第10章 変化・第11章 家族


私は善い羊飼いである。善い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇い人は狼が来るのを見ると羊を置き去りにして逃げる。すると狼は羊を奪い、また追い散らす。

彼らは雇い人であって羊の事を心掛けていないからである。

私は善い羊飼いであり、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている。

それは父が私を知っておられ、私も父を知っているのと同じである。そして、私は羊の為に命を捨てる。

私にはこの囲いに入っていない他の羊もある。私はその羊達をも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。

こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる。再びそれを得るために、私は自分の命を捨てる。それ故、父は私を愛して下さる。

誰も私から命を奪いはしない。私が自分から命を捨てる。私は自由に命を捨て、また再び自由に命を得る力を有している。私はこの掟を父から受けた。


【ヨハネによる福音書 第10章】






春は好きではありません。

張り詰めたような、ひとたび触れば粉々に砕けてしまいそうな冬の朝の空気はとうに暖められ弛緩し、霧散している。

痛いぐらいに澄み切った刺すような空気が好きだった。底の見えない……天と地を逆さまにひっくり返せばどこまでも際限なく落ちていきそうな青の深淵が好きだった。

私は冬が好きです。


「……今日の空は春の空……ですね。まだ季節は冬のはずですのに……」


青くけぶった空が苦手になったのはいつからでしょうか?霞がかかり天と地の境目が曖昧な薄ぼやけた春の空が苦手になったのは。徐々に夏へと近付く春が嫌いになったのはいつからでしょうか。

緊張がどんどん薄れて行き、世界が緩やかに弛緩し、様々な色彩が我勝ちに自己主張を始める。もっとも色彩が濃い、夏へ向かって。

……私は春が……そして夏が嫌いです。

街が、そして人が色付き騒めくほど、私には色がないと思い知らされるのです。

緩やかに溶けていく。解けて……瓦解していく。

何が……でしょうか?春は再生の季節でしょうに。新生の季節に一体何が失われていくというのでしょうか?

……それにいずれにせよ、私がどう思おうとも、感傷に浸ろうとも時は流れ、季節は廻り、流転する。春が終わりそして夏がやって来る。十年前もそうだったように。それを押しとどめる事が一体誰にできるでしょうか?出来たでしょうか?

不毛な自問を振り払うように左右へと頭をゆっくり動かした。諦めた様に小さく息を吐き出し、藤の蔦で編んだ籠を胸に抱え直し一歩、家の敷地から足を踏み出して。

情けない話ですが、今でもこの線を越えて踏み出す事を自分は恐れていて……今もなけなしの勇気を寄せ集めて、ようやっとその線を一歩越えた。


「……大丈夫、ですわ……街の市場に行って足りないものを買って帰って来るだけですもの……」


彼にいつも作っているレモンのパイではなく、あの日にチョコのタルトを作ろうと決めてから数日経つ。自分一人で全て用意して彼を驚かせてみたい。そして、食べてほしい。笑顔を見せてほしい。他の人には分からない微かな笑顔だとしても、私はそれが見たいのです。

今日の帰りは遅い。……そう言って彼は朝出掛けて行った。……チャンスは、今日。


「……いってきます」


市を行き交う人々の雑踏と話し声に不思議な懐かしさを覚えた。彼とー……リーフと一緒にここに来た事があるはずなのに……一人で来たからだろうか。知っているはずなのに知らない路地へと迷い込んだような、そんな矛盾した思いが私の胸に去来する。

昔……私が子供の頃にもこうして屋敷を抜け出して……同じような事を考えていたような。記憶の引出しが不意に開き懐かしさで私を満たしていた。

行き交う無数の人込みの中であらゆるものが厚さを持っているのに、その中で私だけが取り残されているような……

刹那、瞳が見開いた。大きく縦に割けたように。目の奥が、そして喉の奥が酷く乾く。左胸にある心臓は私のものではないように狂ったように早鐘を打っていた。一瞬で視界の外へと消えてしまった影へ差し出した私の手は何もない虚空を掻いて、無を掴む。

私の願望が見せた幻影かもしれない。だって、あの子は……私の家族は……祖父は、父は母は、姉弟達は……死んだ。私だけを残して遠くへと行ってしまった。あの日、あのうだる様な溺れるような夏の真夜中に。むごたらしく。忘れられるはずが、ない。あの日、あの時……あの地下室に満ちていた咽返る様な死臭を。

私達姉弟を庇い、真っ先に人から肉へと変わっていった両親の姿を、私は……!!


「……ヘレンッ……!!!!」


「何だ、お前……?」


それでもあの子の幻影の名を叫んだ、その時だった。後ろからぶつかった何かによって前に突き飛ばされたのは。たまらず石畳の通りへ手を着きすぐ後ろを見上げれば、逆光の中ニタリとこちらを見下す二人の名も知らない男性の姿があった。腕にある腕章は……赤軍の……


「あっ……も……申し訳ありません……」


「あーあー……どうしてくれんだよ。お嬢ちゃんが動かないでぼーっと突っ立ってるからぶつかっちまったじゃねーか。この街の治安を守ってるのは誰だと思ってんだ?」


「そ……それは……本当に申し訳……」


「こりゃあ、骨がいったかもなーいてーもんなーどう落とし前付けてくれる気だ?ああ?」


「っう……!!」


ぬうっと顔を近づけた男の吐く息が肩にかかる。その臭いに耐えかねて反射的に口元を手で覆った。強いお酒の臭い……目が虚ろでどこか焦点が合っていないようでしたから予想はしていましたが……この方々、二人とも酷く酔っている……


「おうおう?ぶつかって起きながらその態度はなんだ?誠意の一つでも見せるって言うのが筋ってもんだろ?なあ?お嬢ちゃん?」


「待て、その服装……お前貴族だな?おい、ここで搾り取るよりも”花”でも売らせた方がいいんじゃないか?需要はあるぞ?こういったおどおどした女を好む奴ならごまんといる。しかも、こいつは身なりからして上玉だ」


「ハハハハッ!売るのは”花”じゃなくて”春”の間違いだろう?まあ、そうだな……加虐心を満たすならこういった女が適任だ。それに貴族だ。人権なんか考えてやる必要なんかねえ。最初に踏み躙ったのはこいつらの方だ」


ヒュウ……と喉から声になり損ねた音が笛の音のように漏れる。この人達が自分をどこへ連れて行こうとしているか分からないほど私は幼くも、そして愚かでもない。不意に腕を強く捩じり引っ張られたからだろうか……ずきりと鈍い痛みが駆け抜けていく。


「いや……嫌です……離して……離して下さい……い、嫌……助けて……助けて……リーフっ……!!」


『いや……嫌です……家に帰りたいんです……助けて……助けて……リーフ……!』


≪タチアナ・トビアス≫
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