第12章 復興、そして北へ
聖なる父よ、私にお与え下さったあなたの名によって彼らを守って下さい。彼らが私達のように一つになる為です。
彼らと共にいた間、お与え下さったあなたの名によって、私は彼らを守り、保護しました。
滅びの子の他は彼らのうち誰も滅びませんでした。それは聖書が成就する為でした。
しかし、私は今、あなたの元に参ります。世にいる間にこれらの事を語るのは、私の喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるためです。
私は、彼らにあなたの言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように彼らも世に属していないからです。
真理によって、彼らを聖なるものとして下さい。あなたの言葉は真理です。
あなたが私をこの世にお遣わしになったように私も彼らを世に遣わしました。
彼らの為に、私自身をお奉げします。彼らも真理によって奉げられた者となる為です。
【ヨハネによる福音書 第17章】
窓の外、辺り一面を底の見えない漆黒の深淵が覆っていた。雪になり損ねた霙のような氷雨が間借りさせてもらっている部屋の小さな天窓をひっきりなしに叩いている。煩い夜だ。
「今日は、冷えますね……もうすぐ春が来るはずなのに……」
「この辺りは冬の終わりにこうして天気が荒れる事があるそうだ。テレーズの話だと雪が降る年もあるらしい。ここは霙ですんだようだが……これから向かう土地では吹雪が吹いているかもしれないな……」
この街は最北の地でこそないが、国全体で見ても北に位置している。当然だがこの部屋も寒冷地の気候に合わせて設計されており気密性は高い。外気はかなり遮断されているだろう。だが……
「……それでも今夜は冷えるな。もっともこれからさらに寒い土地に向かうわけだ。この程度で弱音を吐くわけにもいかないが……」
よく乾燥した薪木に暖炉の小さな火種が燃え移る。パチリ、と短い音がすると同時に暖炉の中に積もった灰が僅かに跳ね、舞った。
「……ノルン」
「……セデル?」
火がある程度大きく育ったのを確認してから改めて振り返った。自分の背ではなく目線を彼女へと向ければ、部屋に入って来た直後のままドアのすぐ内側で立つ彼女の姿がある。
不思議そうに私の名を呼ぶ彼女の名前を、私もまた紡いだ。何よりも愛おしい響きの三つの音を。緩やかな弧が口元に浮かんだのが自分自身でも分かった。彼女の名ですら、その音ですら、私には愛おしい。
「おいで、ノルン」
また一つ、優しい灯火が、小さく弾けた。蛍火のように。
「……苦しくないか?」
「はい……大丈夫です……セデル……」
「そうか……すまない。君の時間をこうして取ってしまって」
「だい、じょぶ……です……それに嫌なら最初からこうしてセデルの部屋に来ませんから……」
降りしきる雨……降りしきる。窓を叩き、壁を叩いている。先程よりも雨足は増し、時折遠雷の音が低くここまで届く。穏やかな夜とは決して言えない。が、にも拘らずこの部屋に流れている空気は穏やかなものだった。ただただ優しい時間だけがここにある。
穏やかで、優しく、そして親密で……愛おしい。
「セデルは寒がりだったんですね……」
「……どうした?急に?」
「さっき、部屋の暖炉に火を入れる前震えていたので……セデルが寒さが苦手なの、私は知りませんでした。……セデル、今は寒くありませんか?」
同じベッドの上、厚手の毛布の下、自分の腕の中でもぞりと小さく彼女の身体が身じろぎ動いた。薄い布一枚越しに伝わる彼女の自分のものとは違う体温に目を細め、背中に腕を回し細い体躯を自分の方へと引き寄せた。先程よりも近くなった距離、互いの息遣いまでもがはっきりと分かる。
影と影が重なった。角度を変えて何度も、何度も。より深く。薄く形が整った桜色の唇に自分の唇を重ねて封じる。言葉はいらない。今のこの時の互いの距離が全てを教えてくれているからだ。
香りの花が咲いていた。下着姿の彼女の背中で。彼女は気付いているだろうか?自分の身体から強く香っている甘い匂いに。この匂いが私の心を疼かせている事を。
「……音が……」
「音……?」
「セデルの心臓の音が……聞えるんです。子供の頃にもセデルの音を聞いた事があるんです。私。迷子になったあの日も酷い雨で帰り道が分からなくなって帰れなくなって……それで……」
「……二人で洞窟の中で夜を過ごした。あの日も雷が鳴っていたな」
私の言葉が終わると同時に私の胸に伏せられていた彼女の顔が離れ、上を向く。僅かに見開かれた濃い桃色の瞳の中に自分の姿が映り込んでいた。
「覚えて……」と小さく呟いたノルンの長い髪に指を通し、彼女の滑らかな頬を撫でる。「ああ、覚えている」と彼女の言葉を肯定しながら。
「酷い雨で近くの木に雷が落ちた。君は酷く震えていて、私はどうすればいいのか分からなくてただ震えている君のそばにいてやる事しか出来なかった」
今にして思えば、あの日が始まりの日だってのかもしれない。ただの、自分の領地に住まう妖精の子どもから、”ノルン”という一人の女の子として意識するようになったのは。自分にとっての特別な女性になったのは。
「……セデルの胸の音……少し早い、です。あの日と同じで……」
「……意外か?」
「……少し。セデルはいつも落ち着いているように見えたので。でも、安心しているんです……セデルも私と同じかもしれないと、そう思うと」
細い指先と武骨な自分の指が重なり、絡む。互いの薬指に光る銀と青の輪が視界の外れに映った。お互いを縛る呪いの輪だ。お互い望んで相手に縛られ、呪われた。
「ノルン」
「はい」
もう私は何もわからず震えるだけの子どもではない。それは彼女も同じだ。私も彼女も自分の足で立てる。そして、自分の道を自分で考え、選択する事ができる。
一人の人間ができることなどたかが知れているだろう。自分一人で世界を変えられると思うほど自分は傲慢ではない。が、与えられるものを享受するだけでは何も変わらない。
弱者でいる事は簡単だ。弱者には弱者の権利がある。世の理不尽は上のせいだと嘆けば溜飲を下げる事も出来るだろう。だが、私はそういった怠惰な人間でいたくはないのだ。弱者の権利に胡坐を掻き、そして全てを失くしたのでは遅すぎる。……遅すぎたんだ。
「必ず戻る。君が私の居場所だ」
一人で出来ることなどたかが知れている。だが、時代へ石を投じる事ぐらいは出来る。だから、私は進む。
北へ。フルオライトの元へ。成すべきことを成すために。
≪セデル・レイディアント≫
