第12章 復興、そして北へ


それらの日にはこの苦難に続いて太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の諸々の力は揺り動かされるであろう。

その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見るであろう。そしてその時、人の子は御使いたちを遣わせて選ばれた者達を地の果てから天の果てまで四方から集めるであろう。

いちじくの木から教訓を得なさい。枝が柔らかくなり葉が出るようになるとあなた方は夏が近い事を知る。それと同じように、これらの事が起こるのを見たなら、人の子が戸口に近付いていると知りなさい。

あなた方によく言っておく。これら全て起こるまでは今の時代は過ぎ去らない。天地は過ぎ去る。しかし、私の言葉は過ぎ去る事はない。

その日、その時、誰も知らない。天の使い達も子も知らない。

気を付けて目を覚ましていなさい。その時がいつかあなた方は知らないからである。それはちょうど家を後に遠方に旅立つ人が、僕達にそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと命じるようなものである。

だから、主人が不意に帰って来た時、あなた方が眠っているのを見つけられる事がないように目を覚ましていなさい。

家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏が鳴く頃か、明け方か分からないからである。

私があなた方に言っている事は全ての人に言っているのである。目を覚ましていなさい。


【マルコによる福音書 第13章】






「リーフ。あなたは偽らないと私に言いましたね?ならば、私も偽る事を止めましょう。リーフ。あなたは私の騎士ではありません。あなたは私の……仇です。私の家族の、仇です。私の家の、仇です」


海からの湿った風が女の声を運んでいた。けして大声を出しているわけではない。が、その声は非常によく通った。その細い体躯のどこからその声を出しているのかと不思議に思うほど彼女の声ははっきり自分の耳まで届き、響いていた。

僅かに薄い唇に微笑みを浮かべて女は淡々と、長年女の胸の中で飼われ、積んできた泥を吐き出す。その言葉を聴く事で、女のその姿をこうして見ることによって僕はようやく気付いたんだ。

彼女が……マリエルの姉であるタチアナが、この男と共に暮らしているという情報を手に入れた時、自分はこう考えた。彼女は、タチアナは狂っていると。自分の家族をそして自分自身をも傷付けた男と共にいるこの女は狂っていると。だが、実際はー……彼女は壊れても狂ってもいなかった。

自分の中で渦巻く激しい感情を飲み込んで十年もの長い間、たった一つの目的を果たす為に一人演じ続けて来たのだと知った。狂っても壊れてもいない。目的を果たす為の冷徹さと狡猾さを持った人間なのだと思い知らされる。

彼女はこの男の身体ではない……心を傷付けるその為に演じ続けて来たのか……復讐の為に。


「私がその言葉を紡ぐごとに、あなたは自分の手がトビアスの血で汚れている事を思い出さざるを得ない。……忘れさせて……なるものですか……あなたの手が誰の血で汚れているのかを……!このナイフ。お返しいたしますわ。……私はあなたを殺さない。死んで楽になんかさせない。憎いですか?それとも憐れですか?どう思っていただいても構いません。私を存分に軽蔑して下さい。ですが……」


彼女の細い身体が一歩、海側へ向かい下がった。この強い風の中で彼女の髪飾りは飛ばされ、はらり……と髪は解かれて、彼女の背で長い赤毛が白い法衣に裾と共にはためき、靡いていた。


「……もう、終わりにしましょう、全て。全て終わらせて……十年……とても……長かった……やめにしましょう。”共依存”の関係は。互いの魂に鉛の枷を嵌め、互いに呪詛を掛け合うのは。リーフ……私は……自由になりたい。その為に、あなたという檻から解放されたい」


刹那、女の身体を風が攫い、運んだ。彼女が地を蹴ると同時に木の葉のように吹き飛ばされて、深い海の底へと向かい一直線に消えていく。その瞬間、あの男の瞳は大きく見開かれ、声にならない叫びが響いた。

振り返る事なく崖へと走り、躊躇なく身を投げた憎い仇の背中を自分は止める素振りもせずにただ後ろから見つけていた。先に海へと身を投じた彼女を止めなかったのと同じように。

白い水柱が二つ、遥か崖の下で上がっていた。

……二人が海へ消えてからどれぐらい時間がたっただろうか。復讐を終えてからどのぐらいの時間、自分はこうして何もせず立ちすくみ海を見ているのだろうか。何故、心は晴れない?自分はこうなる事を確かに望んでいたはずだ。

後悔はないはずだ。一片たりとも。記憶を持ったままやり直せるとしても僕は同じ選択をし続ける。あの男……マリエルを殺した、僕からマリエルを奪った男に自分と同じ苦痛を味合わせる……その為に。

海は変わらない。海の色も、波の動きも、何も。二人が飛び込む前と後でも変わらずに、何もなかったかのように岩肌へ打ち付け、押し寄せて……そして帰っていく。何も浮かび上がらせずに。


「リーフ……僕はお前が羨ましい。お前は……彼女を助けに行くことが出来たんだから、な。……僕には……出来なかった……僕は彼女を守る事が……そばにいてやることが……出来なかった」


それは心から湧いた羨望の念。漏れ出てしまった言葉を潮騒の音が掻き消していく。息を吐くと同時にゆっくりと自身の魂まで零れ落ちて行くような……そんな感覚を覚えた。がらりと音を立てて足場が崩れ落ちて行く。


「これから……どこへ行けばいいんだ……僕は、これから……」


自分の中で十年の歳月の間燃え続けていた憤怒の炎はこの瞬間……みっともない灰となって、散った。






++++++++++++++++++++


全ては長い夢物語だったのか、短いうたかたの夢だったのかー……分からない。分かった事は私の肺が今確かに空気を取り入れたという事と、見慣れない木の天井が滲む視界の先で広がっているという事だけ。


「おや……貴方の目の色は灰青色だったんだねえ。少し意外だったよ。……ようこそ黄泉の国へ。……ふふっ……冗談だよぉ」


「よ……み?あ、なたは……?」


「私の名前は那美さ。外の世界から流れて来た貴方をうちの旦那が見つけてここに連れて来たのさ」


香炉から立ち上る初めて嗅ぐ種類の香の香りが私の鼻を微かに擽る。身体を横たえたまま首だけ横へと動かせば、見慣れない天井と同様に見慣れない男性と女性が二人……並んで私を見つめていた。


「そうだ。忘れないうちにこれを貴方に返しておかないとねえ……砕けてしまってるようだけど」


「貝、殻……」


「……浜辺に打ち上ったお前の胸の上でその貝の破片が光っていた。まるでお前を守るように、な。強い呪いだ。いや、この場合は祈りと呼ぶべきか……」


枕元に静かに置かれた砕けた貝の破片……あの子が私達に作ってくれた……世界に5つの守護のアミュレット……ああ……私は……私は……


「生かされている。貴方が根の国に下るにはどうやらまだ早いみたいだねえ。……存分にお泣き。それは貴方がまだ現世の住人であるという証拠だから」


那美と名乗った女性の優しい言葉に、堰を切ったように涙が……溢れた。両手を顔で覆ったけれど手の隙間から次から次へと溢れ、落ちて行く。白い褥の上に真新しい染みがいくつも、いくつも生まれていく。

私は……私は……なんていう事を……リーフ……


「オトタチバナ」


「……えっ……」


「貴方の名前。貴方には暫くこの黄泉の国にいて貰う事になりそうだからねえ。新しい名前さ。……海から来た貴方にぴったりだと思うんだよねえ。だから、今日から貴方はオトタチバナと名乗りなさい」


涙がようやく途切れつつあった、そんな時だった。那美と名乗った女性が蟠る沈黙を破ったのは。まだ溺れて滲んでいる世界の中で、彼女は唇に弧を描きながら私を「オトタチバナ」と呼んだ。


「貴方の詳しい事情は分からない。が、今の貴方に必要なものは休息だ。重荷を全て一度置いて心を休ませる必要がある。……厄介な呪いの解除もまだ途中だしねえ……那岐が貴方を拾ったのも何か縁があっての事だろう。癒えるまでここにいなさい。乙橘として、ね」


時が癒すその時まで。再び元の名前を名乗る覚悟が持てるようになる日まで。

彼女はそう、私に言った。


≪ルイス・ケイ/乙橘≫
27/38ページ
スキ