見降ろし、国王は絶望へと叩き落すようなセリフを口走る。
「この私に意見する娘も然り…親子揃って不遜も甚だしいわ」
国王の一声でエマがその場に組み敷かれる。
両の腕を衛兵二人がかりで拘束され、白い項が露わになり、民衆から絶叫が上がった。
泣き叫びながら娘を救わんと飛び出したグレン市長もたちまち取り押さえられてしまう。
哀れな親子を嘲笑い、いざ号令をかけんとした国王は目の前が真っ暗になったことに驚く暇も与えられず、頭部を圧迫する激痛に思わず叫び声を上げた。
「きっ、貴様!!国王様を放せ!!!」
国王の顔面を鷲掴み、地から足が浮くほど持ち上げるサボは剣を向けてくる衛兵を鋭く睨み付ける。
「お前らがエマを放すのが先だ」
それからサボは、自身の腕を引きはがそうともだえる国王に言う。
「言っておくが俺はこの国の国民じゃねェし、お前の頭を握り潰すのに少しの躊躇もない。理解したならエマとグレン市長を解放しろ」
言われ、国王は小さく何度も頷きながらジェスチャーで剣を下げるよう衛兵たちに命じる。
解放され、グレン市長が泣きながら娘を介抱するのを見届けると、サボはようやく手を放してやる。
「なっ、なんだ貴様はァ!!部外者がなぜここにいる!!?」
衛兵に取り囲まれ、四方八方から切っ先を向けられてもサボは少しも動じることなく、乱れた衣服を簡単に直しながら言った。
「俺たち革命軍は今、2万の兵力をお前に向けている。お前が蔑ろにした3万人の国民を合わせて5万人がお前ら国王軍と戦う覚悟を持ってるんだ。……わかるか?エマが最後の譲歩だったんだ」
革命軍と聞き、国王がごくりと喉を鳴らす。
これまで各地で内乱やクーデターが起きた陰にはいつも革命軍の名があった。そして革命軍を敵に回して勝利した国は、ついぞ聞いたことがない。
不安そうに自分を見上げてくるエマを一瞥し、サボは帽子を深くかぶりなおすと、小さくため息をついてからこう続けた。
「……だが、お前が彼らの声を聞くというなら、俺たちはこのまま引き下がる。…誰も内乱なんか望んじゃいねェからな」
どうする?と選択を迫られても、国王は二つ返事で頷くしかなかった――。
明けて三日後、国では革命軍の監視下の許、自衛目的外の戦争及び抗争は行わない旨の条約が国王と5都市の市長との間で締結された。これを反故にした場合、革命軍主導のクーデターが決起されるとあり、国王は従うほかなかった。
国の各都市では喜びに沸いた市民たちによる祭りや宴があちこちで開催され、国中が朝から晩まで飲めや歌えやの大騒ぎをしている。
その酒席から離れ、サボは市街地を見渡せる丘の上で、一人夜風にあたっていた。
今夜は満月で、月明かりが一層街を華やかに照らしている。
草を踏みしめる音を拾い、振り返ったサボは目に映った人物を認めると口角を上げた。
「ケガはもういいのか?」
顔や体のいたるところに絆創膏を張り付けたエマは恥ずかしそうにうつむき、サボの隣に腰を下ろす。近くで見れば左目はうっすらと痣になっており、切れた口の端の傷も痛々しい。幸いにも骨は無事で、大事に至らなかったのが何よりだ。
「酷ェよな、女の顔に傷をつけるなんて」
とサボは言うが、自身はしっかり国王の顔にしばらくは消えない掌の痣を残してやったので、エマとしては痛み分けである。
話を変えるように、エマはサボに切り出した。
「サボっていくつなの?」
「俺?17」
「17!?私と同じよ!」
「へェ、そうだったのか!どうりで話しやすいと思った!」
そう言って笑ったサボは年相応で、エマは拍子抜けしてしまう。会議室で5人もの大人たちに囲まれてもちっとも物怖じしない姿や国王と対等に渡り合っていたあの姿勢も、齢十七のそれとは到底思えず、エマは素直に感心してしまう。
「年上だと思ってた…。十七歳には見えないわよ」
「カンロクあるからな、俺」
「そういうのってオジさんが言うんだと思うけど」
「い、いいんだよ!かっこいい男は年齢なんか関係ねェ!」
話せば話すほど年相応な態度を見せるサボにエマは気が抜けたように笑う。
オジさん呼ばわりされて怒っていたサボも、つられて笑った。
ひとしきり笑ったあと、エマは少し瞳に影を落とし、落ち込んだ様子で話し始めた。
「サボはすごいなぁ…。同じ十七歳なのに世の中をちゃんと知ってて、大人とも対等に渡り合えてて…。……私は全然ダメだったわ。根拠もないのに自信だけは一端で…話せばわかるなんて夢ばっかり見て……あの人の言う通り、みんなをいたずらに扇動しただけだったわ…。……本当に、私はただの世間知らずな思い上がりだったのよ」
エマの言葉を聞いて、サボはきっぱりとそれを否定した。
サボは市長たちとの作戦会議の日より一週間ほど前倒しでこの国に入国し、内情を探っていた。
エマを見たのは、その時だ。
エマは朝から晩まで市街地に立ち続け、自らの手で戦争反対の嘆願書を集めていた。情報収集のために各都市を回っていたサボは行く先々で署名を呼び掛けるエマの姿を見かけ、まさか毎日方々へ足を運んで活動しているのかと驚いたほどだ。
履き潰してぼろぼろになった靴。喉を酷使しすぎてしゃがれた声。汗にまみれてぼさぼさになった髪ーーそれでも、希望を胸に何かを成そうとするエマの姿は、サボには輝いて見えた。
「信念はあったじゃねェか。誰も傷つけさせないって。お前のその気持ちは、ちゃんと俺たちに届いてたぞ」
慰められ、エマはうっすらと浮かんだ涙を拭う。
エマは事件のあったあの日、必死になって集めた嘆願書を目の前で燃やされ、怒り狂って国王に掴みかかってしまった。これをきっかけにエマは取り押さえられ、衛兵たちから過剰な暴行を受けたが、この時国王が狙い通りとも読める厭らしい笑みを浮かべていたのを目の当たりにし、エマは初めから仕組まれていたのだと絶望した。
この時ほどサボの辛辣な言葉が響いたことはない。同じように今の慰めが傷にしみることはない。
あまりメソメソしていると恩人に要らぬ心配をかけてしまうと思い、エマは努めて声色を明るくして話を変えた。
「ねぇ、サボはいつまでここにいられるの?」
「んー…もう用はねェからな。明日には発つよ」
少しも名残を惜しむそぶりも見せずあっけらかんと言い放つサボにエマは頭にタライでも落ちてきたような衝撃を受けてしまう。明日など、あまりにも急というものだ。
「そ、そんなに忙しいの?もう少しいられない?」
「別に忙しくはねェよ。元々お前らと一緒に戦う予定だったからな。むしろ時間が空いちまったくらいだ」
「だったら私に少し時間をくれない?お礼もかねて、この国を案内したいの」
それはいいな、とサボは思った。
内乱やクーデターは世界各地で起こっていて、戦争を早く終わらせるために体が空けばすぐ他の部隊と合流するのが常で、休みは意識してとらないと気が付けば働き続けていた、なんてのはざらに起こる。
何より目の前のエマがきらきらと瞳を輝かせているので、この娘はきっと楽しいことをたくさん知っていて、それを自分にも分けようとしてくれていると思うと、久しぶりに心が躍るようだった。
ーーわくわくする、ってこういうことなんだ。
忘れていた感情を取り戻したような気分で、サボは内心ひどく高揚した。
全身がざわつき、心臓がドキドキして、頭の中から祭りのようなリズムが流れ出てくる。
二人はこれから訪れる楽しい時間に無邪気な期待を膨らませ、同じ気持ちを共有している錯覚になり、何がおかしいのか笑い転げた。
サボの予定では一週間の旅のつもりだった。
それが一週間をかけて5都市を回っても足りず、あと三日、もう三日、とずるずる休暇を増やしていき、気が付けばひと月をかけて大陸を横断していた。
圧倒的な大自然はもちろん、歴史的な文化遺産や特色の違う街。国境を越えればエマにとっても初めての景色が驚くほど広がっていて、すべてが新鮮だった。
何より二人の旅は、笑いが絶えなかった。
くだらないことでごくたまに衝突することはあったが、サボは引きずるタイプではなく三歩歩けばけろりと忘れて何事もなかったかのように話しかけてくるし、エマはそれがとても心地よかった。
エマは最初こそガサツな娘だと思ったが、あけっぴろげで明るくて、誰とでもすぐに打ち解けてしまう魅力があり、行く先々で親切にしてもらうことも多く、これはエマの人徳なのだとサボは思い知らされた。
二人にとって実りの多い充実した旅であったが、いよいよ終わりの時が来てしまう。
「ーーそろそろ行かねェとな」
国に戻り、一番大きな港で行き交う船を眺めながらサボは言った。
「そう…だよね。さすがに戻らないとだよね」
エマの声に覇気がなくなり、葬式のような空気を吹き飛ばすようにサボが「寂しいだろ」と茶化して見せたが、エマが予想に反して素直に頷いたため、どうにも調子が狂ってしまう。
でもーーそうだ。
一か月も共に過ごし、楽しい時間と経験を共有している。本音を言えばサボだって寂しい。
エマといるときは自分が革命軍であることを忘れ、ただの子供に戻ったようなーー経験していなかった子供時代を取り戻したような、そんな時間だった。
「お前のことは忘れねェよ」
「忘れさせるわけないでしょ。…そういえば、ちゃんと自己紹介したことなかったよね。どうして私の名前知ってたの?」
「あんだけ怒られてりゃ、イヤでも覚えるだろ」
「あの時(初対面)ですね!!!まだ覚えてたのか!」
あの日、重苦しい会議室で傍若無人なふるまいを見せ、周囲の大人たちに叱咤されていたときのことを思い出し、サボはおかしそうに笑った。あの時のお互いの第一印象は最悪で、何よりも色濃く憶えている。
「じゃあーーまァ、色々ありがとな」
そう言って握手を求めるサボ。エマは差し出された掌を見つめ、見つめ、長いこと見つめ、すぐに応じてくれないことに気まずさを覚えながら引っ込めるわけにもいかないサボがいい加減手を取れよと突っ込もうとしたとき、エマはようやくそれを両手でつかみ、まっすぐサボを見据えて言った。
「ーー決めた。私、サボについていく!」
何を言われたのかすぐにはわからなかった。
一時の間をもって言葉の意味を理解すると、サボは素っ頓狂な声を上げる。
革命軍に加入するというのか。
「何言ってんだ、お前。俺たちが何してるかわかってるのか?戦うことだってあるんだぞ」
「わかってるわよ、そんなこと。私は戦いを反対してるんじゃない、戦争を反対してるの。誰かを守る、誰かを助けるための戦いだったら喜んで参加するわ」
「弱っちいくせにか」
「そ、それはこれから鍛えればいいでしょ!……私は、もっと外の世界を見てみたい。世界がどんな状況で、何に苦しんでいて、何と戦っているのか知りたい。せっかくこの世に生まれたんだもの。何も知らずに死んでいくのはごめんだわ」
それとも何か加入するための条件でもあるのかと問われ、サボは困ったように頬をかく。
「俺は別に構わねェが…お前の親父さんがなんて言うか……」
「父さんなら大丈夫!サボに絶大な信頼を置いてるから!」
エマは親指をぐっと立てて肯定した。
今回の旅も、どこぞの馬の骨とも知らぬ男であれば絶対に許すはずがないが、相手がサボということでグレンは快く送り出してくれたばかりか資金援助もしてくれた。
あの日、娘であるエマの命を救ってくれたサボにすっかり心頭してしまい、もはやエマを嫁として差し出さんばかりの信頼ぶりである。
それとこれとは話が違う気がしたが、たしかにあの父親であれば二つ返事でエマを預けてきそうだからサボは否定できない。
革命軍としても人材不足は常に付きまとっている課題であり、エマの人徳は十分に需要がある。サボにとって断る理由を見つけるほうが難しいくらいだ。
あえてひとつ挙げるなら――サボはいつになく真剣な面持ちで向き合い、心の奥を見透かすような眼差しでエマの目を見つめ、こう問うた。
「世界は、お前が思ってるよりずっと残酷だぞ。お前に立ち向かえるだけの覚悟はあるのか?」
世間知らずで、自信だけは一丁前のかつてのお嬢さんをもう一度試すような質問だったが、エマは勝算ありきな強気な笑みを浮かべ、こう答える。
「あなたと一緒なら」
くらり、と眩暈がした。先に視線を逸らしてしまったのはサボだった。
そんな歯の疼くようなことを言われ、思わず赤面してしまう。
その自信の根拠が、まさか自分だなんて。
そんな口説き文句、初めて言われた。
でもーー喜びを隠しきれない自分がいる。
まだ旅の続きをしていたいと思っていた。
他でもない、エマと――。
ごうっ、と一際強い風が吹き、放心状態であったサボはうっかり帽子を飛ばされてしまうも、エマはそれをキャッチし、勝ち誇ったように笑う。
「ね?忘れさせないって言ったでしょ」
この時、サボは敗北を悟った。
これから先もこの娘に振り回され、結局は眩しすぎる笑顔に何も言えず、尻に敷かれる自分の未来が容易に想像でき、けれどもそれも悪くないーーとサボは思うのだった。
まだ旅ははじまったばかり。
fin.
各都市の市長が顔を突き合わせ、やれ予算がどうとか実害の規模がどうとか、小難しい講釈をだらだらと述べ、話が先に進まない。俺がここにいる以上、やるべきことはひとつだろう、とサボは辟易した欠伸を噛み砕く。
ここは偉大なる航路に浮かぶハノーファ大陸。島は3国で構成され、各国を王族が統治している。ここハイル国は目下、内乱が起こる寸前のひっ迫した状況下に置かれていた。
事の発端は時の王ダナンが隣国と結託し、島の半島を統治しているベルン国を侵略して2国構成にするとの声明を発表した。これにハイルの国民は猛反対し、何度も侵略を辞めるよう嘆願してきたのだが国王はまったく聞く耳を持たず、ついにクーデターを起こそうとしているのである。
だが起こそうとして簡単に起こせるものではない。そのためには多大な資源、人材、武器が必要となり、迫りくる侵略戦争の前にどれほどの力を集められるか頭を悩ませていたところ、ロイ市長が革命軍とのコンタクトに成功した。
この要請に腰を上げたのが時の革命軍南西部隊分隊長サボである。
彼が予め持参した条件は二つ。
南西軍の勢力2万と武器の調達を対価に、現国王が退位した後は国民による選挙により次期国王を決めること。次に侵略しようとしているベルン国と交易を結び、革命軍との資源取引を締結させること。
「ちょっといいか、」
市長たちの意見が堂々巡りとなり、そろそろ口を挟めそうな雰囲気を察してサボが声を上げると、10の目が一斉に向けられた。のと同時に、
「ーー父さん、私の話を聞いて!!!」
激しい音を立てて会議室の扉が開かれ、一人の若い娘が突入してきた。皆目を丸くし、サボも振り返っては突然の乱入者の姿を確認すると、丸い目をさらに丸くして、あ、と小さく声を上げた。
「エマ、無礼な真似をするんじゃない!!」
ノックもせずに乱入してきた娘にグレン市長が真っ赤になって叱責する。どうもこの二人、父娘であることが察せられた。
エマ、と呼ばれた娘はよほど慌ててきたのであろう息を弾ませ、すぐ目の前にあったカップの紅茶を飲み干し、その狼藉ぶりに市長たちが唖然としてしまう。それはサボのために用意された紅茶だったからだ。
自身の行動に大人たちが呆気に取られているのも構わず、娘ーーエマは咥内を潤すと、勝ち誇ったように言う。
「ダナン国王との謁見の約束を取り付けたわ。3万名の署名と一緒に、十日後に会ってくる!!!」
会議室に激震が走った。
いつ、どこで、どうやってこの娘が国王とのコネクションを作ったというのか。3万名分の嘆願書は、この国の3分の1もの国民の意思に当たる。我が子の行動は父であるグレン市長も寝耳に水であり、目を白黒させて狼狽えるばかり。
そんな中、蚊帳の外にいたサボが再び口を開く。
「今までだって嘆願書は出してきたんだろ?今更話を聞いてやるだなんて、何か裏があると思わないか?」
そう言って試すような視線を寄越すサボに、ようやく彼の存在に気づいたエマが怪訝な表情を浮かべる。
「誰よ、あなた」
「俺は革命軍南西部隊分隊長サボだ。ロイ市長に呼ばれて、力を貸しに来た」
「革命軍…?ダメよ、そんなの。内乱なんて起こさせないし、あなたたちの力も必要ない。悪いけど帰ってもらえる?」
「エマ!!」
突然乱入し、身勝手極まりない振る舞いをするエマに面目を潰され、ロイ市長が目を三角にして怒るも、サボはそれを制して続ける。
「随分世間知らずなんだな、このお嬢さんは。そもそも他国に進攻しようだなんて考える奴は国民がどれだけ反対したって聞きゃしねェのさ。そんなバカにゃ嘆願書の価値もわからねェ紙切れ同然。お前の行動のほうがよっぽど国民の反感を煽る結果になると思うけどな」
「なっ、なんですって!?」
あまりの言われように顔を真っ赤にしてサボに掴みかかろうとするエマを父のグレン市長が慌てて取り押さえる。その様子をみてサボがおかしそうに笑うものだから、エマはますます赤くなって、頭から湯気が出そうになっていた。
「とはいえ、謁見の約束はしちまったんだろ?これから十日の間に俺たちは戦いの準備をする。…無駄骨になるなら、それが一番だけどな。話は以上だ」
それだけ言い置き、サボは去って行った。
怒りの矛先を失い、エマも憤怒したまま会議室を後にする。
まるで嵐が過ぎ去ったようで、呆気にとられるしかなかった5人の市長らはつくづく疲弊しきったため息をつくほかなかった。
ーー約束の日がやってきた。
正午きっかりに謁見の場が設けられ、5人の市長をはじめ、署名した群衆が王宮の前に詰め掛け、エマが出てくるのを今か今かと待ち侘びている。
その中にはサボの姿もあった。
1時間ほど時が経ち、王宮の入り口が重厚な音を立てて開かれたのと同時に群衆にどよめきが走る。
「エマ!!何があったんだ!!?」
「ひどい…!なんてことを…!!」
自力で立つこともままならぬほど痛めつけられたエマが、捕縛された状態で民衆の前に晒された。
肉体的な痛みよりも悔しさで顔を歪め、ぼろぼろと涙を流すエマを目の当たりにし、サボは全身が泡立つほどの怒りを覚える。
国王への非難が殺到する中、渦中の人物は至極煩わしそうにハエでも払うかのような動作を見せると、一際大きな声で言った。
「この騒動の首謀者はこの娘で間違いないな!?いたずらに民衆を煽り、混乱を招いた罪により、この場で死刑といたす!!!」
突然の死刑宣告に父であるグレン市長は卒倒しそうになるのを堪え、名乗りを上げる。
「待ってくれ!!娘は私の指示に従っただけだ、首謀者は私だ!!!斬るというなら私の首を斬れェ!!!」
「斬れ、だと…?」
真っ青な顔で悲願するグレン市長を忌々しげに見降ろし、国王は絶望へと叩き落すようなセリフを口走る。
「この私に意見する娘も然り…親子揃って不遜も甚だしいわ」
国王の一声でエマがその場に組み敷かれる。
両の腕を衛兵二人がかりで拘束され、白い項が露わになり、民衆から絶叫が上がった。
泣き叫びながら娘を救わんと飛び出したグレン市長もたちまち取り押さえられてしまう。
哀れな親子を嘲笑い、いざ号令をかけんとした国王は目の前が真っ暗になったことに驚く暇も与えられず、頭部を圧迫する激痛に思わず叫び声を上げた。
「きっ、貴様!!国王様を放せ!!!」
国王の顔面を鷲掴み、地から足が浮くほど持ち上げるサボは剣を向けてくる衛兵を鋭く睨み付ける。
「お前らがエマを放すのが先だ」
それからサボは、自身の腕を引きはがそうともだえる国王に言う。
「言っておくが俺はこの国の国民じゃねェし、お前の頭を握り潰すのに少しの躊躇もない。理解したならエマとグレン市長を解放しろ」
言われ、国王は小さく何度も頷きながらジェスチャーで剣を下げるよう衛兵たちに命じる。
解放され、グレン市長が泣きながら娘を介抱するのを見届けると、サボはようやく手を放してやる。
「なっ、なんだ貴様はァ!!部外者がなぜここにいる!!?」
衛兵に取り囲まれ、四方八方から切っ先を向けられてもサボは少しも動じることなく、乱れた衣服を簡単に直しながら言った。
「俺たち革命軍は今、2万の兵力をお前に向けている。お前が蔑ろにした3万人の国民を合わせて5万人がお前ら国王軍と戦う覚悟を持ってるんだ。……わかるか?エマが最後の譲歩だったんだ」
革命軍と聞き、国王がごくりと喉を鳴らす。
これまで各地で内乱やクーデターが起きた陰にはいつも革命軍の名があった。そして革命軍を敵に回して勝利した国は、ついぞ聞いたことがない。
不安そうに自分を見上げてくるエマを一瞥し、サボは帽子を深くかぶりなおすと、小さくため息をついてからこう続けた。
「……だが、お前が彼らの声を聞くというなら、俺たちはこのまま引き下がる。…誰も内乱なんか望んじゃいねェからな」
どうする?と選択を迫られても、国王は二つ返事で頷くしかなかった――。
明けて三日後、国では革命軍の監視下の許、自衛目的外の戦争及び抗争は行わない旨の条約が国王と5都市の市長との間で締結された。これを反故にした場合、革命軍主導のクーデターが決起されるとあり、国王は従うほかなかった。
国の各都市では喜びに沸いた市民たちによる祭りや宴があちこちで開催され、国中が朝から晩まで飲めや歌えやの大騒ぎをしている。
その酒席から離れ、サボは市街地を見渡せる丘の上で、一人夜風にあたっていた。
今夜は満月で、月明かりが一層街を華やかに照らしている。
草を踏みしめる音を拾い、振り返ったサボは目に映った人物を認めると口角を上げた。
「ケガはもういいのか?」
顔や体のいたるところに絆創膏を張り付けたエマは恥ずかしそうにうつむき、サボの隣に腰を下ろす。近くで見れば左目はうっすらと痣になっており、切れた口の端の傷も痛々しい。幸いにも骨は無事で、大事に至らなかったのが何よりだ。
「酷ェよな、女の顔に傷をつけるなんて」
とサボは言うが、自身はしっかり国王の顔にしばらくは消えない掌の痣を残してやったので、エマとしては痛み分けである。
話を変えるように、エマはサボに切り出した。
「サボっていくつなの?」
「俺?17」
「17!?私と同じよ!」
「へェ、そうだったのか!どうりで話しやすいと思った!」
そう言って笑ったサボは年相応で、エマは拍子抜けしてしまう。会議室で5人もの大人たちに囲まれてもちっとも物怖じしない姿や国王と対等に渡り合っていたあの姿勢も、齢十七のそれとは到底思えず、エマは素直に感心してしまう。
「年上だと思ってた…。十七歳には見えないわよ」
「カンロクあるからな、俺」
「そういうのってオジさんが言うんだと思うけど」
「い、いいんだよ!かっこいい男は年齢なんか関係ねェ!」
話せば話すほど年相応な態度を見せるサボにエマは気が抜けたように笑う。
オジさん呼ばわりされて怒っていたサボも、つられて笑った。
ひとしきり笑ったあと、エマは少し瞳に影を落とし、落ち込んだ様子で話し始めた。
「サボはすごいなぁ…。同じ十七歳なのに世の中をちゃんと知ってて、大人とも対等に渡り合えてて…。……私は全然ダメだったわ。根拠もないのに自信だけは一端で…話せばわかるなんて夢ばっかり見て……あの人の言う通り、みんなをいたずらに扇動しただけだったわ…。……本当に、私はただの世間知らずな思い上がりだったのよ」
エマの言葉を聞いて、サボはきっぱりとそれを否定した。
サボは市長たちとの作戦会議の日より一週間ほど前倒しでこの国に入国し、内情を探っていた。
エマを見たのは、その時だ。
エマは朝から晩まで市街地に立ち続け、自らの手で戦争反対の嘆願書を集めていた。情報収集のために各都市を回っていたサボは行く先々で署名を呼び掛けるエマの姿を見かけ、まさか毎日方々へ足を運んで活動しているのかと驚いたほどだ。
履き潰してぼろぼろになった靴。喉を酷使しすぎてしゃがれた声。汗にまみれてぼさぼさになった髪ーーそれでも、希望を胸に何かを成そうとするエマの姿は、サボには輝いて見えた。
「信念はあったじゃねェか。誰も傷つけさせないって。お前のその気持ちは、ちゃんと俺たちに届いてたぞ」
慰められ、エマはうっすらと浮かんだ涙を拭う。
エマは事件のあったあの日、必死になって集めた嘆願書を目の前で燃やされ、怒り狂って国王に掴みかかってしまった。これをきっかけにエマは取り押さえられ、衛兵たちから過剰な暴行を受けたが、この時国王が狙い通りとも読める厭らしい笑みを浮かべていたのを目の当たりにし、エマは初めから仕組まれていたのだと絶望した。
この時ほどサボの辛辣な言葉が響いたことはない。同じように今の慰めが傷にしみることはない。
あまりメソメソしていると恩人に要らぬ心配をかけてしまうと思い、エマは努めて声色を明るくして話を変えた。
「ねぇ、サボはいつまでここにいられるの?」
「んー…もう用はねェからな。明日には発つよ」
少しも名残を惜しむそぶりも見せずあっけらかんと言い放つサボにエマは頭にタライでも落ちてきたような衝撃を受けてしまう。明日など、あまりにも急というものだ。
「そ、そんなに忙しいの?もう少しいられない?」
「別に忙しくはねェよ。元々お前らと一緒に戦う予定だったからな。むしろ時間が空いちまったくらいだ」
「だったら私に少し時間をくれない?お礼もかねて、この国を案内したいの」
それはいいな、とサボは思った。
内乱やクーデターは世界各地で起こっていて、戦争を早く終わらせるために体が空けばすぐ他の部隊と合流するのが常で、休みは意識してとらないと気が付けば働き続けていた、なんてのはざらに起こる。
何より目の前のエマがきらきらと瞳を輝かせているので、この娘はきっと楽しいことをたくさん知っていて、それを自分にも分けようとしてくれていると思うと、久しぶりに心が躍るようだった。
ーーわくわくする、ってこういうことなんだ。
忘れていた感情を取り戻したような気分で、サボは内心ひどく高揚した。
全身がざわつき、心臓がドキドキして、頭の中から祭りのようなリズムが流れ出てくる。
二人はこれから訪れる楽しい時間に無邪気な期待を膨らませ、同じ気持ちを共有している錯覚になり、何がおかしいのか笑い転げた。
サボの予定では一週間の旅のつもりだった。
それが一週間をかけて5都市を回っても足りず、あと三日、もう三日、とずるずる休暇を増やしていき、気が付けばひと月をかけて大陸を横断していた。
圧倒的な大自然はもちろん、歴史的な文化遺産や特色の違う街。国境を越えればエマにとっても初めての景色が驚くほど広がっていて、すべてが新鮮だった。
何より二人の旅は、笑いが絶えなかった。
くだらないことでごくたまに衝突することはあったが、サボは引きずるタイプではなく三歩歩けばけろりと忘れて何事もなかったかのように話しかけてくるし、エマはそれがとても心地よかった。
エマは最初こそガサツな娘だと思ったが、あけっぴろげで明るくて、誰とでもすぐに打ち解けてしまう魅力があり、行く先々で親切にしてもらうことも多く、これはエマの人徳なのだとサボは思い知らされた。
二人にとって実りの多い充実した旅であったが、いよいよ終わりの時が来てしまう。
「ーーそろそろ行かねェとな」
国に戻り、一番大きな港で行き交う船を眺めながらサボは言った。
「そう…だよね。さすがに戻らないとだよね」
エマの声に覇気がなくなり、葬式のような空気を吹き飛ばすようにサボが「寂しいだろ」と茶化して見せたが、エマが予想に反して素直に頷いたため、どうにも調子が狂ってしまう。
でもーーそうだ。
一か月も共に過ごし、楽しい時間と経験を共有している。本音を言えばサボだって寂しい。
エマといるときは自分が革命軍であることを忘れ、ただの子供に戻ったようなーー経験していなかった子供時代を取り戻したような、そんな時間だった。
「お前のことは忘れねェよ」
「忘れさせるわけないでしょ。…そういえば、ちゃんと自己紹介したことなかったよね。どうして私の名前知ってたの?」
「あんだけ怒られてりゃ、イヤでも覚えるだろ」
「あの時(初対面)ですね!!!まだ覚えてたのか!」
あの日、重苦しい会議室で傍若無人なふるまいを見せ、周囲の大人たちに叱咤されていたときのことを思い出し、サボはおかしそうに笑った。あの時のお互いの第一印象は最悪で、何よりも色濃く憶えている。
「じゃあーーまァ、色々ありがとな」
そう言って握手を求めるサボ。エマは差し出された掌を見つめ、見つめ、長いこと見つめ、すぐに応じてくれないことに気まずさを覚えながら引っ込めるわけにもいかないサボがいい加減手を取れよと突っ込もうとしたとき、エマはようやくそれを両手でつかみ、まっすぐサボを見据えて言った。
「ーー決めた。私、サボについていく!」
何を言われたのかすぐにはわからなかった。
一時の間をもって言葉の意味を理解すると、サボは素っ頓狂な声を上げる。
革命軍に加入するというのか。
「何言ってんだ、お前。俺たちが何してるかわかってるのか?戦うことだってあるんだぞ」
「わかってるわよ、そんなこと。私は戦いを反対してるんじゃない、戦争を反対してるの。誰かを守る、誰かを助けるための戦いだったら喜んで参加するわ」
「弱っちいくせにか」
「そ、それはこれから鍛えればいいでしょ!……私は、もっと外の世界を見てみたい。世界がどんな状況で、何に苦しんでいて、何と戦っているのか知りたい。せっかくこの世に生まれたんだもの。何も知らずに死んでいくのはごめんだわ」
それとも何か加入するための条件でもあるのかと問われ、サボは困ったように頬をかく。
「俺は別に構わねェが…お前の親父さんがなんて言うか……」
「父さんなら大丈夫!サボに絶大な信頼を置いてるから!」
エマは親指をぐっと立てて肯定した。
今回の旅も、どこぞの馬の骨とも知らぬ男であれば絶対に許すはずがないが、相手がサボということでグレンは快く送り出してくれたばかりか資金援助もしてくれた。
あの日、娘であるエマの命を救ってくれたサボにすっかり心頭してしまい、もはやエマを嫁として差し出さんばかりの信頼ぶりである。
それとこれとは話が違う気がしたが、たしかにあの父親であれば二つ返事でエマを預けてきそうだからサボは否定できない。
革命軍としても人材不足は常に付きまとっている課題であり、エマの人徳は十分に需要がある。サボにとって断る理由を見つけるほうが難しいくらいだ。
あえてひとつ挙げるなら――サボはいつになく真剣な面持ちで向き合い、心の奥を見透かすような眼差しでエマの目を見つめ、こう問うた。
「世界は、お前が思ってるよりずっと残酷だぞ。お前に立ち向かえるだけの覚悟はあるのか?」
世間知らずで、自信だけは一丁前のかつてのお嬢さんをもう一度試すような質問だったが、エマは勝算ありきな強気な笑みを浮かべ、こう答える。
「あなたと一緒なら」
くらり、と眩暈がした。先に視線を逸らしてしまったのはサボだった。
そんな歯の疼くようなことを言われ、思わず赤面してしまう。
その自信の根拠が、まさか自分だなんて。
そんな口説き文句、初めて言われた。
でもーー喜びを隠しきれない自分がいる。
まだ旅の続きをしていたいと思っていた。
他でもない、エマと――。
ごうっ、と一際強い風が吹き、放心状態であったサボはうっかり帽子を飛ばされてしまうも、エマはそれをキャッチし、勝ち誇ったように笑う。
「ね?忘れさせないって言ったでしょ」
この時、サボは敗北を悟った。
これから先もこの娘に振り回され、結局は眩しすぎる笑顔に何も言えず、尻に敷かれる自分の未来が容易に想像でき、けれどもそれも悪くないーーとサボは思うのだった。
まだ旅ははじまったばかり。
fin.
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