第12章 復興、そして北へ
私達強い者は、強くない人達の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
私達一人ひとりは互いに信徒として造り上げられるのに役立つように、隣人を満足させるべきです。御子も自分の満足を求められませんでした。
むしろ、「あなた方を謗る者の謗りが私の上に降りかかった」と書き記されている通りです。
前の時代に書かれた事は全て、私達への教訓として書かれたもので、聖書が与える忍耐と励ましによって、私達が希望を持ち続ける為です。
忍耐と励ましの源である神が、あなた方に御子に倣ってお互いに同じい思いを抱かせてくださいますように。
それは、心を合わせ声を揃えて、私達の主であり神であり父である方を讃える為です。
【ローマの人々への手紙 第15章】
降りしきる雪、降りしきる。雷光を伴い轟く轟音が大気を激しく揺さぶっていた。まるで断末魔の叫びのようなそれを聞きながらペン先にインクを含ませ紙面上にペンを走らせる。
実際、この音は断末魔の叫びだった。春の始まりに逝くことを拒む冬が最後に上げる金切り声。南から徐々に北へせり上がる暖気と冬の間居座っていた寒気とがぶつかり合い、大気が不安定になり天候が荒れる。
ここでは雷は春の訪れを告げる音。先立つ知らせ。
そこまで思考を巡らせて、ペン先に再びインクを馴染ませるために壺の中へペンを浸した。彼女は今頃、夢の浮橋の向こう側だろうか……ちゃんと眠れているだろうか、と、ふとそんな事を思いながら。
食事に手をつけているかいなかは部屋の前に出されている空の食器を見れば確認できるが、ちゃんと夜に寝れているかどうか確認する術が自分にはない。強引に彼女の部屋に押し入ればそれも可能だろうが、それはしたくはなかった。
攫って来た身でこんな事を言うのもおかしな話だが、これ以上彼女の心を傷つけるような真似はしたくはない。
また一つ、近くで雷が轟き、落ちた。屋敷全体を震わせる轟音に、仕方がないと思いつついい加減うんざりしてきた、その時だった。
「きゃああああ!!」
嵐の音ではない、女の甲高い悲鳴が自分の鼓膜を激しく揺する。反射的に振り返り背後を見れば、腰を抜かしたようにへたりと扉のそばで座り込んでいる彼女の姿があった。
「あっ……」
「立てる……か?寒かったろう。入れ」
声を掛ける事に全く躊躇しなかったのかと問われれば嘘になる。俺は彼女から見れば恐怖の対象でしかない。そんな俺と話したところで生まれるのは安堵ではなく嫌悪だろう。だが、それでも声を掛けずにはいられなかった。
弱々しく差し出されたほっそりとした手を握り潰さないように握り返し、座り込んでいた彼女を立たせ部屋の暖炉の前へと導き、そこに座らせた。座ったのを確認し、一歩、利き足を後ろに引いて。
「そこなら暖かい。……この地方は冬の終わりにこのように天候が荒れる。明日の朝には嵐も去っているだろう。……そこでゆっくり休むといい。俺は出て行くかー……」
「……待って……下さい……一人は怖いんです……あっ……」
再び自分へ伸ばされた白い指先が俺が着ている服の裾を控えめに捉える。真っ直ぐこちらを見上げながらカタカタ……と震えている華奢な肩に、自分が身に着けていたマントを外し、そして掛けた。
「暫くそれを着ているといい。廊下は寒かっただろう。それは厚手の素材でできている。毛布の代わりに使うといい」
……華奢な手を払うのは簡単だ。だが、出来なかった。眦に微かに涙を溜め、恐怖と寒さで頼りなげに体を震わせながら、それでも伸ばされた手を払う事が、俺にはできなかったんだ。
ぬるく部屋を暖めている暖炉の炎が蛍火のように灰と共に僅かに散る。彼女から僅かに離れた場所で彼女が見つめている者と同じ炎を見つめ一つ、深く息を吐き出した。
沈黙が蟠り、俺達の間にある見えない轍の中にとどまっていた。どれぐらいの時間こうして彼女と同じ時間を共有しているだろうか。暖炉の火は消えず燃えているが、先程まであれほど近くで鳴っていた雷の音がやや遠くから聞えている事を考えると、それなりに長い時間こうしているという事は自分にも分かる。
「……食事は……」
「……えっ?」
「食事は口に合っているか……?ここには使用人がいない。凝ったものを作って出す事は出来なくてな」
「使用人が、いない……?じゃあ、毎日運ばれてくる食事はあなたが作っていたのですか?」
彼女の流れるように波打つ金の髪が首の動きに合わせるように揺れる。小麦の穂のように豊かな髪は暖炉の赤い炎に照らされて淡く煌めいていた。
「ああ……。簡単なものしか作れないが……その……食べられているならいいんだ。あと……何か足りないものがあれば教えられれば用意できる範囲で用意す……」
「大丈夫、です。……それよりも、あの……私のお部屋に飾ってある水仙は……」
「……?」
白い指先が彼女の肩に掛かったマントを掴んでいた。
「私のお部屋のテーブルの上の花瓶に活けてある黄色の水仙は、私が手折ったあの水仙でしょうか……?」
「……ああ。誰かに贈るために摘んでいたんだろう?それを俺の判断で捨てていいか……分からなかった」
花を摘む時、人は自分の為に摘む時もあるが、自分とは違う者の事を想いながら摘む事の方が多い。花を贈られる者の笑顔を思い浮かべながら真心と共に摘んだ花を束ねる。あの日の彼女もそうであったに違いない。
想いを束ねて作られた花束を捨てる権利が俺にあるだろうか?その道理があるだろうか?……ないに決まっている。
コクリ、コクリ……と彼女の身体が櫂を漕ぐように前後へと動いた。もうだいぶ夜も更けている。本来ならとうに夢の橋の向こう側に渡っている時間なのだろう。
緩やかに落ちるように崩れた彼女の身体を床から掬い上げるように抱き上げ持ち上げた。ここに連れてくる時にも感じたがあまりに細く、そして軽い。
この子が華奢なこの身体で背負わされかけていた十字を思うと同時に、苦いものがじわりじわりと身体を侵食するように広がって行くのを感じる。振り切るように首を一度横に振って歩を踏み出した。自分の寝所に彼女の身体を横たえ軽く顔に掛かった髪を払う。
彼女は今までどれだけ怖い思いをしてきたのだろうか。そして自分もまたその恐怖の一翼であるという事実に、自重とも自嘲とも言えない笑みが浮かぶ。全く……自分のことながら実に愚かしい。
青い対の瞳は閉じられ彼女の気持ちを伺う事は出来ない。が、それでいいのかもしれない。いや、そもそも俺に向ける気持ちなど分かり切った事ではあるが……
「せめて今はいい夢を……おやすみ、コレット」
降り積もる、降り積もる。春を告げる水分の多い雪が、更ける夜に吹雪いていた。
≪ベレト≫
