Hetu-Phala
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逃げ来るを、
なほ追いて、
黄泉比良坂の
坂本に至りし時―……
《Hetu-Phala》
谷山 結衣
平成××年 8月29日 PM4:30 都内某所
「うへぇー……何さ、この暑さ……」
約一ヵ月の夏休みももうすぐ終わりに差し掛かった八月の後半。都内のコンクリートジャングルは連日の猛暑により、それはもう灼熱地獄もかくやという暑さである。
こんな地獄の暑さを生み出している原因をあおいで見上げれば、あまりの眩しさに視界が一瞬で白く染まった。
「おーい、谷山ー!!悪いがこの土嚢そっちに運んでくれねーか?それ終わったら今日は上がっていいからよー!」
「あっ……はーい!!」
拭いても拭いても滝のように流れる汗がぽたぽたと音もなく流れ落ち、熱されたアスファルトの上に染みを作ったかと思えば一瞬で揮発する。せめてもの抵抗とばかりに新たに滲んだ汗を首に下げていたタオルで乱暴に拭えば……拭っても暑いもんは暑かった。
あーあー……金払いはいいけどやっぱ夏に土方のバイトやるもんじゃないな……今度からは少し考える―……
「おーい!!まだかー!?」
「あっ!すみません!!すぐやります!!」
工事現場のけたたましい機械音に負けないくらいの二つの大声が、徐々に日が傾いた空に広がった。
うだるような暑さだけを残して少しずつ紫紺の闇が朱色を飲み込んでいく。八月もお盆をとうに過ぎた後半も後半じゃ、太陽が主役として鎮座している時間も徐々に短くなっていくわけで……まだ、今日流し込んだ乾き切らないアスファルトの道とは反対側の薄汚れたガードレールに寄り掛かって何をするわけでもなく背の高いビルが切り取った狭いくすんだ空を見上げれば、一羽のカラスが人を小馬鹿にするような鳴き声を上げて飛んでいく姿が目に入った。
「ごくろうさん。おお!そうだ、谷山!ほら、これ今月分の給料。しっかりあるか確かめてくれや」
「やりっ!!待ってました!!」
青年……いや、もう中年か。連日の土方作業でこんがり真っ黒に焼けた年のわりにはガタイがえらく良い中年男性が差し出した封筒を私はウキウキとした気持ちで受け取った。
待ってましたとばかりに両手でその茶封筒を包み込めば……!ああ、なんという心地よい手触りッ!!
口座振込が多い昨今。ここのように現生をバイトにそのまま直接渡すところは少ないのかもしれない!
だが!!
この瞬間って本当にたまらないのよね!!現物を手に取り、そして労力に合った対価が払われる…その素晴らしい瞬間を直に味わえるこの高揚感と幸福観!!ああ!汗を流すって本当に素晴らし―……
「……監督。私のお給料……少なくないですか?」
「……ああ。ほら、今月谷山、旅行だなんだって言って先月ほど現場に来てなかったろ?……だから、それが対価ってわけだ。まあ、諦めな」
そう言うと、現場監督はくしゃくしゃと潰れた箱から一本煙草を取り出し、美味しそうにその紫煙を吸いながら豪快に笑った。
「……嘘でしょー……」
漫画であればガクッという擬音が付きそうな勢いで頭を垂らせば、あほーと人を馬鹿にしたような鳥の鳴き声が一度やけに耳に響いた。……今晩は夕食焼き鳥にしちゃる。
「……っと!もうこんな時間!すみませーん!!先上がります!!」
さっき見上げた時よりも更に深い黄昏の闇が空を侵食していく。何気なく見上げた街灯時計は五時半を知らせていて……ヤバい。今日の夕飯の当番私だったっけ。あまりに遅くなれば、帰ってから妹のどえらい顰蹙を買うはめになるだろう。それだけはごめんこうむりたい。
「……おう!気を付けて帰れや。ここらも最近物騒だしな。それに……ほら、何だ?こんな薄明るいような暗いような時間。……おうな?……おきな?」
「……監督。もしかして、逢魔が時ってやつですか?」
うーん……と頭を捻る監督に呆れたように返答すれば、彼はポンと一度手を打つと肯定の意味を込めて首を短く縦に振った。
「そうそう。それそれ!まあ、とにかく変なのに攫われないようにな!」
そこまで言うと監督はひらひらと手を振って仕事へと戻っていった。まあ、谷山の力なら返り討ちにしそうだけどな。なんたってお前の馬鹿力はゴリラ並み―……とかなんとか聞こえた気がするけど聞こえなかったことにしておこうかな。
「……“逢魔が時”ねー……」
もはや水を軽く通り越してお湯ではないかと思うような、余った屁温い特製麦茶を口に含めば、息と一緒にさっき監督が言った言葉も一緒に漏れる。
逢魔が時。確か、読んで字のごとく、妖怪やら幽霊なんかのヤバいものに出会いそうな時間―……だよね。
幽霊なんかいるわけないじゃん!!
……と、言い切ってやりたいところは山々なんだけれど―……
「出来ないしなー……」
一昔前ならばそう言い切ってしまうところだけれど、生憎、有り難くない事に色々と経験してしまった今じゃ否定しきれないのが悲しい。
まあ、そんな私の経験もナルに言わせれば“人を通したデータであるかぎり何の意味も持たない”経験なんでしょうが。
ふっ……と立ち止まった場所は、都会の煩いくらいの雑踏の中心で……見上げれば、狭い薄汚れた空があって……そして、人々を取り囲むように立ち並ぶのは、近代科学の英知の結晶であるガラス張りの高層ビル。私の周りに広がっている風景はどこまでも近代的で、どこまでも現実的な風景なのに。
「……馬鹿らし。早く帰ろ―……ん?」
再び雑踏の一部となるべく足を踏み出そうとすれば、人と人との切れ目から一本の細く伸びた路地がやけに鮮やかに視界に飛び込んできた。そして、そこにはいかにもホームレスですって感じのボロボロの服を着た一人の人間と、今時田舎のヤンキーでも着なそうなだっさいド派手な格好をした二人の男の姿。
「……今時、腰パン?流行んなくない?」
視界の先にいる二人に対してまず湧き出てきたのはそんな感想だった。第一、あのファッションは手足の長い白人がやるから様になるのであって、黄色猿もとい東洋人がやったらそれこそ、奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入でしかない。……ああ、あの猫型ロボットのアニメ確か今日の夜テレビに入るような―……
「……そんな事言ってる場合じゃないか」
現に、その奇妙奇天烈(略)な連中は、ボロボロの服を着た人の襟首を掴みニヤニヤと口を動かしているのだから。馬鹿な事を考えてる暇はない。
この場合、関わらないというのが不文律―……というか正解のような気がするけど―……それはそれで目覚めが悪い。だったら。
ふう……っと、お世辞にも綺麗とは言えない空気を肺に、お腹にいっぱい蓄めこむ。そして―……
「おっまわりさーーーーん!!!こっちです!こっち!!カツアゲ!カツアゲでーーす!!」
叫んだ。
ええ、そりゃあ盛大に。
途端に雑踏全体にどよめきが走り、それに合わせるようにして人の流れも一時的に止まった。私の視線の先にあるのは勿論あの細い路地で、必然的に人々の視線もそこに集中する。
自分達が置かれている状況のまずさに気が付いたのか、奇妙(略)な二人組はまるで蜘蛛の子を逃がすように走り去っていった。ちなみに、勿論警察なんて周りにいるわけもなく―……嘘も方便。ってね。
「……大丈夫?怪我とかしてない?」
「……」
連中の姿が完璧にいなくなったのを見計らってからその人へと近づけば、言葉の代わりに沈黙が返ってくる。足首近くまでボロボロのコートのようなものを身に纏ったその人の顔は―……生憎、長く垂れ下がった前髪に隠れて表情をこちらから伺う事は出来なかった。でも、この子、なんでこんな真夏なのにコートを?……って今はそれどころじゃないか。もしかして、まだびっくりしてるのかな?そりゃあ、いきなり襟首掴まれて恐喝されれば誰でもそうなるか。
「……あいつらもういないから。大丈夫だと思うよ?」
「……」
やっぱり沈黙。声も出ないほど怖い思いをしたっていうことだろうか?
……別に、こっちもありがとうという言葉が欲しくてこんな事したわけじゃないから構わないけれど。
「……大丈夫なら、私、もう行くね」
「……ねえ……」
……ふっと、鼻腔を何とも言えない香りがくすぐった。それに合わせて背中越しから聞こえてきた声に慌てて振り返れば、今までしゃがみこんでいたその人は、すくっと棒のように立ち上がり、そして、こちらを見下ろしていた。気味が悪いくらい……微動だにせず。
「……常世って信じる?」
「とこよ……?」
生ぬるい黄色い闇を背負った風が一陣、路地を吹き抜ける。この時期の、この街ではなんら不思議ではない種類の風なのに、まるで真冬の北風でも当たってんじゃないかってくらい冷たいもののように感じたのは何故だろう?
「……逃げ来るを なほ追いて 黄泉比良坂の 坂本に云たりし時―……」
私の目の前のそれは、まるで歌を歌うかのように言葉を紡ぐ。まるで、読経のように……ゆっくりと―……
目の下まで大きく垂れ下がった前髪が相変わらず邪魔で隠れた表情は依然として伺えなかった。
目の前のこれは何?
男?女?子供?老人?
人……?
何も分からなかった。ただ、低いような高いようなその声だけが鼓膜に張りつき揺すっていった。
「おーい!!結衣!!お前、何やってんだ!?こんなところで!!」
突如聞こえてきた聞き覚えのある低い声に、どこかピントがズレていた意識が急浮上する。振り返れば、そこには顔馴染みの茶髪で長身の優男の姿。男はこちらに向かって大きく手を振っていた。
「ぼーさん!?ぼーさんこそ一体どーしたの!?あのさ!この人が―……って、あれ?」
「この人って……?ああ……そうか。守銭奴過ぎてついに頭がおかしく……おいで、お兄さんが胸で慰めて―……」
「……定職ついてからものを言えッ!!」
バコ……!っという小気味よい音を立てて、男の顔面にめり込む中身がまだ半分ほど入った五百ミリリットルのペットボトル。うわっ……痛そ。
自分でやったことながら、まるで他人事であるかのように私はそう呟いた。
「ってー……何も本気でぶつける事ないだろー?」
「現役女子高生にセクハラする方が悪い!」
「もう、結衣ちゃんってばうぶなんだから」
語尾にハートでもくっついてんじゃないのかというひたすら軽いノリに思わず零れるのは海より深いため息で……ほんっと!いっつもいっつもぼーさんは……!!
私の横に並んで歩いているこの優男の名前は滝川法生という。都内でアマチュアバンドのベースを担当しているベーシストにして兼坊主。……何を言っているか分からないかもしれないがこれは事実である。
滝川法生―……またの名をぼーさんは、由緒正しき高野山にて修業に励んでいた坊主だった。ええ……過去形なんですよ。ええ。
何でも、山はロックだのメタルだのといった音楽は持ち込み禁止で、あんまりにも堅苦しいから山を下りたとはいつかの本人談。そりゃあ、ロックをする坊主なんてちょっと想像力たくましい人でも中々想像できないと思う。木魚掻き鳴らすとか……?ないない。
まあ、つまり平たく言っちゃいますと―……
「……これだから、破壊僧は」
「仕方ないだろー?別に俺だって好きで坊主やったわけじゃないしな。
考えてもみなさいな?家が寺ってだけでやりたくもない修行をやらされる気持ち」
一瞬、曇ったぼーさんの表情。でも、その顔はすぐにいつもの笑顔に隠れて見えなくなる。……温い風だけはさっきと変わらなかった。
「……ごめんなさい」
「ん?どうしたんだ、急に?」
「……なんとなく。悪いこと言ったな、って」
そうポツリと言葉を紡げば、頭上からフッ……と誰かが笑ったような声が降ってきて、そして、次の瞬間。
「ああー!!もうこの姉妹本ッ当にいい子だなー!!二人まとめて俺の妹にならない!?」
「うわぁああああ!!髪!!髪ぐしゃるから!!」
非難の意味を込めてバタバタと暴れれば、それに比例するように更にぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。……本当はぼーさんの大きな手で頭をぐしゃぐしゃにされるの嫌いじゃない……なーんて、恥ずかしいから絶対に言ってなんかやらないんだから。
「そういえば。本当にお前、さっき何してたんだ?」
「……ああ、うん。ちょっとね。人助……け?」
「……その間が非常に気になるのはぼーさんだけか?」
そう言うと、ぼーさんは呆れたように一度息を付き、じとっとした半眼で私を見つめていた。うぅ……何だか居心地悪い。
「だからー!!本当だって!私だって人助けの一つや二つするんだから!
……ねえ、そうだ。ぼーさん、常世って知ってる?」
「とこよ?って、あの“常世”か?そりゃまた急に何で?」
「……たぶん、その常世だと思うんだけれど……今日、ちょっと聞かれたの。“常世を信じてるか?”って。常世ってあれだよね?海の先にあるっていう―……」
常世(とこよ)
平たく言えば、海の彼方や海中にあるとされる不老不死の理想郷―……
「……そっ。この間の吉見家の時も言ったが、日本古来の信仰だな。んでもって、そこから来る“マレビト”によって富や知識、命や長寿がもたらさせると信じられてきた―……ってところまで前は話したんだよな?」
「……うん」
一ヵ月前に起きたあの事件。ついこの間の記憶だから鮮明に脳裏に蘇る。それは、苦くて……悲しい思い出だけれど。
「……常世っていうのはな、隠世(かくりよ)とも言うんだ。永久に変わらない神域ってやつだな。それが転じて死後の世界だって言う奴もいる。それに―……」
「それに……?」
「常世っていうのは、常夜とも書くんだよ。だから、ちょうどこのくらいの時間だな。昼と夜の端境―……逢魔が時ってやつだ。その時間に常世と現世は繋がるんだとよ。大体、逢魔が時の別名の黄昏の語源は“誰そ、彼”。そこにいるのは誰?から来てるって話だ。確かに、“マレビト”は福をもたらすかもしれない。でも、それ以上に、昔の人は自分達とは非なる者―……常世とそこから来る者を畏怖し、恐れたんだよ」
薄暗い、でも薄明るい薄暮の空にポツポツと人工的なオレンジ色をした明かりが灯る。こんな話を聞いていたからか、その人工的な明かりを見てどこかホッとする自分がいた。
「第一、俺達は“マレビト”が必ずしも福だけをもたらすわけじゃないって知ってるわけだしなー……しっかし、“常世を信じるか”……ね」
「……うん。何だか気味が悪い」
ざわざわと真っ黒な墨のような不快感が心に染みを作る。肩越しに視線だけ振り返ってさっきの路地を見つめたけど……当たり前だが、そこには誰もいなかった。
「……そうだ!結衣!麻衣がお前を探してたぞ?」
「麻衣?何でまた?」
「さあ?俺の携帯にさっき電話が来てさ。お前、何にも連絡来てないわけ?」
……そんな事言われても麻衣からの連絡なんて―……少々乱暴に携帯の待ち受け画面を開けば、ぼうっと灯った液晶画面上に不在着信を告げるアイコンが―……うげっ……!
「……麻衣から五回着てる」
「おいおい。しっかりしてくれよ。姉ちゃん。……まあ、きっとこれからの調査のことだろうよ。俺の携帯にも今日、リンから連絡が着てな。でっ、俺も今からオフィスに向かうところだったってわけ」
……調査、か。何もなければ……なーんていくわけないよね。いつもの通りなら。
「……何だか今から頭が痛くなってきた」
「ん?おぶってやろうか?」
「セクハラ、ダメ、絶対」
―…見いつけた…―
誰かが発したその声は、誰にも気付かれることなく黄昏の風に溶けて蒸発していった。