10万打記念小説

私はね、セブ。人類の時計の針を1秒でもいい、進めたいだけなの


≪スープとケルト≫

鉛色をした雲が重く立ち込めている。そこから降る薄汚れた灰色の雨は、工場の排水で汚染された川へと流れていった。

かつてはここにも活気があったという話だが、古い廃墟のような工場へと続く石畳の道の路地裏では小銭をせがむ者たちが溢れていた。

……何も変わらないー……故郷

闇へと向かい変化した自分とは違う。変化のない世界。変わらない街。

くだらない。


「……あなたは……!」


「……ッ!!?」


雨の音の混ざってコツコツと小さな足音が近づいてくる。

何て事がない音だったはずなのに、懐かしい声がそれを壊す。

……どうしてこの可能性を考えなかった……!

逃げようと試みたが、自分が動くより早くに私の手を彼女は捕まえていた。


「もう……!どうして連絡の一つもよこさないのかな。帰ってくるなら連絡しなさいって言ったでしょ?」


明るい彼女には似合わない皺を眉間に刻みながら、私に飛ばすのは聞き飽きた小言。

しばらくぶりに見た彼女は、自分の背よりもずっと小柄で……

記憶の中にある彼女の影と重ねてみても重ならず、でも、顔も声も確かに彼女のもので……最後に姿を見たあの日からそんなにも時間が経ってしまったのかと正直、驚きを隠せなかった。


「久しぶり。そして、お帰りなさい。セブ」


「……お久しぶりです。Rinn姉さん」


鉛の空から静かに降る雨が鉛色の街を濡らしていく。

にこりと笑う、少し歳の離れた実の姉のその顔に心がわずかに軋みをあげたような気がした。

「まさか出先でセブに会うとは思わなかったわ。どう?学校生活は順調?」


「Rinn姉さんは相変わらずみたいですね……」


……どうしてこうなった?

半ば強引に姉に手を引かれてやって来たのは、スピナーズエンドの郊外にひっそりと建っているアパートの一室だった。

華奢な外見のくせに性格は図太い姉に身内に対する遠慮なんて概念が存在しているわけがない。おまけに我を曲げないのだから始末に負えない。

科学の勉強の方が楽しいのに、絶ッ対そんなとこに行かない!!

そう頑なに言い張り、フクロウ便の手紙で実家が埋もれたのはもう何年前の話だろうか?

そんな姉の部屋には、羽ペンと羊皮紙の代わりに文字を打つというタイプライターという名の機械が、魔道書の代わりに科学書が置かれていた。


「ごめんごめん。論文の締め切りが迫ってて散らかってるの。そこに座ってて。今、軽いものを作るから」


奥の台所で何かを作り始めた姉は、振り返らずに言うと、手早く包丁を動かし始める。

姉が気に入っているという古いケルトのレコードの音と混ざるリズミカルな包丁の音を聴きながら、私は諦めに似たため息を漏らした。

……どうやら、しばらく帰れそうにない。


「はい!お待たせ!セブ、これが好きだったよね?」


「……Rinn姉さん、自分はもう子供じゃ……」


「学生の分際で何を言ってるの?それに自分は子供じゃないって言い張る人間ほど実はまだ子供よ」


チーズの焼ける匂いと、香ばしいパンの匂いが鼻腔をくすぐる。

グツグツと煮えたオニオングラタンスープの香りは部屋を包んでいった。

期待と少しばかりの脅迫が混じった瞳に気おされてスープに一口口をつければ、懐かしい味が口の中にジワジワと広がっていった。


「でも、たまには論文に煮詰まるのも悪くないわね。こうしてセブに会えたわけだし」


「何の論文を書いているんですか?」


「分子標的薬の可能性について。ほら前に話したでしょう?分子やヒトゲノムごとに特異的に働く薬の研究をしてるって」


「ああ……」


そう語る姉の瞳は輝いていて、彼女がこの研究に対して熱意と誇りを持っているのだということが自分にもよく分かった。


「……薬だけじゃないわ。近い将来再生医療だって可能にー……って、セブ、私の話聞いてる?」


「え、ええ」


「そう言うセブは?学校で何かしたい事は見つかった?夢は何か見つけたのかしら?」


ハープの乾いた音が部屋に静かに響く。

真っ直ぐに、射るように見つめる自分と同じ色をした瞳に言葉が詰まった。


「……Rinn姉さんの夢は……」


「ん?私の夢?」


姉は聡い人だ。きっと私の言葉が苦しい逃げの一言だと分かっているんだろう。

でも、それは言わずに、柔らかく微笑むと彼女は口を開く。

私はね、セブ。人類の時計の針を1秒でもいい。先に進めたいだけよ。

……と。


「……セブあなたの夢については私は分からないけど……疲れたらいつでもここに帰ってきなさい。弟の味方じゃない姉がいると思う?」


ツンと鼻の奥が熱く感じたのはスープの湯気のせいだろうか?

ただ分かるのは、このスープとケルトの音色が冷えた心を溶かす暖かなものだということだけだった。


Fin
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