第8章 安寧と不穏
「あなたはサマリア人で悪霊に取り憑かれていると私が言うのは当然ではないか」
御子はお答えになった。
「私は悪霊に取り憑かれてはいない。だが、あなた方は私を侮辱している。私は自分の栄光を求めない。それを求め裁いて下さる方がおられる。よくよくあなた方に言っておく。私の言葉を守るならその人は永遠に死を見る事はない」
人々は御子に言った。「悪霊に取り憑かれている事がこれではっきり分かった。預言者達は死んだ。それなのにあなたは『私の言葉を守るなら、その人は永遠に死を味わう事がない』と言う。あなたは我々の父より偉いのか。預言者達も死んだ。あなたは自分をいったい何者だと言うのか」
御子はお答えになった。
「私が自分自身の栄光に帰すなら、私の栄光は虚しい。私に栄光を与えて下さっているのは私の父である。その方の事をあなた方は『我々の神である』と言っている。あなた方はその方を知らないが、私はその方を知っている。私がその方を知らないと言えば私はあなた方のような偽り者になるであろう。だが、私がその方を知っており、その方の言葉を守っている。あなた方の父は、その日を見る事を大いに楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだ」
【ヨハネによる福音書 第8章】
冷たく吹きすさぶ風が洞窟の入り口から奥のここまで入り込む。低気圧の中心から吹き込む風から熾した火を守るように傍にあった石を積み上げ風よけの覆いを作った。
山の天気は変わりやすいとは聞いていたがここまでとは……正直自分も甘く見ていた。自分の家の領地内のこととはいえ自分は何も知らない子供なのだと嫌がおうにも痛感させられる。
ふっ、と視線を火から逸らし後ろへと向ければ、小さな体を膝を抱いてさらに丸めてカタカタと歯を鳴らして震えている自分よりも幼い少女の姿があった。雷鳴が轟くごとに震える彼女を無言で見つめ彼女の隣で膝を折る。
自分が羽織っていた上着を一枚脱いで彼女の頭と体を包むように被せて。彼女が俺より小さくて良かった。これならば全身を包んでやる事が出来る。……一度は雨に濡れた上着だが火のおかげでほとんど乾いている。それほど親しくない人間の服を被せられて不快かもしれないがそればかりは我慢してもらうしかない。
「とりあえずそれを被っていろ。寒さぐらいは凌げる」
「あの……どうして……?」
「なんとなく……そうするべきだと俺が思ったから」
不思議な鉱石のような色をした彼女の瞳がその言葉と共に数度瞬いた。困惑したように。
「でも、それじゃあセデルが風邪をひいちゃう……」
「気にするな」
言い切るように言葉を紡いで自分を真っ直ぐ見つめる彼女の体に冷気が隙間から入り込まないように服を巻き付けその布越しに彼女の頭を撫で、隣に腰を落ち着かせた。雨足は先程までと何ら変わらず、ゴウゴウと唸る音の渦を伴い木の葉を運んでいる。今夜は動けそうにない。いや、動いてはいけない、か……
「ん……?」
不意に生じた焚き火の暖かさとは違うぬくもりに小さく声が自分の口から洩れる。視線をそちらへと向ければ俺の上着を被り縋るように腕を掴んでいる彼女がいた。甘い香りが強く鼻を擽る。
一つ、轟音が轟いた。近くの木に雷が落ちたのだろうか?何かが派手に裂けて倒れたような音が俺達がいる洞窟の奥まで届いた。隣の少女の身体が縦に跳ねた。
「きゃあっ……あっ……セデル……?」
「音がダメなのか……ならこうしてるから暫く音を数えてろ。心臓の音を」
彼女の、ノルンと名乗った領民の子どもの頭を抱き寄せて彼女の耳を少々乱暴に自分の左胸へと押し当てた。さっきから時々香ってくる甘い花の香りは彼女の未熟な羽根から漂ってくるのだろうか。その香りに落ち着く自分がいた。
……さっきは何となくとノルンに告げたが、彼女を守る理由ははっきりした形で既に自分の中にある。俺はいずれ家を継ぐ事になるだろう。そして彼女は家の……臣民だ。守るべきものだ。それを守らない理由がどこにある?
「音……うん……音、数えればいいのね……セデルの、胸の音……」
「ああ。朝までには雷も止むさ。だからあまり脅えるな。疲れるから」
風が吹きすさぶ。灰色の雲が渦巻き千切れて飛んで行く。雨は変わらず山の斜面を打ち付け打ち据え、雷は大気を震わせていたが……不思議で穏やかな静けさがここにあった。
++++++++++++++++++++
「……行ったか……」
「あの……セデル……」
「……しっ……少しじっとしていてくれ」
聞き慣れた軍靴の音が聞き慣れた声と共に徐々に近付いてくる。路地の、人二人がやっと通れるぐらいの隙間に咄嗟に入り込み、隠れて彼女の頭を抱いた。左胸に彼女の頭を押し当てて。
「……もう大丈夫、か……。まさか都から離れたここでも赤軍の兵士を見る事になるとは……この街も制圧したのか、それともこれから何か行動を起こすつもり……ノルン?」
「セデル……ってば……もう……いつまでも押さえつけないで下さい……!く、苦しいです……!」
一対のローズクオーツのような瞳と空で視線が交差する。僅かに頬を上気させ言葉を漏らしたノルンの姿に瞬間瞳が大きくなり、そしてすぐに眦が緩まった。
「すまない。見知った者達の姿があったから反射的に君まで巻き込んでしまった。……もう大丈夫だ。驚かせてしまったな」
腕の力を弱め彼女の体を解放し、代わりに彼女の手を取った。あの日……いつかの嵐の夜の帰り道でそうしたように彼女の細い指先を手の平に乗せ、ゆるく握り締めて。
「……懐かしいな」
「どうかしましたか、セデル?」
彼女があの嵐の夜を覚えているかどうか……それは自分にもわからない。現に自分だって彼女と再会する前まで……つい最近まで彼女の存在すら忘れていた。
家の者は私が狂い出て行ったと思っているだろう。悪霊にでも取り憑かれ気狂いをしたと。だが、私から言わせてもらえば取り憑かれていたのはあちら側だ。私は取り憑かれたなどいない。私は私だ。
彼女は今でも私の臣民だ。家を出た今でもそれは変わらない。守るべきものだ。だが、それだけだろうか……違う。それを私は既に自覚している。
「……買い出しも……早めに済ませた方が良さそうだな……」
先程見送った燃える様な赤毛が脳裏を過る。青年の心のうちをそのまま映した様な赤い髪が。
何かが、何かが起きようとしている。根拠のない確信が胸をざわつかせていた。
≪セデル・ライト≫
御子はお答えになった。
「私は悪霊に取り憑かれてはいない。だが、あなた方は私を侮辱している。私は自分の栄光を求めない。それを求め裁いて下さる方がおられる。よくよくあなた方に言っておく。私の言葉を守るならその人は永遠に死を見る事はない」
人々は御子に言った。「悪霊に取り憑かれている事がこれではっきり分かった。預言者達は死んだ。それなのにあなたは『私の言葉を守るなら、その人は永遠に死を味わう事がない』と言う。あなたは我々の父より偉いのか。預言者達も死んだ。あなたは自分をいったい何者だと言うのか」
御子はお答えになった。
「私が自分自身の栄光に帰すなら、私の栄光は虚しい。私に栄光を与えて下さっているのは私の父である。その方の事をあなた方は『我々の神である』と言っている。あなた方はその方を知らないが、私はその方を知っている。私がその方を知らないと言えば私はあなた方のような偽り者になるであろう。だが、私がその方を知っており、その方の言葉を守っている。あなた方の父は、その日を見る事を大いに楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだ」
【ヨハネによる福音書 第8章】
冷たく吹きすさぶ風が洞窟の入り口から奥のここまで入り込む。低気圧の中心から吹き込む風から熾した火を守るように傍にあった石を積み上げ風よけの覆いを作った。
山の天気は変わりやすいとは聞いていたがここまでとは……正直自分も甘く見ていた。自分の家の領地内のこととはいえ自分は何も知らない子供なのだと嫌がおうにも痛感させられる。
ふっ、と視線を火から逸らし後ろへと向ければ、小さな体を膝を抱いてさらに丸めてカタカタと歯を鳴らして震えている自分よりも幼い少女の姿があった。雷鳴が轟くごとに震える彼女を無言で見つめ彼女の隣で膝を折る。
自分が羽織っていた上着を一枚脱いで彼女の頭と体を包むように被せて。彼女が俺より小さくて良かった。これならば全身を包んでやる事が出来る。……一度は雨に濡れた上着だが火のおかげでほとんど乾いている。それほど親しくない人間の服を被せられて不快かもしれないがそればかりは我慢してもらうしかない。
「とりあえずそれを被っていろ。寒さぐらいは凌げる」
「あの……どうして……?」
「なんとなく……そうするべきだと俺が思ったから」
不思議な鉱石のような色をした彼女の瞳がその言葉と共に数度瞬いた。困惑したように。
「でも、それじゃあセデルが風邪をひいちゃう……」
「気にするな」
言い切るように言葉を紡いで自分を真っ直ぐ見つめる彼女の体に冷気が隙間から入り込まないように服を巻き付けその布越しに彼女の頭を撫で、隣に腰を落ち着かせた。雨足は先程までと何ら変わらず、ゴウゴウと唸る音の渦を伴い木の葉を運んでいる。今夜は動けそうにない。いや、動いてはいけない、か……
「ん……?」
不意に生じた焚き火の暖かさとは違うぬくもりに小さく声が自分の口から洩れる。視線をそちらへと向ければ俺の上着を被り縋るように腕を掴んでいる彼女がいた。甘い香りが強く鼻を擽る。
一つ、轟音が轟いた。近くの木に雷が落ちたのだろうか?何かが派手に裂けて倒れたような音が俺達がいる洞窟の奥まで届いた。隣の少女の身体が縦に跳ねた。
「きゃあっ……あっ……セデル……?」
「音がダメなのか……ならこうしてるから暫く音を数えてろ。心臓の音を」
彼女の、ノルンと名乗った領民の子どもの頭を抱き寄せて彼女の耳を少々乱暴に自分の左胸へと押し当てた。さっきから時々香ってくる甘い花の香りは彼女の未熟な羽根から漂ってくるのだろうか。その香りに落ち着く自分がいた。
……さっきは何となくとノルンに告げたが、彼女を守る理由ははっきりした形で既に自分の中にある。俺はいずれ家を継ぐ事になるだろう。そして彼女は家の……臣民だ。守るべきものだ。それを守らない理由がどこにある?
「音……うん……音、数えればいいのね……セデルの、胸の音……」
「ああ。朝までには雷も止むさ。だからあまり脅えるな。疲れるから」
風が吹きすさぶ。灰色の雲が渦巻き千切れて飛んで行く。雨は変わらず山の斜面を打ち付け打ち据え、雷は大気を震わせていたが……不思議で穏やかな静けさがここにあった。
++++++++++++++++++++
「……行ったか……」
「あの……セデル……」
「……しっ……少しじっとしていてくれ」
聞き慣れた軍靴の音が聞き慣れた声と共に徐々に近付いてくる。路地の、人二人がやっと通れるぐらいの隙間に咄嗟に入り込み、隠れて彼女の頭を抱いた。左胸に彼女の頭を押し当てて。
「……もう大丈夫、か……。まさか都から離れたここでも赤軍の兵士を見る事になるとは……この街も制圧したのか、それともこれから何か行動を起こすつもり……ノルン?」
「セデル……ってば……もう……いつまでも押さえつけないで下さい……!く、苦しいです……!」
一対のローズクオーツのような瞳と空で視線が交差する。僅かに頬を上気させ言葉を漏らしたノルンの姿に瞬間瞳が大きくなり、そしてすぐに眦が緩まった。
「すまない。見知った者達の姿があったから反射的に君まで巻き込んでしまった。……もう大丈夫だ。驚かせてしまったな」
腕の力を弱め彼女の体を解放し、代わりに彼女の手を取った。あの日……いつかの嵐の夜の帰り道でそうしたように彼女の細い指先を手の平に乗せ、ゆるく握り締めて。
「……懐かしいな」
「どうかしましたか、セデル?」
彼女があの嵐の夜を覚えているかどうか……それは自分にもわからない。現に自分だって彼女と再会する前まで……つい最近まで彼女の存在すら忘れていた。
家の者は私が狂い出て行ったと思っているだろう。悪霊にでも取り憑かれ気狂いをしたと。だが、私から言わせてもらえば取り憑かれていたのはあちら側だ。私は取り憑かれたなどいない。私は私だ。
彼女は今でも私の臣民だ。家を出た今でもそれは変わらない。守るべきものだ。だが、それだけだろうか……違う。それを私は既に自覚している。
「……買い出しも……早めに済ませた方が良さそうだな……」
先程見送った燃える様な赤毛が脳裏を過る。青年の心のうちをそのまま映した様な赤い髪が。
何かが、何かが起きようとしている。根拠のない確信が胸をざわつかせていた。
≪セデル・ライト≫
