第12章 復興、そして北へ


では、約束の民の優れたところとは何でしょうか?律法にはどのような利益があるというのでしょうか?

あらゆる点から見て大いにあります。まず、彼らには神の言葉が委ねられました。では、彼らのうちに不誠実な者がいたとすればどういうことになるでしょう?

その不誠実が神の誠実を無にすることになるでしょうか?

決してそんな事はありません。人は皆偽り者であっても、神は真実な方であるはずです。

「仰せになる言葉について、あなた方は正しいとされ人々から裁かれた時、あなた方が勝利を得ますように」

と書き記されている通りです。しかし、私の不義が却って神の義を際立たせているのならどうでしょうか?怒りを下す神は正しくない方なのでしょうか?

私は人間的な言い方でこう言うのです。けしてそのような事はありません。もしそうなら、どうして神に世を裁く事がおできになるのでしょうか?

また、私の偽りが神の真実を益々明らかにして神の栄光の為に役立っているのなら、何故、そのよう私が今もなお、罪人として裁かれるのでしょうか?

ある人々が中傷して、私達がこう主張していると言うように、「いっそのこと、善が生じる為に悪を行おう」ということになりませんか?

このように中傷する人こそ、罪に定められるのは当然です。


【ローマの人々への手紙 第3章】






あたり一面、狂ったように赤が踊っていた。いつか家族みんなで見た蛍の光とは違う嫌な光が、火の粉の群れが舞踏を踊っていた。

噎せ返る様な赤錆の底に私はいた。私だけじゃない。お父様もお母様も、姉様たちも、弟も一緒に。

ここは錆の海の底のはずなのに、炎は轟々と燃え上がり漆喰の天上へと燃え移っていた。闇に喰いつき、喰いつかれてー……

夏なのに、炎が見えるのに寒い……寒いの……寒い……



「またお前か。通行の邪魔だ。……今度は何をやらかした?また壺でも割ったのか?」


足先を足先で突かれて、その人がやっと勤め終部屋へ戻ってきたことを知った。蹲り、抱えていた膝から顔を離し上へと向ければ、深い皺を眉間に刻み、こちらを不機嫌そうに睨み付けている。邪魔だと表情に滲ませながら。

いや、この人の事だ。実際に邪魔だと言葉を紡いだのかもしれない。音が、声が聞こえない自分には分からなかっただけで。


「お前の事だ。また録でもない事をやらかして誰かにこってり絞られたか何かしていじけてるんだろう。……今日はもう遅い私も仕事で疲れている。今日は帰れ」


「あっ……」


その人が私の横を抜けて自室へと繋がる扉のノブに手を伸ばした、その瞬間、私は弾かれたように立ち上がりその人の背中に抱き付いた。行かないでという代わりにその人のお腹周りをぎゅうぎゅうと締め付けて。


「あーうー……あー!!」


いかないで!行かないで!!逝かないで!!!

ぺしり、と手の甲を叩かれた。叩かれると同時に離れないようにとくっつけていた体が強引に引き離される。

また一人にされる!それは嫌だ……!

再び先程したように縋るように手を伸ばせば、抱き付く寸前で不意に腕を引っ張られた。くるり、くるりとその人がー……グロリアの指先が私の手の平の上で円を描いた。音が聞こえない私にもわかるように、グロリアの指先が私の手の平の上で一つ、また一つ文字を刻んでいく。


「締め付けるな、馬鹿者。……何か私に話があるんだな?」


「あっ……うっ……うーっ……」


話を、聞いてほしかった。話を聞いてほしかったんだ。一人で抱える事に……疲れてしまったから。






+++++++++++++++++++


屋敷の前には柵が張り巡らされ、しばらくすると中庭と通りに面した脇の出口を仕切る為に第二の柵が作られ、私達を監視する警備兵が昼夜問わず屋敷の周りを歩いていた。私達が逃げ出そうという素振りを見せたその瞬間、私達はこの人達に殺されるのだろう、と彼らが持つ武器を見て瞬時に理解した。

外を覗いたり覗かれたりしないように窓は白く塗り潰され、今は夏にも拘らず窓は決して開けてはならないと命じられてからもう何日経過しただろうか?……特にその日の夜はうだるように蒸す夜で、中々寝付けなかった事を覚えている。

ようやく眠れたと思ったのも束の間で、私の部屋へ寝間着姿のままやって来たオリガ姉様とタチアナ姉様に起こされて、私はまだ開ききらない両目を擦っていた。

姉様達が言うには純血主義者に対する暴動が屋敷の近くで起こったから今すぐに安全な場所に移動する必要があるのだという。誰がそれを教えてくれたの?と紙に書いて尋ねれば警備兵の人が。と答えが返って来た。

急いで身支度を整え、赤軍が用意する馬車が来るまでここで待てと指示された半地下へと降りる。途中で合流したマリエル姉様と私達三人一緒に。地下への扉を開けば、お父様と椅子に座ったお母様、そしてお母様に抱かれたアレクセイの姿があった。

そしてー……


『ニコライ・トビアス。あなたの親族が犯した大罪を考慮し、我々はあなた方一家を処刑することを決定した』


『何だ!?何だって!!?』


お父様とお母様の二人が両手を広げて私達五人を覆いかぶさるように抱きしめたその瞬間ー……私の目の前で赤が噴出した。

ねえ、お母様?どうして……どうしてお母様の頭が……なくなっているんですか?どうして、私の足元にお母様の顔があるんですか?お父様の体はびくりと痙攣した様に跳ねて、もう、動かない。床に出来た、お母様が作った赤い海の底に小さな波紋が生まれていた。


「ヘレン!マリエルッ……!!!」


少し遅れるようにして私達の前に飛び出したオリガ姉様の体も、跳ねた。ゴムまりのように跳ねて痙攣し、頭から血を流して姉様も血の海の底へと沈んでいく。

私とマリエル姉様は恐ろしさでその場から逃げ出そうとして、マリエル姉様は足を斬られた。それでもなんとか壁まで逃げて……二人とも頭を覆ってしゃがみ込んでいたの。そうしている事しかできなかった。

そこで見ていたの。椅子の横で私達と同じ様に震えているアレクセイとアレクセイを庇うように抱えているタチアナ姉様の二人を。剣で滅多刺しにされている姉様とアレクセイの二人を。

闇が部屋を覆っていた。漆喰の天上から落ちてきた塵と煙で満たされていた。息が出来ないほどの死臭で溢れていた。もし、地獄というものが本当にあるとしても今日、この時以上の地獄はないと私は確信している。

そしてー……私の記憶はそこで終わり。意識が途切れるその刹那、タチアナ姉様の従者だったリーフという名前の青年の顔を見たの。赤錆の、海の底から。

寒くて、寒くてたまらなかった。

次に気付いた時、私はー……この寺院のベッドの上にいた。たった一人。






+++++++++++++++++++


一つの照明が照らす室内でゆらり、ゆらりと影が揺れた。長い……本当に長い話を綴り終え、息を細く長く吐き出す。息に吹かれて蝋燭の炎も揺れていた。

壁に映る影が膨らみ、そして縮んでいく。闇がすぐそばにあった。


「……何故、私にその話をした?」


一人で抱えきれなくなったから


「お前の事情は分かった。それで、無関係な私にそれを話して……お前はどうしたい?私にその男への復讐を手伝えとでも言うつもりか?」


それは違う。そんな事をしたら私の魂はあの男と同じところに落ちてしまう。神の国へ行けなくなってしまう。皆が待っている神の千年王国に。だから、グロリアー……教えてほしいんだ。

「教える?何を?」


暗く、冷たい、耐え難い絶望を感じた人はどこへ行けばいい?魂を穢したくはない。だが、心が尽きようとしている人間はどうすればいい?

ぐにゃりと文字を綴るペン先が歪む。小刻みに震えている文字の上に落ちた水が、まだ乾ききっていないインクを滲ませていた。

教えてほしい。業ではなく、徳の積み方を。どうか、私に教えて下さい……


《ヘレン・トビアス》
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