空即是色
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神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けられた。
そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。
第二の日である。
《空即是色》
やって来たな……
しかし、人間とはつくづく弱いものだ。
私につくかサタンにつくか決められずにやって来た。
大天使ミカエルの使徒でもなく神霊サタンの手先でもない人間が、大魔王ルシファーを倒そうとやって来る。
恐るべき強さだが我を忘れ、真実を忘れ、恐怖を忘れただ戦いに身をまかせているだけに過ぎぬ。
恐怖を忘れている?
そんなわけがない。その証拠に私も兄さんもヒロコも……震える体を押さえ付けて互いに支え合ってこの場に立っている。
真実を忘れている?
真実って何?自分の出生のこと?私達が造られた理由?それとも歪んだ世界の仕組み?どれも忘れられるはずがない。
弱い?
確かにそうかもしれない。だけど、これが―……この場にいることこそが私達の答え。
あなたと同じように、私達、弱い人間であることを誇りに思ってる。あなたと同じように、私達はただ自由でありたい。そう思うことは不思議なこと?ねえ―……ルイ。
「……うっぷ……」
「……こ……これは……!この記憶は―……」
「校長!?一体何が……何が見えたのですか!?」
むせ返るような鼻を突く消毒液の匂いが現実に戻ってきたことを教えてくれる。まるで脳を縦に揺さ振られたかのような気持ちの悪い感覚。そして間を空けずに襲ってきた吐き気に私は思わず口元を押さえた。
確かに……確かに見たところ外傷はないし命に別状はないのかもしれないけど……!!
「……なんという……これは……この記憶はまことのことなのか!?」
初めて荒げられた老人のしゃがれた声。その声はまっすぐに私に向かって落ちてきた。そして、肩を掴まれ前後に振られる感覚。……ちょ……ちょっと待って……今この状態でこんなに激しく体を揺さ振られたら……!!
「……大丈夫ですか?あなた顔色が―……」
「っぷ……!うげぇえええ……」
……私のせいじゃない。これは断じて私のせいじゃない!……っぷ……うっ……
「……せ……洗面器……洗面器……どこ……ですか……」
思いっきり被害をこうむったにも関わらずダンブルドアが盛大に笑っていたこととか、ミネルバが顔をしかめて、片手で眉間を押さえていたこととか、現在進行形で洗面器に顔を突っ込んでいる私が知る由もなかった。
……最悪。……うっ……まだ出るのか……胃酸で口の中苦い……
「……どれ。少しは落ち着いたかの」
「……誰のせいですか?」
「……ほっほっほ。すまんのう。しかし、わしもおぬしのゲロをもろに浴びたのじゃからおあいこじゃろうて」
「……もう少し言葉を濁して言ってください」
「生憎、わしら英国人は日本人のように言葉を濁すことを良しとはせんのでな」
吐瀉物の匂いが消えた室内にほのかなカモミールの甘い匂いが漂う。白い陶器のティーカップから立ち上る湯気は当たり前だが、不愉快な気分を沈めてくれていた。
なぜ、これほどの短時間で匂いが消えたかと言えば、ダンブルドア曰く“魔法”とのことで―……彼が杖を一降りすれば、シーツは元の白いリネンへと姿を変え、不快な匂いも一瞬にして消えていった。
私の知っている魔法とは異なる“魔法”
ただ、驚かされるばかりだが知的好奇心が出てきたことも確かだ。一体、どういう原理なのだろうか?
「昔から気分の悪いときにはこれと言われておるんじゃ。ふむ……いい香りじゃの」
「カモミールに含まれる精油には鎮静作用がありますから。それに、その中でもアズレンと言われる成分には抗痙攣作用があります。消化器症状にも効くでしょうね」
ダンブルドアが淹れたカモミールティーを一口口に含めば、琥珀色をした液体は喉元を擦り抜け、爽やかな風味を残して消えていった。……うん。少しだけ悔しいがこの老人が淹れたお茶は文句の付けようがないくらい美味しいものだった。
「……ほう!カモミールティーが吐き気に効くのにはそんな理由があったのか!」
「……もしかして、分からないで飲んでたんですか?」
「ほっほ。昔から言われとったことじゃからの。しかし、おぬしのその豊富な知識―……やはり、おぬしは……」
湖畔を思わせる淡い水色の瞳に鋭利なあかりが灯る。先程、開心術とやらを私に使う前に見せていた光だ。人を疑う、猜疑の光。
やっぱり、この老人は狸だ。人の良さそうな笑顔の裏に透けるそれに思わずため息を吐いてしまったのは仕方がないことである。私はこの顔が一番嫌いだった。
「……いいですよ、疑ってくれても。でも、その笑顔、止めて下さい。私、その顔嫌いですから」
沈黙。
それは私が予想の範疇外の事を口にしたためか否か―……どちらにせよこの笑顔が消えるのならどうでも良かった。
「中々はっきり言う子じゃのぉ……まあ、よい。本題に入らせてもらうわい。おぬしの記憶は―……」
―……お待ちなさい!ルイ!今、医務室では重要な話が……―
―……心配はないよ、マクゴナガル教授。なぜなら、中にいる彼女のことを私はよく知っているからね……―
―……だとしても彼女は怪我をしているのですよ!?……―
不意に聞こえてきた不穏な声に顔の筋肉が引きつったのが自分でも分かる。声のする方へと視線を向ければ、その先にはここと外を繋ぐ扉が一つ。
二つする声のうち一つはミネルバのものだろう。先程から姿が見えないと思っていたが、大方ダンブルドアに頼まれて何かを取りに言っていたとか見張りをしていたとか、そんな理由だろう。こちらは問題ではないのだ。こちらは。
「……して、おぬし……それは一体……」
「ああ、気にしないでください。気休めみたいなものですから」
……自分のベット横の棚に目を向ければ―……よかった。どうやら武器はあるようだ。火力に難ありだが―……この際贅沢は言ってられない。
しかし、ルイ―……ルイ、か。ルイなんて名前、特に珍しくもないはずだし、世界中に(……ここがどこかも知らないが)ごまんといるとは思う。
第一、奴は滅したはずだ。あの日、魔界のケテル城で奴は滅んだはずだ。はずなのだが―……
「わしの気のせいかの……?おぬしが持っているそれは確かマグルの間では拳銃と―……」
「正確に言えばベレッタ92Fですね。ワルサーP38の流れを汲むプロップアップ式ショートリコイル機構を持ち、複列弾倉に15発の9mmパラベラム弾を装填可能です」
軽く弾倉の確認と銃弾の手持ちを確認すれば―……うん。こんな弱い銃だがないよりはマシというものだろう。備えあれば憂いなしとは昔の人は上手いことを言ったものだ。……ただ、一つ問題点をあげるのなら、こんな装備じゃてんで相手にならないという点だが。
「一つ忠告しておきます。結構音がすると思うので耳を塞いでいてください」
「……なんと……!」
老人の瞳がゆれる。こんな狸でもこんな顔が出来るのかと少しばかり驚いたのはここだけの話だ。もっとも、私は一点に視点を固定しているため、その顔は既に視界から外れているけれど。
―……とにかく、大丈夫さ。……というわけで中に入らせてもらうよ……―
―……お待ちなさいッ!!……―
見つめる先はただ一点。セーフティを外し、人差し指をトリガーにかける。そして、その刹那―……乾いた轟音が続けて二回。扉が開いたその瞬間、私が放った二つの弾丸は寸分狂わずにその人物へと向かっていった―……はずだった。
「……Mr.サイファー!?こ……これはッ……!?」
「……これは無言呪文!?ルイ……おぬし……」
轟音と共に発射された弾丸が音もなく消える。いや、正確に言うならその人物の前に突如として現われた光の壁に阻まれ蒸発したのだけれど。
「相変わらず過激な愛情表現だな。テッド」
「黙れ、その名前を呼ぶな。このトイレットペーパー魔王」
自分ともヒロコとも違う、男のやや赤みを帯びた金糸が揺れる。紫晶石を思わせる瞳に浮かぶ感情は何時だって読み取れなかった。ただ、今までと違う点を上げるとするならば―……この男の見た目が若干若返り、服が胡散臭いスーツやら変態丸出しなトイレットペーパーを思わせる布切れではなく、黒い学制服のようなものに変わっていることだろうか。
「……どうした?ケテル城で対峙した時のように裸体のほうが良かったのか?だったら―……」
再び轟音が轟き、紫煙の匂いがまた一つ濃くなったことは言うまでもない。誰かデザートイーグルやショットガン持ってきなさいよ!
「……つまり、二人は知り合いということですか?」
「止めてください、ミネルバ。おぞましいです。知り合いたくもありません。こんな変質者」
壁に掛けられた古びたアンティーク調の時計が、話が始まってから既に半刻ほどの時間が流れたことを告げる。
今、この場には四人の人間がいる。……いや、一人は違うが。
一人は私。もう二人はあまりの話の展開に付いていけていないのか今だに驚きの色を消せないダンブルドアとミネルバ。そして、最後の一人。得体の知れない笑みを浮かべている―……
「……そうだな。知り合いというには私達は互いのことを知りすぎている。言うなれば―……」
「いえ、敵です」
間髪入れずそう割り込めば、こいつの顔に浮かんでるのはやっぱり気持ちの悪い笑顔で―……本ッ当!相変わらずだなこのセクハラ大魔王ッ!!
大魔王ルシファー
私達の世界でその名を知らぬ者はいないであろうというほどの大魔王。メシア教の解釈によれば、ルシファーは元々全天使の長であったが、土から作られたアダムとイヴに仕えよという神の命令に不満を感じ反発し、それがきっかけとなり神と対立したため天を追放され、神の敵対者となったとされている。
まあ、これはメシア教によって都合良く作られた話であり、実際はかなり違った理由だったのだが―……
「……ダンブルドア。あなたも私の記憶を見たのだから分かるはずです。こいつは魔王です。どんな理由でここに来たのかは知りませんが、こいつが人間でないことは確かです」
「……つれないな。まあ、だから可愛い―……」
「可愛くもなければ照れ隠しでもありません。ルイ、質問に答えなさい。
あなたは確かに一度滅んだはずです。……私と兄達の手によって。そのあなたがなぜ生きていて、そしてここの生徒になっているのですか?」
―……私を倒すまでになった。だが、覚えておくがよい。人間は自分だけで生きられるほど強くない……―
……そう。倒したはずなのだ……
ヒュウ……と誰かの喉が鳴る。それはミネルバかアルバスか私か―……はたまた全員なのか。ただ一人、ルイ……いや、魔王ルシファーだけは楽しげに瞳を細めたままだった。
「さて、どこから話せばいいか―……」
カモミールの優しい芳香がやけに場違いに感じた。