第8章 安寧と不穏


あなた方の心が放縦や泥酔、また世の煩いに塞ぎこむことがないよう、またその日が突然あなた方に訪れる事がないよう、注意しなさい。

その日は罠のように地の面に住む全ての人々に襲い掛かるからである。

いつも目を覚ましていなさい。起ころうとしているこれら全ての事から逃れ、人の子の前に立つ力が与えられるように祈りなさい。

イチジクの木を、またあらゆる木を見なさい。木が芽を出し始めるとそれを見て夏が既に近い事を知る。同じようにこれらの事が起こるのを見たら神の国が近付いた事を知りなさい。

あなた方によく言っておく。これらの事が全て起こるまでは今の時代は過ぎ去らない。天地は過ぎ去る。しかし、私の言葉は決して過ぎ去る事はない。


【ルカによる福音書 第12章】






「しかし、あんたもよく転ぶな……怪我はないか?」


「す……すすすすすすみません……!一度ならず二度……いいえ、これ三回目でしたよね……」


「や、俺は特に気にしてないからいいけど……今回は潰されもしなかったしな……それより怪我は?」


雨上がりの午後の通り、まばらに点在する水溜りに顔を出した日が映る。喫茶店のガラス窓越しに通りを行き交う人々の足音を横耳で聞きながら、自分の目の前の席に座った彼女へと再び尋ねた。


「わ、わわわわわ私は大丈夫だよ……!メドラウトさんが腕を引っ張ってくれたから転ばないですんだし……!」


余程テンパっているんだろう。敬語を付けるのを忘れて早口で捲し立てるように説明するエテルの姿にクツリ、と自分の喉が小さく音を立て鳴った。


「くくっ……そりゃよかった」


「……何だか楽しそうですね、メドラウトさん……」


「そりゃあ、そんだけ赤い顔されちゃあねえ。今のあんた、林檎みたいだ。まるっこいな」


「なっ……丸い……」


言葉が終わるや否や弾かれたように顔を上げ、俺を見つめる彼女の顔は自分が思った通り酷く赤いもので、そんな彼女の見せる表情に更に笑みが深いものへと変わっていくのを自分自身でも感じている。


「あ、赤くなんてありません……!そ、それに私今の今まで下を向いていたじゃないですか……!変な事言わないでください……!」


「耳。あんた、耳まで赤いぞ?」


「えっ?や、やだぁ……!」


肩肘をついていた腕を動かし、人差し指で指差せば彼女の細い体が小さく縦へ跳ねた。白い手で赤い耳を隠すように包んでいるその様子が可愛いと思ったままに告げたらエテルはもっと焦るだろうか?それとも更に顔を赤くして照れてしまうだろうか?


「可愛いな、あんた」


「うううっ……あまりからかわないで下さい……メドラウトさん……」


結論は、両方。

香ばしいコーヒーの匂いと甘いココアの匂いがケルトの音色に混じる。旅の弾き語りなのだろうか?喫茶店の一角から流れるどこか懐かしい音楽が冷えた空気を暖めていた。


「飲めよ。ここのコーヒー悪くないと思う……って、エテルが頼んだのはコーヒーじゃなくてココアだったな」


「いいんですか?やっぱり悪いですし……」


「あのなあ……こういう時ぐらい俺の顔を立ててくれよ。……それでも気になるって言うならこの前貰ったこいつの礼って事にしておいてくれ」


自分の利き腕と反対側の腕を差し出せば、エテルの丸い瞳が数度、瞬いた。俺の腕に巻かれているそれが何なのか、俺に贈った本人である彼女にもすぐに分かったんだろう。顔は赤らめたまま、へにゃりと柔らかい笑顔を浮かべ微笑むエテルの姿にドクリ、と胸が脈打った。

コーヒーが原因……ってだけじゃないよな、これは。この笑顔は反則に近い。そう思った人間はおそらく俺以外にも過去に沢山いただろう。


「組紐……着けてくれてたんだ……」


「そりゃあ、な。ってか、その為に俺に渡したんじゃないのか?」


「そうですけど……でも、ちゃんと着けてくれてるって分かったらやっぱり嬉しいんです」


「……まあ、分からなくはねーけど、その気持ちは」


ああ……やっぱりこの笑顔は反則だ。どこかほっとするような、暖かな気持ちにさせてくれるこの笑顔は。暗い顔よりも彼女に似合う。


「……少しは元気になったか?」


「えっ?」


「暗い顔して一人で通りを歩いてただろ?さっき。……考え事、していたのか?」


半刻ほど前……通りで偶然すれ違った時垣間見た彼女の表情が蘇る。ヴェール越しに見たからって言うのもあるんだろうが、あの時見た彼女の顔に落ちていた影の理由はヴェールを付けていたからだけだろうか?


「……別に無理に聞き出そうっていうわけじゃねーよ。そこは安心してくれ。ただー……」


「メドラウトさんは……」


丸みを帯びたハープ弾きの老人の語る身の上話がどこか遠い世界からの音のように感じる。コーヒーカップから緩く立ち上っていた白い湯気はいつの間にか細く千切れ、消えていた。


「最高の独裁と最悪の民主政治と……どちらがより望ましい政治体系か、ね」


「ある人にそう問われてしまって……勿論、考えていたことはそれだけではないんですが……」


あなたならこの問いかけにどう答えを返しますか?


冷えたぬるいコーヒーが喉元を通り過ぎていく。エテルが誰にそう言われたのか……赤軍関係者なのは間違いないだろうが……まあ、それは今は気にしなくともいいだろう。今、俺が言うべき言葉は問いただす言葉じゃない。彼女が求めている言葉はそれじゃない。


「最悪の民主政治だ」


悩むまでもない。こうだと言い切れる。簡単な話だ。とても単純で、それでいて明快な。


「で、でもそれだと政治が腐敗してしまいます。愚かさ故に互譲や合意形成ができず政策が停滞し、愚かな政策が実行される事も……」


「最高の独裁者がいつまでも最高の独裁をひくとは限らない。エテル、人は……変わるぞ。どんな賢人でもだ。変わらない保証は……ない」


俺の父親みたいにな。


最後の一言を残ったコーヒーと共に飲み込む。窓から差し込む光の角度はいつの間にか変わっていて店の奥まで光が届いている。再び俯いてしまったエテルの頭に触れて顔を上げるように促した。夕間暮れの光が彼女の髪に反射し、淡く、淡く煌めいていた。


「……送っていくよ。北よりはましだがここも夜の治安がいいとは言えないから。家を俺に知られたくないって言うんならあんたがいいと言うところまで送って行く」


エテルから貰った鮮やかな組紐の端が、彼女の薄く柔らかなヴェールが黄昏の光の中で共に重なり揺れていた。


《アナム・メドラウト》
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