第12章 復興、そして北へ

では、これからの事についてなんと言ったらいいでしょう。神が私達に味方して下さるなら、誰が私達に逆らう事ができますか。

私達全ての為に、ご自分の子さえ惜しまず死に渡された神が、どうして御子に添えて全てのものを私達に下さらない事がありましょうか。

御子は死なれた方、否、むしろ復活された方、神の右に座す方であり、私達の為に執り成して下さる方でもあります。誰が私達を御子の愛から引き離す事ができましょう。

禍か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。

「私達はあなたの故に一日中死の危険にさらされ、屠られる羊のように見做されている」と書き記されている通りです。

しかし、私達は愛して下さった方によって、これら全てにおいて輝かしい勝利を収めています。

私は確信しています。死も、命も、御使いも、支配するものも、今あるものも、後から来るものも、力あるものも、高いところにいるものも、深いところにいるものも、他の被造物も、私達の主において現われた神の愛から引き離す事はできないのです。


【ローマの人々への手紙 第8章】






昔読んだ絵本にこんな事が書いてあった。夏の海で拾った貝殻を耳に当てた時にさざ波の音が聞こえるのは貝殻が海の波の音を記憶しているからだ、と。

幾年、幾千年、幾万年と吸い込み刻んだ音を貝は覚えているのだ、と。だから、波の音がするのだ、と。


「えっ?貝殻を耳に当てると本当に波の音がするのか、ですか?」


足下の白い砂を寄せる波が攫って行く。砂と共に自分まで攫われないようにと両足で砂を踏みしめながら、弟が砂の上に指で書いた文字を目でなぞりこくり、と一つ首を縦に振った。

先程、私が砂の上に書いた文字を波が消していった。潮の香りだけをその場に残して。


「でも、どうして急にそんな事を?」


ただなんとなく気になったからだ、と再び砂に文字を刻めば、陸から海に向ってどうっ……と風が吹き私が被っている麦わら帽子を飛ばしていった。慌てて立ち上がって腕を伸ばしたけれど、帽子は既に波に揉まれ沈んでしまって取りに行くことが出来ない。ただ見ている事しか出来ない事が何だかとても悔しかった。


「……?」


「危ないですよ、ヘレン姉上。僕の帽子で我慢して下さい」


ふわり、と自分の頭に乗せられた何かが夏の日差しを遮って足元に影を生み出す。数度瞳を瞬かせて顔を上げれば、自分のものよりも少し薄いアレクセイの青い瞳の中に私が映っていた。


「それからさっきの姉上の質問なんですが―……正直僕にはわかりません。聞えるという人もいれば聞えないという人もいます。ただ―……」


ただ?


「たとえ波の音が聞こえないとしても貝殻拾いをした日の思い出がなくなる事はないと、そう思うんです。貝殻が記憶してくれているから。忘れたとしても貝殻が海の思い出を思い出させてくれる……そんな気が、するのです」


……ああ。覚えている。覚えているとも。その日、家に帰ってから熱中症でアレクセイが倒れてしまった事も、な。






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ゆらり、たゆたい微睡んでいた青い光が一瞬の沈黙の後に輝きを増していく。熱を帯びながらふわり、と胸の上に浮かんだ貝でできた天使の翼。私とオリガ姉様は浮かび上がったそれを両手で包むようにして手を組み、アレクセイは砕け、それでも光る青の破片たちを両手で握り締めた。

何故そうしたのかは分からない。でも、浮かび上がる翼に無意識に体が動いたのだ。刹那、脳裏を過った映像に瞬間息を止め、強く……強く天使の翼を握り締めた。主へ祈りをささげる時のように膝をつき、瞳を閉じながら。

見えてしまったから。貝殻のお守りを通して。音も光も一切差さない寒々しい深海の底へと沈んで行こうとするターニャ姉様のお姿が。

必死だった。私達はただただ必死だった。ただひたすらに青い光を放つ天使の翼に祈った。神へと、祈った。

どうか……どうかターニャ姉様を……私の姉様を助けてくださいますように、と。

色々な事が一度に起き過ぎて頭が付いていけていない状況でも、これだけは分かる。ターニャ姉様が助けを求めている事が。私達を呼んでいる。

ターニャ姉様は私に必要な人。いいえ、ターニャ姉様だけじゃない。オリガ姉様もマリエル姉様もアレクセイもみんな……みんな私に必要な人達だ。主よ……海から贈られたものを海へと返すわけにはいかないんです。まだ。

汗と零れた涙が頬を伝い落ちていく。歯を食いしばり、手を握り締め、震える体に鞭を打った。両足は小刻みに震えて、今にも溶けて、崩れ落ちてしまいそうだった。

奪わないで……行かないで、逝かないで―……生きてっ!!!

四筋の青い光がそれぞれの貝殻に収束し、吸い込まれ……弾けた。青い清浄な祈りが走り、貫く。遥か彼方へ―……海の底へと向かって。春先の名残雪のようにハラリ、はらりと礼拝堂に光が舞い、消えていく。


「ターニャ……お前は……ああ……ターニャ…ターニャ……」


光が収まると同時に天使の翼から手を離し、大粒の涙を流しながら崩れ落ちたオリガ姉様の肩を私は抱いていた。私とアレクセイの二人で姉様の、震える肩を抱いていたの。

二人とも幾筋も幾筋も涙の跡を頬へ刻みながら。砕け散った貝殻に礼拝堂の壁に掛けられた聖母子像の彩画から差し込んだ光が反射し、煌めいていた。






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「行くんだな」


ロトの赤い髪が風を受けてふわりと膨らみ、次の瞬間には流れていく。

あれから……私がオリガ姉様とアレクセイと再会してからすでに数日ばかり経っていた。私達が決断するには十分な時間が。

こちらを見据えるロトの灰色の瞳に強く一つ頷いて答えを返した。私達の意思を。決断を。


「あきらめ、ない」


確かに自分の唇を使い言葉を紡いで。自分自身で音を聞いて確かめる事は出来ないが、今確かに私はそう言葉を発した。

オリガ姉様もアレクセイも生きていた。マリエル姉様も……ターニャ姉様だって生きている。絶対に。生きている。私達を……待っている。


「諦めない」


誰が私達を愛から引き離す事ができましょう?禍か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。

私は確信している。死も、命も、御使いも、支配するものも、今あるものも、後から来るものも、力あるものも、高いところにいるものも、深いところにいるものも、他の被造物も、私達を愛から引き離す事はできないと知ったから。

だから進む。昨日ではなく明日へと向かって。砕けた貝殻を明日への翼に変えて。私は―……私達は進むんだ。

思い出話は……悲劇はもう……おしまい。


≪ヘレン・トビアス≫
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