第8章 安寧と不穏
ああ、神の富と知識の深さよ。神の定めは悟り難く、その道は窮め難い。
「いったい誰が主の思いを知っていたであろう。誰が主の相談相手であったであろうか。また、誰がまず先に主を与え、その報いを受けるであろうか」
全てのものは神から出て、神によって保たれ、神に向っているのです。とこしえに神の栄光がありますように。
何故なら、全ての事が彼から、彼を通じて彼に顕在するからです。
【ローマの人々への手紙 第11章】
手の平を通じて金属の硬く冷たい感触が伝わる。今はまだ冬ではないというのに真冬なのではないかと思わせる大きな扉を見上げながら両手の拳を強く握りしめた。
私の目の前いっぱいに映る重く立ち込めた雲のような鈍色をした重い扉。数多の天使と薔薇のレリーフが刻まれているけれど私には分かるわ。これは天使じゃない、悪魔なんだって。
だってこの部屋の主は悪魔なんだから。私から兄様を奪って行った、悪魔。悪魔の部屋の扉に天使のレリーフが彫られているなんて滑稽な話あるわけないじゃない。
指先で悪魔の背中の羽根をなぞっても私の指先は綺麗なままで、そこには一点の埃も付いていなかった。指先にない埃を吹き飛ばすようにふう、と一つ息を吐き出した。違和感ではなく妙に納得した気持ちを吐く息へ溶かしこんで。
使用人達が毎日扉を磨いていてくれるから埃が付いていないというのは知っているけれど……頭のどこかで悪魔がいるからだと思う自分がいる。ここの部屋の主は人間ではなく悪魔だから、だから生活感がないのね、と。
「……そこで何をしている、ヴィクトリア?」
「あっ……」
首が錆びつき古くなったおもちゃのブリキ人形のように回っていく。ギチリギチリとブリキとブリキではなく私の首の筋肉が音なく動いた。
目に見えない青い錆が私の足元へ散らばる。酷く緩慢な動作で振り返った私を悪魔が見つめていた。
長い大理石の回廊の柱と柱の間から差し込む月明かりの角度は変わらないまま。
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「……い……おい、いい加減起きろ。昼寝と言って何時間寝るつもりだ、お前は」
「……ら、イア?ここは……」
「ここもなにも……お前が今日も勝手に僕のアトリエに入り込んで勝手に窓の近くで寛ぎ始めたんだろうが。お菓子まで食い散らかして……前々から思っていたがお前僕のアトリエを自分の部屋か遊び場か何かだと勘違いしてやいないか?」
窓が切り取る空の色が目の覚める様な澄んだ青色から柔らかなオレンジ色へと変わっている。西の端から徐々に暮れ始めた空を、まだ寝起きで覚醒していない頭でぼんやりと見つめながら自分の目蓋を手の甲で擦った。
「全く……お前はいつもそうだ。この屋敷に1回どころか2回も3回も僕の許可なく押し掛けてきて……そもそも……」
「知ってる。家の事があるからライアは僕の事を追い出さないんだろう?いや、追い出さないじゃなくて追い出せない、か。僕の家とライアの家は同盟関係だから」
枕代わりにしていた程よく沈む肌触りのいいクッションをお腹に抱え反動をつけて起き上がる。ばさりと僅かに埃が舞った。
このクッションは僕の私物ではない。ライアのものだ。だけど今は僕のもの。ここで勝手に寝る事が多い僕の為にある時からライアが置いておいてくれたもの。
それが僕を思ってか、それとも素直に寝床を提供して僕を寝せてしまった方が話し掛けられずに煩わしくないと思ったからか……それは分からないけれど、どちらでも構わない。だって気遣いの理由がどっちであれライアの気遣いのおかげで僕は気持ち良く昼寝をする事が出来たんだから。
「ライア」
「なんだい?またくだらない事を言うようなら怒る……」
「僕はライアの事が好きだよ」
ガショリ、とライアが手に持っていた石膏像が音を立て床の上で砕け、散らばった。硬質な音が夕間暮れの光を震わせる。僅かに目を見開いたライアと僕の視線が虚空で交わった。
光が動いて行く。日差しの角度が変わっていく。さっき見ていた夢とは違って移ろい、惑っていく。
「何を言い出すかと思えば……本当にくだらない事を言うんだな、お前は。僕をからかっているのか?」
「くだらなくなんてないし別にからかったつもりもないよ。これは僕の本心さ。僕はライアの事が好きだよ。本当にいい隠れ家を提供してくれたなって思ってる。あと寝床」
「お前が勝手に入り浸るようになっただけだろう」
「まあまあ、細かい事は気にしない、気にしない」
ケタケタと歯を見せて笑う僕を見つめるライアの口からまた一つ大きな溜息が零れて落ちる。夕焼けのオレンジ色の灯火の中で先程ライアが手を滑らせてばら撒いた、石膏の白い宝石のような欠片たちが夕焼けと同じ色に染まり淡く煌めいていた。
「ここに来ると兄様が屋敷にまだいた時の事を思い出して……楽しかった。ライアと兄様は全然違うけれどね」
「兄、ね。……嫌いだと言っていなかったか?前は」
「うん、嫌いだよ。だって兄様、僕を置いていったから」
日が沈んでいく。残照が山の稜線の間で刹那、一際大きく瞬いた。
「自分を置いて行った、ね」
「ああ、だから僕は兄様が嫌いだ。だいっきらいだ。僕に大っ嫌いだって言わせてもくれなかった兄様の事が、嫌い」
石膏の破片を一つ、また一つ丁寧に摘まみ箱の中へ投げ捨て片付けているライアの表情は、僕からは影になっていて窺い知る事が出来ない。するり、と開け放った窓から入り込む黄昏が僕の背中を擽っていた。
「ガキめ」
「ガキでいいよ。ねえ、ライア。どうして人は大人になるんだろうね?いつから大人になるんだろうね?」
兄様は……リチャード兄様はいつから子供でいられなくなったんだろう。誰が兄様を大人にしてしまったんだろう。子供でいられなくしてしまったんだろう。
「また来るよ。その時は美味しいお菓子持ってくる。シュトっていう友達が教会にいてね、そいつに美味しいお菓子のお店を教えてもらったから。だから僕と一緒に食べよう?約束」
「約束って何を勝手に……っておい、また窓から……!」
帽子を片手で抑えて、窓を大きく開け窓の桟を強く蹴る。徐々に近くなる地面に片膝と肩手を着いて着地し後ろを振り返った。僕が飛び降りた窓から呆れたように僕を見下ろしているライアへと手を大きく振った。
「じゃあね、ライア」
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「そこで何をしている、ヴィクトリア?」
「あっ……いえ、何でもありません、お、父様……」
二つ伸びた影法師が自分の足元と繋がっている。思わず俯いてしまった私の頭上から冷たい悪魔の声が静かな月明かりと共に降り積もった。
「そうか。サイとライの二人がお前の事を捜していた。お前には二人と共にあの修道院へ行って貰わなくてはならん。明日は朝早く屋敷を立つんだろう?あまり二人の手を煩わせるんじゃない。お前はもう子供では……」
「……そうやって……お父様は兄様の事も……」
お父様の言葉を遮るように言葉を紡いで、自分自身もまた口を噤んだ。先の言葉は飲み込み服の両裾を指先で摘まみ恭しく頭を下げて。
ねえ、ライア。どうして大人になるんだろう。私はいつまで子供でいられるのかな。
白薔薇の紋章が月明かりに染まる。昼と夜とで色が変わる父の冷たい瞳を瞬間見つめ踵を、返した。
≪ウィル≫
