第12章 復興、そして北へ
ああ、神の富と知恵と知識の深さよ。神の定めは悟り難く、その道は窮め難い。
「いったい、誰が主の思いを知っていたであろう。誰が主の相談相手であったであろうか。また、誰がまず先に主に与え、その報いを受けるのであろうか」
全てのものは神から出て、神によって保たれ、神に向っているのです。
とこしえに、神の栄光がありますように。
【ローマの人々への手紙 第12章】
黄金の海が私達の真上で風にさざめき、たゆたっていた。葉と葉を互いに擦り合わせて海とよく似た声で歌を歌っている。海の底にいるようだった。ここは大輪の向日葵達が作る黄金の海の底。私が今いるのは海の中。
海の底で転んだ自分に差し出された手に私の内側から幸せが溢れた。私よりも少し背の低い彼はいつも私の手を取って引っ張ってくれるのです。
知っていますか?あなたと手を繋ぐたびに私は幸せを感じているという事を。あなたにターニャと愛称で呼ばれるたびに左胸が跳ねて、少し……ほんの少しだけ苦しくなるという事を。
『ターニャ……これは?』
『ブローチ……あなたに持っていてほしいのです、リーフ。アミュレット……見よう見真似ですが作ったんです。祈りを込めてあります……あなたの身に厄が降り掛かったその時にあなたの代わりに厄を受けてくれますように』
リーフ。あなたは私の騎士になると言ってくださいました。ですが、私はあなたを自分の騎士だと思った事が一度もないのです。何故ならあなたは……私の好きな人だから。大好きな男の子だから。
『幸せに……なれますように』
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「別れの言葉はすませてきたのか?」
「……ああ。だが今生の別れではないな。俺が生きている限り別れとは言わない。……失う覚悟も、自分が散る覚悟もできている。ルイス、といったな。やりたければやるといい。俺も……受け入れよう」
「お待ちください、ルイス。私はまだ別れの言葉をすませていませんわ」
陸から海へと吹き込む冷たい風がそれぞれが紡ぐ言葉を運ぶ。彼方へと。此方へと。遠くへと、果てへ。紡ぐと同時に自分に向けられた互いに補色である緑と赤の二対の瞳を順繰りに笑みを浮かべ見上げて……私は赤ではなく緑の瞳と向き合った。泣き腫らした目でこちらを見つめるリーフを見上げた。
「リーフ。あなたは偽らないと私に言いましたね?ならば、私も偽る事を止めましょう。リーフ。あなたは私の騎士ではありません。あなたは私の……仇です。私の家族の、仇です。私の家の、仇です」
『行かないで……置いて行かないで……一人は怖いんです……いかないで……奪わないで……』
あの酷く蒸し、酷く寒い夏の夜。あなたが私達の屋敷にいたという事に私は気付いていました。あなたは私にバレぬように変装していたようですが……分かりました。当然ですよね?私はあなたの一番近くにいたのですから。何年も、何年も。あなたはあの場所にいた。あなたもあの一派の一員。
「……不思議ですか?解せませんか?家の仇と知りながらあなたと十年……何食わぬ顔で共に私が過ごした事が。復讐だったんです。だって、そうでしょう?私といる限りあなたはあの夏の記憶を風化させる事は出来ない。けして」
『リーフ、私……好きですわ。あなたの手が』
「私がその言葉を紡ぐごとに、あなたは自分の手がトビアスの血で汚れている事を思い出さざるを得ない。……忘れさせて……なるものですか……あなたの手が誰の血で汚れているのかを……!」
私のおじい様の事を、お父様の事をお母様の事を、私の姉弟達の事を、忘れさせて……なるものか……!
「た……にゃ……」
「このナイフ。お返しいたしますわ。……私はあなたを殺さない。死んで楽になんかさせない。憎いですか?それとも憐れですか?どう思っていただいても構いません。私を存分に軽蔑して下さい。ですが……」
強く握った刃先を、私の手の平から滲んだ赤い雫が伝い流れていく。短剣の柄を飾る彼の家の家紋である黒薔薇を生あたたかな赤が彩っていた。呪いの影響でしょうか、痛覚はない。
「……もう、終わりにしましょう、全て。全て終わらせて……十年……とても……長かった……」
短剣から手を離し、一歩、また一歩緑の瞳を見つめたまま後ろ向きにゆっくり、しかし確実に歩を進める。海へと吹く風が私の服の裾を、髪を煽っていた。
復讐のために十年、私はあなたと共にいた。あなたに守られ、助けられ……私は今日まで生きて来た。
あなたがいたから私は生きられた。私を今日まで生かしてくれたのは……あなた。
「やめにしましょう。”共依存”の関係は。互いの魂に鉛の枷を嵌め、互いに呪詛を掛け合うのは。リーフ……私は……」
リーフ……私は自由になりたい。その為に、あなたという檻から解放されたい。
「ターニャッ!!!!!!」
自身の身体が崖の上から風に運ばれて虚空へと踊った。海へと向かい吹く風にふわりと浮いて……そのまま重力の鎖に引かれて真っ逆さまに青い海へと吸い込まれて……
海へ落ちるその刹那、彼の叫びを聞いた気がした。そして、見た。私を助けようと後を追うように身を投げた彼の姿を。ああ……どうして……あなたは。
海の中、彼の逞しい腕に引かれ、彼の胸の中で神に祈るように目を閉じる。自分が彼に贈ったブローチに水の中で口付けて、石に込めた祈りを解放した。砕けた石の隙間から光の洪水が溢れ出し、身体を包み込む。彼、ただ一人を。
冷たい海の中で大きく見開かれた緑の瞳の中には穏やかに微笑んでいる自分がいた。
リーフ……私は……自由になりたいのです。……自由にしてあげたい。私という檻からあなたを。
十年以上の長い月日の中であなたは私に尽くしてくれた。私を守ってくれた。そんなあなたを私は私のエゴで縛り付けていた。
水面に向い遠退いていく光の泡とは逆に、私は下へ下へと沈んでいく。もう息は残っていない。苦しくないのかと言えば嘘になる。それでも……それでもこれでよかったのだと思えるのです。心の底から。
ようやく、私は私から、トビアスの家からあなたを解放してあげる事が……出来たのですから。私の周りでいくつも、いくつも生まれる泡が底へと私を導いていた。
リーフ……あなたが……幸せに……なれますように。
偽りと悲しみと憎しみに満ちた世界にさよならを。
幸せに、なれますように。
『いったい、誰が主の思いを知っていたであろう。誰が主の相談相手であったであろうか。また、誰がまず先に主に与え、その報いを受けるのであろうか』
「兄さん……リーフ兄さん!?どうして……こんな……」
潮騒が全ての音を掻き消していた。絶望も、嘆きも……何もかも飲み込んで……
リーフが無事にどこかの浜に打ち上げられ助かったという事を……私は知らない。そして、自分自身がどこに沈んだのかという事も。
しあわせに、なれますように。
≪タチアナ・トビアス≫
