夢主交流
そこであなた方に言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。
探しなさい。そうすれば見出す。叩きなさい。そうすれば開かれる。
誰でも求める者は受け、探す者は見出し、叩く者には開かれる。
あなた方の中に、子供が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。あるいは、卵を求める子供にさそりを与える者がいるだろうか。
このように、あなた方はたとえ悪い者であっても自分の子供に善い物を与える事を知っている。
それなら、天の父がご自分を求める者に聖霊を与えて下さるのは、尚更の事である。
【ルカによる福音書 第11章】
「こ、こは?……サクヤ、確か今まで毛布の中に……」
おばばの森に満ちる霧とは違う匂いを孕んだ霧がサクヤのお鼻を微かにくすぐる。匂いに手綱を引かれる様にして夢の世界から現実の水面へと浮上した意識が、その鏡面を浮かぶ木の葉の様にゆらゆら、ユラユラとたゆたった。
決して開かない自分の瞼を両の手でごしごしと擦って横たえていた状態を起こせば、見えない盲しいた(めしいた)瞳にどこまでも深い白が映り込んだ。
「どうしよう……ここ、おばばの森じゃない……サクヤ、ここ、分からない……」
首筋を柔らかな羽根が撫で擽る。ハッとしてそちらへと顔を向ければ、サクヤの肩に留まった白烏のビンガがか細い声で頼りなく一声鳴いていた。小さな、小さなビンガの体に自分の頬を寄せて、片手でその小さく暖かな体に触れてサクヤはギュッと口を噤んだの。
……そうだ。サクヤがしっかりしなくちゃ。だって、サクヤはビンガのお姉ちゃんなんだもん。サクヤ決めてるの。ビンガが大人になるまでサクヤが守ってあげるって。お姉ちゃんのサクヤが怖がってたらきっとビンガも不安になっちゃうよね?
「大丈夫だよ、ビンガ。ビンガにはサクヤがいるし、それにサクヤにはビンガがいてくれるから」
ビンガに、そして何より自分に言い聞かせるように言葉を紡いで「よっ」と一声声を漏らし反動をつけて立ち上がった。ふわふわとした空との境界が酷く曖昧な、溶けたような地面を踏み締めて。チリリ……と服の裾に付いた鈴の奏でる音が同心円の波紋を描いて、そして消えていった。
「……おや、お前は、確か……」
サクヤが霧の世界に一歩、足を踏み出そうとした……その刹那、不意に生じた今までここにはなかった低い男の人の声にビクリと肩が弾かれた様に縦に跳ね上がる。ドキドキと早鐘の様に左胸が鼓動を刻んで、背筋を一筋冷たい汗が重力の軛(くびき)に導かれるように落ちて行った。こくり……と音を立ててカラカラに乾いた喉が鳴る。……今までサクヤ以外誰もいなかったのに。ビンガ以外、誰の気配も感じなかったのに。
じっとりと汗ばんだ手の平を胸に押し当てて、鼓動を数える。大丈夫、怖くないって心の中で唱えてー……息を止めて一気に体ごと振り返えればー……
「あっ……」
まるで夕間暮れの空の様な、夜明けの空に一瞬だけ浮かび上がる様な紫紺が白い霧の中でふわりと咲いている。綺麗な、小麦の穂によく似た黄金色の瞳が瞬刻開いて、すぐに細くなって、その人の口元が僅かに動く。
「ベルゼお兄ちゃん……!」
「わっ……!おい、止めろ!サクヤ……!」
お兄ちゃんの唇が動くその前にトンッ!と柔らかな地面を強く蹴って、両手を広げてお兄ちゃんの胸の中に飛び込んだ。困ったようなお兄ちゃんの声にサクヤも気付いていたけれど、厭わずに抱き付いて、キュッとお兄ちゃんのお洋服の端を掴んだの。
「こわ、怖かった……だってこの場所、サクヤ知らない、から……分からない、から。サクヤ、お家で寝てて、でも起きたらここで……おばばもいなくて……ヒック……」
咽返る白い霧がシンシンと、真冬の満月の夜に降る雪の様に降り積もって行く。サクヤの足跡を消すように、サクヤの震える声を掻き消すように、はらはらと。
でも、不思議と寒く感じないのはベルゼお兄ちゃんが近くにいてくれるから、なのかな……?
ふう……と小さな音を伴って零れ落ちた深い溜息がサクヤの頭上に舞い落ちてー……次の瞬間、サクヤの体が境界が曖昧な地面からふわりと浮かび上がる。思わず出てしまった短い悲鳴を両手を使い口の中に押し込めてー……さっきよりもずっと近くなったベルゼお兄ちゃんの綺麗な整ったお顔をビンガの目を通じてサクヤは見つめた。
「……来てしまったものは仕方ないな。泣くな。ここは俺達の領域だ。まあ、外れも外れだが」
「……りょう、いき?ここもお兄ちゃん達のお家なの?」
「家と言えばいいか、庭と言えばいいかー……そんなところだ」
コテリと首を横に倒して尋ねれば、サクヤの首筋に沿ってサラリと結んだ髪が揺れ動いた。さっき出かかっていた涙はお兄ちゃんと話している間にすっかり乾いてしまって、無くした瞳がパチリと瞬く。
「……念の為にサタンにも報告しておいた方が良さそうだな」
「!!サタンお兄ちゃん達に会えるの?!」
「ああ、会える、会えるから。だから落ち着け。こう足をジタバタさせられたんじゃ抱きにくい」
サタンお兄ちゃん。
ベルゼお兄ちゃんがたった今口にしたその名前に、ベルゼお兄ちゃんを見つけた時と同じ様にサクヤの胸がトクリと鳴る。目蓋の裏側でベルゼお兄ちゃんよりも長いサタンお兄ちゃんの髪が棚引き、翻った。
「ふふ……サタンお兄ちゃんにもサクヤ会えるんだね~」
「……さっきまで泣きそうだったくせに」
「えへへ~……だって、サクヤ、サタンお兄ちゃん大好きだもん。勿論、ベルゼお兄ちゃんも!」
「なっ……ッ!!?」
「どうしたの、ベルゼお兄ちゃん?頭が痛いの?」
短く声を漏らし空いてる手で頭を抱え俯いてしまったお兄ちゃんを見つめながらもう一度横に首を倒した。……どうしたんだろう、ベルゼお兄ちゃん?やっぱり頭が痛くなっちゃったのかな?
「いたいのいたいの飛んでけ~~!」
「いや、そういうわけではなくてだな……」
「?じゃあ、もう痛くないの?」
柔らかな絹糸の様なお兄ちゃんの髪がサクヤの指にするりと滑って、絡んでいく。項垂れてしまったお兄ちゃんの頭を撫でて、いつもサクヤが使う呪文を唱えれば、お兄ちゃんはさっきよりも深い息を肺から吐き出したようだった。
「まあ、いい。しっかり掴まっていろ。飛ぶ」
「……うん!!えへへ……サタンお兄ちゃん、サクヤが来てるって知ったらびっくりしてくれるかな?早くサタンお兄ちゃん達に会いたいな~」
「さあな」
色濃かった白い霧が春の朝の霞の様に千切れて、ぼやけ、薄れていく。輪郭が曖昧な白の世界を最後に見つめて、改めてお兄ちゃんの体にキュッと離れない様に抱き付いた。
早く会いたいなって、皆の顔を思い浮かべながら。
Fin