第12章 復興、そして北へ


ですから、この地上に属する部分を死なせなさい。みだらな事、汚らわしい事、衝動的な欲望、それに貪欲です。

貪欲は偶像崇拝と同じ事です。これらの事の為に、不従順な者達の上に神の怒りが下るのです。

かつてあなた方もこのような事に囲まれて生き、それに染まって生活していました。しかし、今はもうこれら全ての事、すなわち怒り、憤り、悪意を捨て去り、罵りや顔を赤らめるような言葉を口にしてはなりません。

互いに欺いてはなりません。あなた方は古い人とその行いを脱ぎ捨て、深い知識に進むようにと創造主の姿にかたどって絶えず新しくされる新しい人を身に纏っているのです。

そこにはもはや未開人とスキタイ人、奴隷と自由の身の区別もありません。

御子こそが全てであり、全ての者のうちにおられるのです。


【コロサイの人々への手紙 第2章】






「その手を彼女から離せ!その腕が要らないというなら捨てさせてやる」


私の視界いっぱいに見慣れた背中が現われた。それに気付くと同時に私は私を庇ってくれたその人の名前を呼んで迷うことなく彼の背中に縋りついたのです。……そう、迷いなど一切……なかった。


「リーフ……、こわ……かった……!」


「……もう大丈夫だ。ターニャ、泣くな。……昔言ったことあるだろうか。幼い俺が“ターニャを守る騎士になる”と。”騎士になったら何があってもすぐに駆けつけてやる“と。忘れたか?」


一筋、私の頬をあたたかい水が伝い、地の軛に引かれるように落ちていった。涙が彼の外套に小さな染みを作る。恐怖は私の傍らをすり抜けて遠いところへと去って行ったはずなのに、それでも体の震えを止める事が私には出来なかったのです。恐怖とは違う感情が彼の言葉と共に私に胸の中に生じたために。

ああ……どうして……あなたは……私は……


重い目蓋を持ち上げれば視界一面に闇が広がっていた。よく目を凝らせばそれは見慣れた自室の天井で……自分が自室の寝台の上で仰向けに寝ているのだと理解するまでにさほど時間は掛からなかった。

一つ息を吐き出し体の力を抜けば、自分の右手と繋がっている何かのぬくもりを感じた。視線だけ天井から右手へと動かせば、私の手を握る彼の姿がそこにある。


「リーフ……」


彼の名を呼んでも返事はなく、規則正しく彼の肩が上下に動くだけで。うつ伏せの状態で目を閉じる彼の口から時折漏れる規則正しい吐息が、彼がここではなく夢の世界にいるという事を私に教えていた。

私の手と絡んだリーフの手をやんわりと解き、音を立てないように床へと足を下ろし寝台を抜け出した。降りる時僅かにたわむベッドの動きで彼を起こさないかと心配でしたが……どうやらそうはならなかったようで、今だ硬く瞑られた瞳に一人胸を撫で下ろす。

家に帰っても体の震えが止まらないでいた私にずっと付き添ってくれていましたもの……疲れているのでしょう。

突っ伏すように眠っている彼の身体を彼を起こさないようにそっと寝台から離して、集めたクッションの上へ横たえた。寝台で横になって眠るより寝心地は悪いでしょうが、あの姿勢のままでいるよりもこちらの方が身体は楽でしょうから。

あの後ー……家に帰って来てからも彼はずっと私のそばにいてくれた。私の手を握り、俺が守ると震える私のそばで囁きながら。

私が楔となって彼を……縛り付けている。


「リーフ……」


彼の名前を紡いで、そっと眠る彼の真一文字に結ばれている唇に自分の唇を使い触れた。瞬間、軽く。でも確かに。


『……もうあれから10年以上経った。俺は……騎士になれていたか?』


今日の昼間、彼が呟いた言葉が私の中でリフレインする。ゼンマイを逆に巻かれた記憶の時計は右回りに針を動かしていた。

重ねた唇を離し、彼の顔に掛かる金の髪を指先で摘まみ払った。彼を起こさぬように小さく言葉を囁いて。


「私の騎士になる。リーフ……あなたは昔から私にそう言って下さいますね。ですが……私はあなたを自分の騎士として見た事はないんですよ。……ただの一度も。何故なら、あなたは私のー……」


降り積もっていく。想いが。リーフへの想いが。深まる夜と共に、シンシンと降る雪のように。

私の胸に去来する想い。波打ち際で寄せて返す波のようなこの感情の名が何か、私はそれをすでに知っていた。






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「やはり……あなたか……まさかとは思ったが……生きておられたのか……」


「……お久しぶりです。ルイス……でしたわよね?屋敷でマリエルとよく遊んでいた」


その青年の姿を目にした途端、不思議な懐かしさを覚えた。金の髪もそれとは対照的な赤い瞳も羽根も……どれも記憶の中にあるものと寸分と変わらないものでしたもの。

あれからー……市でリーフに助けられる出来事が起きてから一週間ほどして、私はまた一人こうして市へと来ていた。危険な目に遭ったにも拘らず市に来た理由はいくつかありますがー……一つはあの日見たものを確かめるため。あの日見た妹……ヘレンを探すため。

一瞬でした。見間違いである可能性もあるでしょう。実際、あの日あの時あの場所にいたとしても他人の空似であった可能性だってある。ですが、探さずにはいられなかったのです。信じられないから尚の事、確かめたかった。だからこうして一人内緒で屋敷を抜け出したのです。


「でもまさか……このようなところであなたと再会するとは思いもしませんでしたわ」



「それは私も同じです。私もこのようなところであなたを見つけるとは思わなかった。……あなたの家の者は全て殺されたと聞いていたからな。むごたらしく惨殺されたと、そう聞いている。いや、いた。……一つお聞きしてもよろしいでしょうか?……彼女は……マリエルは……」


縋るような、懇願するように震える青年の瞳の中に無表情な自分の姿が映り込んでいた。そんな彼に首を横に振る事で答えを返す。あの夏の夜の出来事が脳裏によみがえった。負傷し呻き声を上げるマリエルの胸に引かっていた装飾品の輝きが……記憶の中にも関わらず眩しい。

生存は絶望的だと何より私自身がよく知っているのです。あの夏の夜、同じ場所にいた私自身が。だからこそ、ヘレンとすれ違うなどありえないはずなのです。ヘレンもあの日、私と同じところにいたのだから。


「そう……ですか……ならば質問を変えましょう。……タチアナ様。あなたは今までどうやって生きて来たのですか?トビアス家は抹消されている。……あなたを今日まで生かしているのは……誰だ?」


青年の瞳の揺れがぴたりと止まった。元より赤い瞳を更に燃え上がらせ赤く染めて、私を射抜くように見つめている。男が私の腕を掴む力が強まり、私の腕に青年の爪が深く食い込んだ。


「……タチアナ様。あなたの従者は確かあの男だったはずだ。あなたはあの男の居場所を知っているんじゃないか?あの男ー……あなたの家族を殺した……マリエルを殺したリーフという名前の赤軍の兵士の名前をあなたは知っている」


赤。今私を見ている青年の瞳の色。今、私の腕を伝い流れている血の色。そして、彼がいる組織の色。

自然と力が抜けて、瞳が細くなり、唇が緩やかな弧を描いた。

私の胸に去来する想い。彼に抱いている私のこの感情の名前はー……


「あなたはおかしい……狂っている……」


リーフ。私はあなたを、ただの一度も私の騎士だと思った事が、ないのです。


≪タチアナ・トビアス≫
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