夢主交流
カレーにジャムを入れてもスパイスの代わりにはならない。
パンにカレー粉を塗ってもジャムパンにはならない。
《カレーとジャムパン》
『たかぁああああいッ!!』
俺達の苦労はその一言から始まった。
ひょんな事から知り合った女性―…マナというらしいが、断言させてもらう。こいつは変だった。変人だった。
そもそもの事の発端は、俺がこいつが育てていると思われる植物の苗を踏ん付けてしまったことにある。
まあ、それだけならこちらが悪いから苗代をふんだくられた事だけなら仕方がないと諦める事が出来る。
事故にあったようなもんだと思えばいい。
だが、話はそれで終らなかった。何故かは知らないが、俺が今日の夕飯をこいつに食べさせることになったのだ。
その結果がこれだ。
俺とフィアの眼前で正々堂々と繰り広げられる恐喝―…もとい値切り交渉。
やれ傷が付いている、やれあっちの店はここより安かったなどなどマナの口から出てくる言葉は途切れることがない。
マナ曰く、“まっとうな取引”
…らしいが。おい、店員、涙目になってるぞ…。
目を覆いたくなる、または頭を抱えたくなるその光景に同行者であるフィアもさぞ呆気にとられているだろうと彼女の方に視線を送れば―…
奇声をあげて岩に抱きついているフィアの姿があった。違う意味で頭を抱えたくなった。
そうだった。こいつ、岩とか石マニアだったの忘れてた…。
『今日は天気もいいし、いっそタダで良くない?』
「勘弁してくださいよ―…」
「はぅううううッ!!この質感、このザラザラした肌触り…!張り付いてなかったら持ち帰りたいくらい!」
理論破綻も甚だしい事を笑顔で口走るマナ。
涙目になりながら哀願する中年親父。
まるでスライムか何かのように岩にへばりつくフィア。
…俺、泣いてもいいか?
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、周りの混沌度は激しさを増すばかりだった。
『あれ?ジンは?』
「寝てしまったみたいです。ジンは早寝遅起きですから。」
夏の暑さもそれを生み出している犯人が姿を消せばやわらぐもの。
とは言え、まだ昼の名残が色濃く残っているこの部屋にいるにも関わらず夢の国へと旅立っていったこの男に感心とも呆れともつかない感情が沸き上がってきたことは言うまでもない。
眠ったって―…ついさっき、って言うか、あたしが食器を洗って片付けてる間に落ちたのかよ。
男の名はジンというらしい。
宵闇を思わせる漆黒の衣装を身に纏ったこの男の髪は服とは逆に昼を思わせる眩しい金色で、その鮮やかなコントラストは見る者の目を掴んで放さない。
そして、もう一人。ジンと一緒にあたしの前に現われた女の子。
フィアと名乗ったその子は年はあたしより少し下だろうか?
大きな山吹色の帽子にそれと同じ色の法衣。
それだけでも十分周りの目を引くが、何より特徴的なのは彼女の髪色とその瞳だった。
綺麗なきれいな空色。蒼穹を思わせるスカイブルー。
まるで昼の空の色をそのまま溶かしたようなフィアの瞳と髪は見たものの記憶に深く刻まれる事うけあいだ。
二人は今日、いきなり現われた。
何を言っているがわからないと思うが、事実としてそうなのだから他に言い様がない。
裏庭で育てている可愛いかわいい苗木ちゃん達(…勿論、目的は自家栽培をして少しでも食費を―…なんでもないわ。)に水をあげようとちょっと目を離した隙に二人は突如として現われたのだ。
まあ、踏んだ苗もきちんと弁償してもらったことだし、そもそも悪い人たちじゃなさそうだったからこうやって家にあげているわけだけど。
生憎、あたしはそこまでお人好しじゃないから。見ず知らずの他人をすぐに信用することなんかできない。
にも関わらず、この二人を泊めてしまったのは二人の目があまりに綺麗なものだったからなのだろ。
それぐらいこの二人の瞳は澄んでいた。
「…本当にいいんですか?」
『…ん?』
崩れるように眠っているジンを見つめていたフィアがそう洩らしたのは、あたしがお茶の準備でもしようかと立ち上がろうとした、まさにその時だった。
「だって、どう考えても図々しいですし―…苗をダメにしてしまったうえにこうして泊めてもらうなんて…。」
なるほど。そういう事、ね。
でも、それを言うなら―…あたしは改めてフィアに向き合った。
『…フィア達こそいいの?』
「え?何がですか?」
そう言うと、訳が分からないとばかりにフィアは首を傾げた。
うん。予想通りだけど、この子は人を疑うことを知らないんだ。
真っすぐで無垢で―…きっとお人好し。
見ず知らずの出会ったばかりだというのにあたしを疑おうともしない。
こりゃあ、この子と旅をするのはさぞ大変なことだろうと、あたしはこっそり金色の青年に同情をした。
だけど、同時に羨ましくもあった。
確かに一緒に旅をするのは大変かもしれないけど、それ以上の楽しさが彼を待っていると思うから。
『いいの、いいの。わからないなら。それにこっちも晩ご飯に美味しいカレーをご馳走になっちゃったからね。
しかし、ここまで美味しいなんて思わなかったわ。てっきり、グミをご飯の上に敷き詰めたものとかチョコがかかったパスタが出てくるんじゃないかって思ったからさ。』
笑いながらそう話せば途端に曇るフィアの顔。
そして漏れだす力のない乾いた笑み。
…おい。まさかとは思うがどっちかやったのかよ、この男は。
「マナさんは…」
『あっ、いいよ、マナで。あたしもフィアって呼んでるし。』
紅茶の清々しい香りが鼻をくすぐる。
食事の締めにと出した紅茶は我ながら会心の出来で、砂糖を入れずともほのかな茶葉の甘味が感じられるそれをあたしはまた一口口に運んだ。
どうぞとフィアにも勧めれば、彼女は怖ず怖ずとその白い手をティーカップへと伸ばし―…
「美味しい!美味しいです、マナ!」
花のような眩しいくらいのフィアの笑顔にこちらも自然と笑顔になってしまったのは言うまでもない。
『…でっ、さっきは何を言い掛けたの?』
「あっ、うん。マナはずっとここに住んでるのかなって気になっちゃって。」
『…うーん。まあ、基本はそうだね。』
「基本?」
『あたし、しょっちゅう家空けるから。行商だったり観光だったり―…その都度理由は違うけど。』
誰かに根無し種の風来坊って言われたこともあったっけ。
…なんて言えば、分かる気がするとフィアはまた笑った。
本当にこの子の笑顔は見ていて飽きない。
きっと、この青年もそう思ってるんだろうな、なんて一人考えた。
『フィア達は?ずっとジンと旅をしてるの?』
「うん。…っと言っても私達の旅はマナみたいに心から世界を楽しむ―…っていうのとは少し違うんだけれど。」
そう言うフィアの目はどこか遠いところを見つめていて―…
少し寂しげなその瞳に気が付かない振りをしてあたしはまた紅茶に口を付けた。
…きっと、あたしの踏み込んではいけない領域だろう。
あくまで勘でしかないが、そう思ったから…。
「私、ね…。」
『…うん。』
「時々分からなくなるの。何でジンが私なんかと一緒にいてくれるのか。
勿論、ジンが隣にいてくれるのは嬉しい。だけど、私は出来損ないだから。誰も私になんか期待していない。
だけど、ジンはそんな私の傍にいてくれる。いっぱいのものを私にくれる。なのに、私はジンに何一つ返せてないから。…私はジンに何が出来るのかな?」
伏せられたフィアの青い瞳。
泣いてはいない。涙は零れていないから。
だけど、その体は少し震えていた。
…全く、肝心な時に一番に声をかけてあげなきゃいけない本人は何をしているんだかとその人物の方に視線を送れば、やっぱりそいつは変わらずに夢の世界を満喫しているようだった。
…ダメだ、こりゃ。
あたしのこの言葉でフィアの悩みが―…不安が消えるとは思わない。
あたし一人の力で人の心を動かせるなんて思ってない。
あたしにはそんな力はないし、何よりあたしはそこまで傲慢じゃない。
だけど―…だけど、その重さが和らぐのなら。
一つの考えとして彼女の中で小さな灯火となるのなら―…
『あのね、フィア―…』
灯火になるなんてそう考えること自体おこがましいのかもしれないけど―…そう口にせずにはいられなかったから。
「“カレーにジャムを入れてもスパイスの代わりにはならない”、ね。」
『…いつから起きてたの?』
「さっき。なんか寝てらんなくて起きてみた。」
時刻はもう間もなく今日が終るといった頃だろうか?
開け放たれた窓から入ってくる風は随分と冷えたものに変わっていて、時間の流れを感じるにはそれだけでも十分だった。
気持ちいい風。月明かりもない静かな夜。
寝るにはうってつけの夜だが、生憎俺はそうもいかなかったらしい。
一度落ちたら昼まで寝続ける俺だが、珍しい事に今日は眠りが浅くて―…眠りの国から戻ってきて再び旅立とうと目を瞑った、まさにその時だった。その言葉が聞こえてきたのは。
完全に覚めた目で辺りを見渡せば、俺とは入れ違いで旅立ったのかフィアはすでに夢の中。
きっと、こいつも疲れてたんだろうな。
…なんて、当たり前のことを改めて思う自分がどこか滑稽だった。
「…何、笑ってんだよ…。」
『いーやー。若いって素晴らしいなと思いまして。』
…若いって、あんたも俺と年は殆ど変わりないだろうが。と、一瞬考えたが、よくよく考えなくても俺の方が年を取ってるからそれについては口をつぐむ事にする。
そんな俺を見てマナはまた笑った。
コロコロ表情が変わるマナはフィアとは違う意味で見ていて飽きなかった。
『…いい子じゃん。フィアって、さ。』
「…いきなりどうした?」
『…ううん。なんでもない。あたしが言うまでもなくあなたは分かってそうだから。
…紅茶暖め直すけど、ジンも飲む?』
「…あ、ああ。」
マナがどう思って俺にそう言ったのかは分からない。
だけど、マナが作った紅茶は仄かに甘くて美味しかった。
「ジン、起きて!」
「…ん?ここは?」
「救いの小屋。昨日、ここで休ませてもらったの忘れちゃったの?」
朝特有の怠さが体を蝕む。
フィアの口振りから察するに俺はまた遅起きをやらかしたのだろうか?
…と、思いきや太陽はまだまだ低い位置にあるようで―…
徹夜したとき以外見ることのないその風景に俺は自分自身驚きを隠せなかった。
昨日見た夢と何やら関係があるのだろうか?
「珍しいね。ジンがこんなに素直に起きるなんて。」
「んー…あー…。昨日見た夢のせいかもな。変な夢で、苗踏ん付けて変な女に会った。」
「ねえ、ちょっと待って!ジン、その女の人の名前ってまさか―…」
カレーにジャムを入れてもスパイスの代わりにはならない。
パンにカレー粉を塗ってもジャムパンにはならない。
ジンにはジンの、フィアにフィアにしか出来ないことがある。…そう思うの。
…あの不思議な女性―…マナの声が聞こえた気がした。
Fin
パンにカレー粉を塗ってもジャムパンにはならない。
《カレーとジャムパン》
『たかぁああああいッ!!』
俺達の苦労はその一言から始まった。
ひょんな事から知り合った女性―…マナというらしいが、断言させてもらう。こいつは変だった。変人だった。
そもそもの事の発端は、俺がこいつが育てていると思われる植物の苗を踏ん付けてしまったことにある。
まあ、それだけならこちらが悪いから苗代をふんだくられた事だけなら仕方がないと諦める事が出来る。
事故にあったようなもんだと思えばいい。
だが、話はそれで終らなかった。何故かは知らないが、俺が今日の夕飯をこいつに食べさせることになったのだ。
その結果がこれだ。
俺とフィアの眼前で正々堂々と繰り広げられる恐喝―…もとい値切り交渉。
やれ傷が付いている、やれあっちの店はここより安かったなどなどマナの口から出てくる言葉は途切れることがない。
マナ曰く、“まっとうな取引”
…らしいが。おい、店員、涙目になってるぞ…。
目を覆いたくなる、または頭を抱えたくなるその光景に同行者であるフィアもさぞ呆気にとられているだろうと彼女の方に視線を送れば―…
奇声をあげて岩に抱きついているフィアの姿があった。違う意味で頭を抱えたくなった。
そうだった。こいつ、岩とか石マニアだったの忘れてた…。
『今日は天気もいいし、いっそタダで良くない?』
「勘弁してくださいよ―…」
「はぅううううッ!!この質感、このザラザラした肌触り…!張り付いてなかったら持ち帰りたいくらい!」
理論破綻も甚だしい事を笑顔で口走るマナ。
涙目になりながら哀願する中年親父。
まるでスライムか何かのように岩にへばりつくフィア。
…俺、泣いてもいいか?
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、周りの混沌度は激しさを増すばかりだった。
『あれ?ジンは?』
「寝てしまったみたいです。ジンは早寝遅起きですから。」
夏の暑さもそれを生み出している犯人が姿を消せばやわらぐもの。
とは言え、まだ昼の名残が色濃く残っているこの部屋にいるにも関わらず夢の国へと旅立っていったこの男に感心とも呆れともつかない感情が沸き上がってきたことは言うまでもない。
眠ったって―…ついさっき、って言うか、あたしが食器を洗って片付けてる間に落ちたのかよ。
男の名はジンというらしい。
宵闇を思わせる漆黒の衣装を身に纏ったこの男の髪は服とは逆に昼を思わせる眩しい金色で、その鮮やかなコントラストは見る者の目を掴んで放さない。
そして、もう一人。ジンと一緒にあたしの前に現われた女の子。
フィアと名乗ったその子は年はあたしより少し下だろうか?
大きな山吹色の帽子にそれと同じ色の法衣。
それだけでも十分周りの目を引くが、何より特徴的なのは彼女の髪色とその瞳だった。
綺麗なきれいな空色。蒼穹を思わせるスカイブルー。
まるで昼の空の色をそのまま溶かしたようなフィアの瞳と髪は見たものの記憶に深く刻まれる事うけあいだ。
二人は今日、いきなり現われた。
何を言っているがわからないと思うが、事実としてそうなのだから他に言い様がない。
裏庭で育てている可愛いかわいい苗木ちゃん達(…勿論、目的は自家栽培をして少しでも食費を―…なんでもないわ。)に水をあげようとちょっと目を離した隙に二人は突如として現われたのだ。
まあ、踏んだ苗もきちんと弁償してもらったことだし、そもそも悪い人たちじゃなさそうだったからこうやって家にあげているわけだけど。
生憎、あたしはそこまでお人好しじゃないから。見ず知らずの他人をすぐに信用することなんかできない。
にも関わらず、この二人を泊めてしまったのは二人の目があまりに綺麗なものだったからなのだろ。
それぐらいこの二人の瞳は澄んでいた。
「…本当にいいんですか?」
『…ん?』
崩れるように眠っているジンを見つめていたフィアがそう洩らしたのは、あたしがお茶の準備でもしようかと立ち上がろうとした、まさにその時だった。
「だって、どう考えても図々しいですし―…苗をダメにしてしまったうえにこうして泊めてもらうなんて…。」
なるほど。そういう事、ね。
でも、それを言うなら―…あたしは改めてフィアに向き合った。
『…フィア達こそいいの?』
「え?何がですか?」
そう言うと、訳が分からないとばかりにフィアは首を傾げた。
うん。予想通りだけど、この子は人を疑うことを知らないんだ。
真っすぐで無垢で―…きっとお人好し。
見ず知らずの出会ったばかりだというのにあたしを疑おうともしない。
こりゃあ、この子と旅をするのはさぞ大変なことだろうと、あたしはこっそり金色の青年に同情をした。
だけど、同時に羨ましくもあった。
確かに一緒に旅をするのは大変かもしれないけど、それ以上の楽しさが彼を待っていると思うから。
『いいの、いいの。わからないなら。それにこっちも晩ご飯に美味しいカレーをご馳走になっちゃったからね。
しかし、ここまで美味しいなんて思わなかったわ。てっきり、グミをご飯の上に敷き詰めたものとかチョコがかかったパスタが出てくるんじゃないかって思ったからさ。』
笑いながらそう話せば途端に曇るフィアの顔。
そして漏れだす力のない乾いた笑み。
…おい。まさかとは思うがどっちかやったのかよ、この男は。
「マナさんは…」
『あっ、いいよ、マナで。あたしもフィアって呼んでるし。』
紅茶の清々しい香りが鼻をくすぐる。
食事の締めにと出した紅茶は我ながら会心の出来で、砂糖を入れずともほのかな茶葉の甘味が感じられるそれをあたしはまた一口口に運んだ。
どうぞとフィアにも勧めれば、彼女は怖ず怖ずとその白い手をティーカップへと伸ばし―…
「美味しい!美味しいです、マナ!」
花のような眩しいくらいのフィアの笑顔にこちらも自然と笑顔になってしまったのは言うまでもない。
『…でっ、さっきは何を言い掛けたの?』
「あっ、うん。マナはずっとここに住んでるのかなって気になっちゃって。」
『…うーん。まあ、基本はそうだね。』
「基本?」
『あたし、しょっちゅう家空けるから。行商だったり観光だったり―…その都度理由は違うけど。』
誰かに根無し種の風来坊って言われたこともあったっけ。
…なんて言えば、分かる気がするとフィアはまた笑った。
本当にこの子の笑顔は見ていて飽きない。
きっと、この青年もそう思ってるんだろうな、なんて一人考えた。
『フィア達は?ずっとジンと旅をしてるの?』
「うん。…っと言っても私達の旅はマナみたいに心から世界を楽しむ―…っていうのとは少し違うんだけれど。」
そう言うフィアの目はどこか遠いところを見つめていて―…
少し寂しげなその瞳に気が付かない振りをしてあたしはまた紅茶に口を付けた。
…きっと、あたしの踏み込んではいけない領域だろう。
あくまで勘でしかないが、そう思ったから…。
「私、ね…。」
『…うん。』
「時々分からなくなるの。何でジンが私なんかと一緒にいてくれるのか。
勿論、ジンが隣にいてくれるのは嬉しい。だけど、私は出来損ないだから。誰も私になんか期待していない。
だけど、ジンはそんな私の傍にいてくれる。いっぱいのものを私にくれる。なのに、私はジンに何一つ返せてないから。…私はジンに何が出来るのかな?」
伏せられたフィアの青い瞳。
泣いてはいない。涙は零れていないから。
だけど、その体は少し震えていた。
…全く、肝心な時に一番に声をかけてあげなきゃいけない本人は何をしているんだかとその人物の方に視線を送れば、やっぱりそいつは変わらずに夢の世界を満喫しているようだった。
…ダメだ、こりゃ。
あたしのこの言葉でフィアの悩みが―…不安が消えるとは思わない。
あたし一人の力で人の心を動かせるなんて思ってない。
あたしにはそんな力はないし、何よりあたしはそこまで傲慢じゃない。
だけど―…だけど、その重さが和らぐのなら。
一つの考えとして彼女の中で小さな灯火となるのなら―…
『あのね、フィア―…』
灯火になるなんてそう考えること自体おこがましいのかもしれないけど―…そう口にせずにはいられなかったから。
「“カレーにジャムを入れてもスパイスの代わりにはならない”、ね。」
『…いつから起きてたの?』
「さっき。なんか寝てらんなくて起きてみた。」
時刻はもう間もなく今日が終るといった頃だろうか?
開け放たれた窓から入ってくる風は随分と冷えたものに変わっていて、時間の流れを感じるにはそれだけでも十分だった。
気持ちいい風。月明かりもない静かな夜。
寝るにはうってつけの夜だが、生憎俺はそうもいかなかったらしい。
一度落ちたら昼まで寝続ける俺だが、珍しい事に今日は眠りが浅くて―…眠りの国から戻ってきて再び旅立とうと目を瞑った、まさにその時だった。その言葉が聞こえてきたのは。
完全に覚めた目で辺りを見渡せば、俺とは入れ違いで旅立ったのかフィアはすでに夢の中。
きっと、こいつも疲れてたんだろうな。
…なんて、当たり前のことを改めて思う自分がどこか滑稽だった。
「…何、笑ってんだよ…。」
『いーやー。若いって素晴らしいなと思いまして。』
…若いって、あんたも俺と年は殆ど変わりないだろうが。と、一瞬考えたが、よくよく考えなくても俺の方が年を取ってるからそれについては口をつぐむ事にする。
そんな俺を見てマナはまた笑った。
コロコロ表情が変わるマナはフィアとは違う意味で見ていて飽きなかった。
『…いい子じゃん。フィアって、さ。』
「…いきなりどうした?」
『…ううん。なんでもない。あたしが言うまでもなくあなたは分かってそうだから。
…紅茶暖め直すけど、ジンも飲む?』
「…あ、ああ。」
マナがどう思って俺にそう言ったのかは分からない。
だけど、マナが作った紅茶は仄かに甘くて美味しかった。
「ジン、起きて!」
「…ん?ここは?」
「救いの小屋。昨日、ここで休ませてもらったの忘れちゃったの?」
朝特有の怠さが体を蝕む。
フィアの口振りから察するに俺はまた遅起きをやらかしたのだろうか?
…と、思いきや太陽はまだまだ低い位置にあるようで―…
徹夜したとき以外見ることのないその風景に俺は自分自身驚きを隠せなかった。
昨日見た夢と何やら関係があるのだろうか?
「珍しいね。ジンがこんなに素直に起きるなんて。」
「んー…あー…。昨日見た夢のせいかもな。変な夢で、苗踏ん付けて変な女に会った。」
「ねえ、ちょっと待って!ジン、その女の人の名前ってまさか―…」
カレーにジャムを入れてもスパイスの代わりにはならない。
パンにカレー粉を塗ってもジャムパンにはならない。
ジンにはジンの、フィアにフィアにしか出来ないことがある。…そう思うの。
…あの不思議な女性―…マナの声が聞こえた気がした。
Fin