Hetu-Phala
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【ゲヘナ(英Gehenna)】
キリスト教における地獄に相当するもの。
死後の刑罰の場所。
霊魂が神の怒りに服する場所。
《Hetu-Phala》
谷山 麻衣
××××
××年××月××日
「宮田です。神代の使いで来ました」
「確かに……」
身体がフワフワする。身体とは正反対の鉛のように重たい瞼を開けば、やっぱり一面を濃い霧が覆っていた。
真実も嘘も一緒くたにまとめて飲み込んでしまうような霧の中。ここまではさっき見た夢と変わりがなかった。ただ、一つさっきの夢と違うのは―……声の主達の顔がやけにはっきりと見えたこと。
「27年ぶり……ですね。ご成功をお祈り申し上げます。では……」
吉村さん
そっか。この男の人、結衣姉達を見てくれたあのお医者さんにそっくりなんだ。……じゃあ、もう一人。宮田と名乗ったこの人と同じ顔をしたあの黒い服を着た男の人は?
「ッ……!!」
そう思った、次の瞬間。霧は一瞬にして白から黒に塗り変わって、まるで地面がなくなったようで、あたしの身体は下へ下へと落ちていった。ううん。落ちてるんじゃない―……これ誰かに引っ張られてるんだ!誰が!?
獣にも似た唸り声が下から下から鳴り響いて、あたしの身体を這いずり回る。
嫌だ!怖い!嫌ッ!!そっちには行きたくないッ!!
―……麻衣ッ!!……―
暖かい声―……ずっとずっと聞きたいと思ってたあの声がする。恐怖のあまり強く瞑った瞼を開けば、そこには―……
「怖い……不安なんです……」
「大丈夫、今度こそ。ずっと見てきたんだから」
ここは―……教会?
気がついた時、あたしがいたのは霧の中ではなくどこかの教会だった。奇妙な模様のステンドグラスから歪んだ光が延びて、奇妙な形の十字架を照らしている。
その聖堂の中心にいたのは二人の男女だった。
赤い頭巾を被り、赤い服を着た妙齢の女性と、ジョンと同じような黒い牧師を着た若い男性―……吉村さんと同じ顔をしたあの男の人。
二人にはあたしの姿が見えないようだった。
まるでお母さんにぐずって縋りつく子供みたいに、男の人は女の人に泣き付いている。慰めるように男の人を撫でる女の人の手はとても優しいものだった。
「今まで……ずっと……」
女の人の声が残響する。
優しくて、甘ったるくて……とても嫌な音だった。
++++++++++++++++++++
ジョン・ブラウン
蛭ノ塚/県道333号線
昭和78年8月3日
AM 11:59
「ここまで来ればもう大丈夫」
吉村―……いや、牧野はんが嬉しそうに僕らに告げる。牧野はんの声に、僕も知子はんも顔を輝かせた。この後、僕らを待ち受けているものも知らずに。
牧野はんと僕が出会ってから早半日あまり。僕らは化け物が無数徘徊する廃村を駆け抜けてきた。あの頭痛の後、使えるようになった他者の視点を盗み見る能力を駆使して。
……この力は間違いなくESPだ。一般的に単に超能力とも呼ばれるESP―……超感覚。 谷山はんや原はんはともかく、僕にはESPがなかったはずなんやけど―……
「ジョンさん?大丈夫ですか?」
「おおきに。心配せんとください」
急に考え込んだ僕を不思議に思ったのか、同行者である少女―……前田知子が心配そうに僕に尋ねる。
知子はんは牧野はん同様、この羽生蛇村に住む少女だ。耳の下で二つに括られた黒い髪に日本人の学生がよく着ている動きやすそうな赤いジャージを身に纏っている。年は麻衣はんより少し下だろうか?
知子はんはどこにでもいる普通の少女だった。
「よかった―……ジョンさんまで変になっちゃったらどうしようかと思ったんです」
そう言って安堵の息を漏らす知子はんに僕と牧野はんは揃って苦笑いを浮かべた。確かに、知子はんのいう通り、こんな異常な状況で今だ狂わずにいられるのは、ある意味奇跡なのかもしれない。
あかんですね。今はまだ感傷に浸るには早過ぎる。そのためにも、今は一刻も早くこの村から脱出しなければ。牧野はんの話だとこの道路の先に外に通じる道が―……
「……海だ」
知子はんがやっとのことで、絞りだすように声を出す。そのただならぬ声に僕の頬を嫌な汗が一筋流れた。
「村が―……消えてる」
牧野はんはと言えば、白い顔を更に青冷めさせ、歯を震わせている。
僕も滝川はんの車で羽生蛇村に来たから分かるが、この村は四方を山で囲まれていたはずだ。にも関わらず、急に視界の先に海が現われた。ただの海じゃない。まるで血のように赤い紅い海が広がっている―……
……ここはゲヘナだ。
主である神の姿を未来永劫臨む事の出来ない渇望的な苦しみが続く地。
霊魂と復活した肉体を蝕む硫黄の灰と業火が燃え盛る場所。
酷い絶望と苦しみが訪れる呪われた地。
「求導師様……ジョンさん、あれ……」
知子はんが指差す先にいたのは、先程まで僕らを襲っていたあの亡者達だった。列をなして、ただ一点を見据えて亡者は行進していく。低く鳴り響くサイレンの音に導かれるようにして。
「この音……怖い。何かの鳴き声みたい。私達どうなっちゃうの?」
涙を流しながら知子はんが呟く。
僕も牧野はんも彼女を慰める言葉を何一つ持っていない。言葉の代わりに不気味な音だけがあたりにこだましていた。
++++++++++++++++++++
松崎 綾子
蛭ノ塚/水蛭子神社湧水
昭和78年8月3日
PM 0:27
「せ~んせぇ……綾子さ~ん。アタマ変になりそうです。喉も乾いて死にそう~……」
「何言ってるのよ。まだ文句を言う元気があるうちは大丈夫よ」
「えっ~!綾子さんったらひっど~い!!」
依子のこういった発言に多聞が吐いたため息の数は、はたして何回目だろうか?数が数なので最初から数えてないけど。
あの後なんとか集落まで辿り着いたアタシ達は順番で仮眠を取って―……今の時刻はちょうど正午ぐらいだろうか?もっとも、狂ったこの村で時間という概念がきちんと働いていれば、だけれど。
昨夜の黒一色の世界から一転。日が上った後、この村は白い闇の世界に変わっていた。あちこちで立ち上る水蒸気が霧になり、周囲を覆い尽くしている。これでも早朝よりマシになったとは言え、依然として視界は数十メートルもない。
「あー……もう!我慢出来ないッ!!」
頭を強く掻きながらそう言うと、依子はあろう事かあの赤い水に口をつけようと顔を近付けた。
「バッ―……!!」
この水を飲むって正気じゃいられなくなるわよ!?
依子を止めようと伸ばしかけた腕が空を切る。依子に避けられたわけじゃない。ただ、アタシが止める必要がなくなったから。アタシが諫めるよりも早く多聞が動いたのだから。
「黄泉戸喫くらいは知っているだろう!?この水はけして飲むな」
「はあ?ここが黄泉の国って事ですか?」
よもつへぐい―……
多聞の言葉が頭の中で反芻する。
黄泉の国―……死者の世界の食べ物を口にした者は現世に帰れないという伝承。日本神話のイザナギの黄泉帰りやギリシャ神話の柘榴を食べたコレーの伝説など―……この手の神話は世界中のあらゆる地域、民族で見られる。
それだけ食べる―……異物を体内に取り込むという行為は特別視されてきたのだ。
アタシが使った九字を知っていた事からも明らかなように、多聞は日本神話に明るい。恐らく、多聞もこの話を知っていて、だからこそ依子の行動を強く咎めたのだろう。
「とりあえず、今度はここで待て。足手纏いになるからついて来るなよ。また、戻ってくるまでじっとしておいてくれ。―……すまないが松崎君もここに残ってくれないか?君も知っているように安野一人ではここは流石に危険すぎる」
そう告げる多聞の言葉の端々に“いろんな意味で”という言葉が見え隠れしているように思えたのは、アタシの気のせいだろうか?
まあ、待つぐらいなら―……
「アタシは構わないけれど。アンタはどうするの?」
「私には銃がある。安野の事よろしく頼む」
「むう~~せんせ~い。私じゃ頼りないって事ですかぁ?」
霧が晴れる気配は―……まだない。
++++++++++++++++++++
滝川 法生
刈割/切通
昭和78年8月3日
AM 7:52
「やあ~っと追い付いた。俺もうジジイなんだからそんなに走るんじゃねーよ。ん?須田少年、その子は?」
「あっ、滝川さん。それが俺もよく分からないけど、俺がここに来たらこの子が泣いてたんです」
雨でぬかるんだ地面に足を取られつつ、やっとの事で須田と合流すれば、須田の他にもう一人の人間がいた。
烏の羽のように、夜のように黒くて長い髪。
石膏のように白い肌。
年は須田や麻衣と同じぐらいだろうか?子供から大人への過渡期特有のあどけなさが残る顔。それは人形のように整った容姿をした少女だった。
―……誰かに似ている。
「……誰?」
「ああ、この人は滝川さん。俺、この人に助けてもらったんだ。とりあえず、ここを離れよう。なんか滅茶苦茶ヤバい状況みたいだし」
少女に対して簡単に紹介を済ませると、幼い子供に諭すかのように須田は告げる。
確かにどこのB級ホラー映画だよ……と言いたくなるくらいこの村は不浄な存在で満ち溢れている。一刻も早くここから立ち去るべきだという須田の意見には俺も賛成だ。
しっかし、こういった現世にあるまじきものを感じとるESPの力は俺にはなかった……と、いうよりなくしたはずだったんだが……切羽詰まった時ながら、俺は、谷山姉妹と真砂子の苦労っぷりを改めて思い知っていた。
こんなとんでもない光景をあいつらは見てるんだよなぁ―……うへっ……気が滅入る。
「……ん?滝川さん……足音が……」
突如、須田が声を潜めそう俺達に呟いた。耳を澄ませれば―……笹の葉が踏み分けられ擦れる音、それに伴って何者かの足音が近づいてくるのが分かる。
その音に俺達の間に緊張が走った。この音の主があの化け物たちである可能性は高い。
はたして2人を庇って、自分自身も守れるのか―……チッ…!こりゃあ、腹括るしかない。
俺は手印を組み、来たるべき時に備えてマントラの一節を唱え始めた。
来るなら来いってんだッ!
って―……こいつ、確か―……
「美耶子?まだお前の役目は終わっていないだろう?お前がいなければ続きを始められない」
「お前さん―……淳か?」
「……滝川さん、知り合いですか?」
「ん、ああ……そのはずなんだが―……」
霧の中から現われたのはあの化け物ではなく、神代家長女の婿養子である神代淳だった。だが―……
「……フン。“あっち側”に行くのも時間の問題か」
俺と須田を一瞥し、鼻で笑うと淳はそう吐き捨てた。
その言葉も笑顔も、お世辞にもいいのものだとはとても思えない。
本当にこの淳は昨日会った淳なのだろうか?
婚約者である亜矢子の手を取り朗らかに笑っていた淳と今の淳が同一人物であるとは、とてもじゃないが思えない。
生じた違和感に鳥肌が立ったのが分かった。
「“あっち”?」
「……まあ、いい。妹が世話になったみたいだな。とりあえず礼を言うよ」
須田の言葉にそう返答すると淳はとても礼には思えない礼を俺達に述べた。お前、そんなんじゃ社会に出てやってけねーぞ。
待て。今、妹って言ったよな―……そうか、この子、誰かに似てると思ったが亜矢子に似てるんだ。……って、なるとこの子が行方不明になってた“神代美耶子”か!
「……ッイャアアアアアアッ!!!」
「オ、オイッ!?」
鈍い音が靄のなかに響く。突如、美耶子が叫んだと思えば、彼女はどこから拾ったのか手にした廃材で淳を殴り倒したのだ。あまりに急な出来事に茫然とする俺達を尻目に美耶子が叫ぶ。
「早くッ!!連れてけッ!!」
―……一体、何がどうなってんだ?
真実は今だこの濃い霧の中に隠されていて俺には見えそうにない。
キリスト教における地獄に相当するもの。
死後の刑罰の場所。
霊魂が神の怒りに服する場所。
《Hetu-Phala》
谷山 麻衣
××××
××年××月××日
「宮田です。神代の使いで来ました」
「確かに……」
身体がフワフワする。身体とは正反対の鉛のように重たい瞼を開けば、やっぱり一面を濃い霧が覆っていた。
真実も嘘も一緒くたにまとめて飲み込んでしまうような霧の中。ここまではさっき見た夢と変わりがなかった。ただ、一つさっきの夢と違うのは―……声の主達の顔がやけにはっきりと見えたこと。
「27年ぶり……ですね。ご成功をお祈り申し上げます。では……」
吉村さん
そっか。この男の人、結衣姉達を見てくれたあのお医者さんにそっくりなんだ。……じゃあ、もう一人。宮田と名乗ったこの人と同じ顔をしたあの黒い服を着た男の人は?
「ッ……!!」
そう思った、次の瞬間。霧は一瞬にして白から黒に塗り変わって、まるで地面がなくなったようで、あたしの身体は下へ下へと落ちていった。ううん。落ちてるんじゃない―……これ誰かに引っ張られてるんだ!誰が!?
獣にも似た唸り声が下から下から鳴り響いて、あたしの身体を這いずり回る。
嫌だ!怖い!嫌ッ!!そっちには行きたくないッ!!
―……麻衣ッ!!……―
暖かい声―……ずっとずっと聞きたいと思ってたあの声がする。恐怖のあまり強く瞑った瞼を開けば、そこには―……
「怖い……不安なんです……」
「大丈夫、今度こそ。ずっと見てきたんだから」
ここは―……教会?
気がついた時、あたしがいたのは霧の中ではなくどこかの教会だった。奇妙な模様のステンドグラスから歪んだ光が延びて、奇妙な形の十字架を照らしている。
その聖堂の中心にいたのは二人の男女だった。
赤い頭巾を被り、赤い服を着た妙齢の女性と、ジョンと同じような黒い牧師を着た若い男性―……吉村さんと同じ顔をしたあの男の人。
二人にはあたしの姿が見えないようだった。
まるでお母さんにぐずって縋りつく子供みたいに、男の人は女の人に泣き付いている。慰めるように男の人を撫でる女の人の手はとても優しいものだった。
「今まで……ずっと……」
女の人の声が残響する。
優しくて、甘ったるくて……とても嫌な音だった。
++++++++++++++++++++
ジョン・ブラウン
蛭ノ塚/県道333号線
昭和78年8月3日
AM 11:59
「ここまで来ればもう大丈夫」
吉村―……いや、牧野はんが嬉しそうに僕らに告げる。牧野はんの声に、僕も知子はんも顔を輝かせた。この後、僕らを待ち受けているものも知らずに。
牧野はんと僕が出会ってから早半日あまり。僕らは化け物が無数徘徊する廃村を駆け抜けてきた。あの頭痛の後、使えるようになった他者の視点を盗み見る能力を駆使して。
……この力は間違いなくESPだ。一般的に単に超能力とも呼ばれるESP―……超感覚。 谷山はんや原はんはともかく、僕にはESPがなかったはずなんやけど―……
「ジョンさん?大丈夫ですか?」
「おおきに。心配せんとください」
急に考え込んだ僕を不思議に思ったのか、同行者である少女―……前田知子が心配そうに僕に尋ねる。
知子はんは牧野はん同様、この羽生蛇村に住む少女だ。耳の下で二つに括られた黒い髪に日本人の学生がよく着ている動きやすそうな赤いジャージを身に纏っている。年は麻衣はんより少し下だろうか?
知子はんはどこにでもいる普通の少女だった。
「よかった―……ジョンさんまで変になっちゃったらどうしようかと思ったんです」
そう言って安堵の息を漏らす知子はんに僕と牧野はんは揃って苦笑いを浮かべた。確かに、知子はんのいう通り、こんな異常な状況で今だ狂わずにいられるのは、ある意味奇跡なのかもしれない。
あかんですね。今はまだ感傷に浸るには早過ぎる。そのためにも、今は一刻も早くこの村から脱出しなければ。牧野はんの話だとこの道路の先に外に通じる道が―……
「……海だ」
知子はんがやっとのことで、絞りだすように声を出す。そのただならぬ声に僕の頬を嫌な汗が一筋流れた。
「村が―……消えてる」
牧野はんはと言えば、白い顔を更に青冷めさせ、歯を震わせている。
僕も滝川はんの車で羽生蛇村に来たから分かるが、この村は四方を山で囲まれていたはずだ。にも関わらず、急に視界の先に海が現われた。ただの海じゃない。まるで血のように赤い紅い海が広がっている―……
……ここはゲヘナだ。
主である神の姿を未来永劫臨む事の出来ない渇望的な苦しみが続く地。
霊魂と復活した肉体を蝕む硫黄の灰と業火が燃え盛る場所。
酷い絶望と苦しみが訪れる呪われた地。
「求導師様……ジョンさん、あれ……」
知子はんが指差す先にいたのは、先程まで僕らを襲っていたあの亡者達だった。列をなして、ただ一点を見据えて亡者は行進していく。低く鳴り響くサイレンの音に導かれるようにして。
「この音……怖い。何かの鳴き声みたい。私達どうなっちゃうの?」
涙を流しながら知子はんが呟く。
僕も牧野はんも彼女を慰める言葉を何一つ持っていない。言葉の代わりに不気味な音だけがあたりにこだましていた。
++++++++++++++++++++
松崎 綾子
蛭ノ塚/水蛭子神社湧水
昭和78年8月3日
PM 0:27
「せ~んせぇ……綾子さ~ん。アタマ変になりそうです。喉も乾いて死にそう~……」
「何言ってるのよ。まだ文句を言う元気があるうちは大丈夫よ」
「えっ~!綾子さんったらひっど~い!!」
依子のこういった発言に多聞が吐いたため息の数は、はたして何回目だろうか?数が数なので最初から数えてないけど。
あの後なんとか集落まで辿り着いたアタシ達は順番で仮眠を取って―……今の時刻はちょうど正午ぐらいだろうか?もっとも、狂ったこの村で時間という概念がきちんと働いていれば、だけれど。
昨夜の黒一色の世界から一転。日が上った後、この村は白い闇の世界に変わっていた。あちこちで立ち上る水蒸気が霧になり、周囲を覆い尽くしている。これでも早朝よりマシになったとは言え、依然として視界は数十メートルもない。
「あー……もう!我慢出来ないッ!!」
頭を強く掻きながらそう言うと、依子はあろう事かあの赤い水に口をつけようと顔を近付けた。
「バッ―……!!」
この水を飲むって正気じゃいられなくなるわよ!?
依子を止めようと伸ばしかけた腕が空を切る。依子に避けられたわけじゃない。ただ、アタシが止める必要がなくなったから。アタシが諫めるよりも早く多聞が動いたのだから。
「黄泉戸喫くらいは知っているだろう!?この水はけして飲むな」
「はあ?ここが黄泉の国って事ですか?」
よもつへぐい―……
多聞の言葉が頭の中で反芻する。
黄泉の国―……死者の世界の食べ物を口にした者は現世に帰れないという伝承。日本神話のイザナギの黄泉帰りやギリシャ神話の柘榴を食べたコレーの伝説など―……この手の神話は世界中のあらゆる地域、民族で見られる。
それだけ食べる―……異物を体内に取り込むという行為は特別視されてきたのだ。
アタシが使った九字を知っていた事からも明らかなように、多聞は日本神話に明るい。恐らく、多聞もこの話を知っていて、だからこそ依子の行動を強く咎めたのだろう。
「とりあえず、今度はここで待て。足手纏いになるからついて来るなよ。また、戻ってくるまでじっとしておいてくれ。―……すまないが松崎君もここに残ってくれないか?君も知っているように安野一人ではここは流石に危険すぎる」
そう告げる多聞の言葉の端々に“いろんな意味で”という言葉が見え隠れしているように思えたのは、アタシの気のせいだろうか?
まあ、待つぐらいなら―……
「アタシは構わないけれど。アンタはどうするの?」
「私には銃がある。安野の事よろしく頼む」
「むう~~せんせ~い。私じゃ頼りないって事ですかぁ?」
霧が晴れる気配は―……まだない。
++++++++++++++++++++
滝川 法生
刈割/切通
昭和78年8月3日
AM 7:52
「やあ~っと追い付いた。俺もうジジイなんだからそんなに走るんじゃねーよ。ん?須田少年、その子は?」
「あっ、滝川さん。それが俺もよく分からないけど、俺がここに来たらこの子が泣いてたんです」
雨でぬかるんだ地面に足を取られつつ、やっとの事で須田と合流すれば、須田の他にもう一人の人間がいた。
烏の羽のように、夜のように黒くて長い髪。
石膏のように白い肌。
年は須田や麻衣と同じぐらいだろうか?子供から大人への過渡期特有のあどけなさが残る顔。それは人形のように整った容姿をした少女だった。
―……誰かに似ている。
「……誰?」
「ああ、この人は滝川さん。俺、この人に助けてもらったんだ。とりあえず、ここを離れよう。なんか滅茶苦茶ヤバい状況みたいだし」
少女に対して簡単に紹介を済ませると、幼い子供に諭すかのように須田は告げる。
確かにどこのB級ホラー映画だよ……と言いたくなるくらいこの村は不浄な存在で満ち溢れている。一刻も早くここから立ち去るべきだという須田の意見には俺も賛成だ。
しっかし、こういった現世にあるまじきものを感じとるESPの力は俺にはなかった……と、いうよりなくしたはずだったんだが……切羽詰まった時ながら、俺は、谷山姉妹と真砂子の苦労っぷりを改めて思い知っていた。
こんなとんでもない光景をあいつらは見てるんだよなぁ―……うへっ……気が滅入る。
「……ん?滝川さん……足音が……」
突如、須田が声を潜めそう俺達に呟いた。耳を澄ませれば―……笹の葉が踏み分けられ擦れる音、それに伴って何者かの足音が近づいてくるのが分かる。
その音に俺達の間に緊張が走った。この音の主があの化け物たちである可能性は高い。
はたして2人を庇って、自分自身も守れるのか―……チッ…!こりゃあ、腹括るしかない。
俺は手印を組み、来たるべき時に備えてマントラの一節を唱え始めた。
来るなら来いってんだッ!
って―……こいつ、確か―……
「美耶子?まだお前の役目は終わっていないだろう?お前がいなければ続きを始められない」
「お前さん―……淳か?」
「……滝川さん、知り合いですか?」
「ん、ああ……そのはずなんだが―……」
霧の中から現われたのはあの化け物ではなく、神代家長女の婿養子である神代淳だった。だが―……
「……フン。“あっち側”に行くのも時間の問題か」
俺と須田を一瞥し、鼻で笑うと淳はそう吐き捨てた。
その言葉も笑顔も、お世辞にもいいのものだとはとても思えない。
本当にこの淳は昨日会った淳なのだろうか?
婚約者である亜矢子の手を取り朗らかに笑っていた淳と今の淳が同一人物であるとは、とてもじゃないが思えない。
生じた違和感に鳥肌が立ったのが分かった。
「“あっち”?」
「……まあ、いい。妹が世話になったみたいだな。とりあえず礼を言うよ」
須田の言葉にそう返答すると淳はとても礼には思えない礼を俺達に述べた。お前、そんなんじゃ社会に出てやってけねーぞ。
待て。今、妹って言ったよな―……そうか、この子、誰かに似てると思ったが亜矢子に似てるんだ。……って、なるとこの子が行方不明になってた“神代美耶子”か!
「……ッイャアアアアアアッ!!!」
「オ、オイッ!?」
鈍い音が靄のなかに響く。突如、美耶子が叫んだと思えば、彼女はどこから拾ったのか手にした廃材で淳を殴り倒したのだ。あまりに急な出来事に茫然とする俺達を尻目に美耶子が叫ぶ。
「早くッ!!連れてけッ!!」
―……一体、何がどうなってんだ?
真実は今だこの濃い霧の中に隠されていて俺には見えそうにない。