第10章 変化・第11章 家族
また御子は弟子達に仰せになった。「躓きが生じるのを避ける事は出来ない。しかし、それをもたらす人は不幸である」
その人にとってこの小さな者の一人を躓かせるよりは、むしろ首にひき臼を括られ、海に投げ込まれる方がましである。気を付けなさい。
もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして、悔い改めるなら彼を赦しなさい。
またもし彼が一日に七度、あなたに対して罪を犯し、七度あなたの元に戻って来てその都度「悔い改めます」と言うなら彼を赦しなさい。
あなた方のうち、耕作か牧畜に携わる僕がいるとする。その僕が畑から帰って来た時、「早く来て食卓に着きなさい」と言うだろうか。
むしろ、「私の夕食の用意をせよ。帯を締め、私が食事を終えるまで給仕せよ。その後で食事をするがよい」と言わないだろうか。
僕が命じられた事を果たしたからと言って、主人が僕に感謝するだろうか。
同じようにあなた方も命じられた事を全て果たした時、このように言いなさい。
「私は取るに足らない僕です。なすべきことを果たしたにすぎません」
【ルカによる福音書 第16章】
時計の長針と短針が12の文字盤上でぴたりと重なる。当に夜の帳は落ち、夜は更け、窓の外へ視線を向ければ一日の内で最も深く濃い闇が広がっていた。しんしんと降り積もる白い雪とコントラストを描いて。
「……姉さん」
ここに来てから何度紡いだか分からない言葉を再び紡ぎ、姉と慕う女性の手を自分の両手で包むように握り締めた。
……氷のように冷たい。息をするたび上下に動く胸がなければこの人はもう死んでいるのではないかと思うほどに。冷たく、凍えている。
『……姉さんが!?バムそれは本当!?』
『ええ、軍にとっても総司令である彼女が倒れたと知られては一大事ですから。それを知っているのはその場に居合わせた者達と私だけだ。彼女の屋敷の者達にも身内ですら緘口令が敷かれて伏せられている』
今日の夕方、この場所に駆け付ける前に彼としたやり取りが蘇り巡っていく。私がここに来れたのは全部バムのおかげで……彼がいなければ私はここに来ることはおろか姉さんが倒れたということも知らないでいたんだと思う。
『それよりも……あの屋敷の鏡……ハルと見た時と今日とでは明らかに……現場検証に私と立ち会ったラインハルト殿は何も変わったところがないと言っていたが……いや、確かに今日は何も変わったところはなかった。……鏡像とはユークリッド空間に一つの超平面を定めた時に、超平面に対して対称的な像との関係をさすが……あの時見たものは超平面に対して対称とは言えなかった。物理的に歪んでいるとも考えられるが、そうだとすれば今日も歪んで見えたはずだ。ならば、あれはー……』
ふるりと首を一度横へと振って考えを切り替える。バムとエールリッヒさんの二人で姉さんの屋敷を調べに行ったらしいけれど、私にはバムの語るそれは半分も理解できなかったし、それに……
「姉さん。私よ、ハルモニアよ。起きて、姉さん……お願いよ……」
鏡の事が全く気にならないかと言われたらそれは嘘になる。でも、それ以上に私にとっては姉さんが倒れたと言うことの方が重要で。
「姉さん……昔、姉さんの屋敷で私が熱を出して倒れた時、こうして姉さんが寝込む私の手を取って頬に当ててくれたよね?」
姉さんの冷たい手を自分の頬へと導き押し当てる。あの日よりも冷たい姉さんの手の平へと私から熱が移って行った。
「……うっ……」
「姉さん……ミルファス姉さん」
「だ、れだ……あっ、ああ……ハル……あなたはハルモニアね……どうしたの……そんな顔をして……」
「……もう、姉さんのせいなんだから。……お水、少し飲める?」
夜が翻り、寒風がカタリカタリとガラス窓を揺らしていた。
「そう……やっぱり私は倒れたのね……ごめんなさい、ハル。あなたにも心配を掛けてしまって」
「『私達は取るに足りない僕です。なすべきことを果たしたに過ぎません』って聖書にもあるでしょう?それに姉さんは私の姉さんだもの……心配するなって方が無理。姉さんだって昔、熱を出した私の看病をしてくれたわ。だからね、これでおあいこ。……果物は……?少しは食べられそう?」
「ううん。それは大丈夫……」
「そっか……ふふっ……本当に昔と逆だね、姉さん」
うたかたの夢が皆を包み込む時間だけれど、ここにうたかたの眠りはなかった。優しく伸び縮みする光が姉さんのまだどこか青白い頬を照らして、そして照らした分だけ影を落とす。
「……昔か……よくお人形遊びをしたわね」
「姉さんの家でね。二人で人形を使って……おままごとの結婚式をしたね。それも何度も」
「ええ。ハルが『おきゃくさんだよ~』ってジンジャークッキーマンをたくさん持って来た時もあったわね。で、式の途中なのにお腹が空いたって言って途中でおきゃくさんを食べた」
「ううっ……だってあの時はお腹が本当に空いてて……」
「しまいには私がせっかく用意したケーキに『ケーキ入刀~』って満面の笑みでおきゃくさんを何人も挿してた」
姉さんの薄い唇が緩やかな弧を描いた。小さく漏れた姉さんの笑い声。笑う時に口元を手で隠す姉さんの癖は昔と変わっていなかった。
私と姉さんでしたおままごとの結婚式。私と姉さんはあの日から姉と妹になったんだと、そう思っている。クリームでベタベタの結婚式だったけれど。
「姉さん。私は姉さんのことが好きよ。姉さんが私の事を好きでいてくれるように私も姉さんの事が好き」
「ハルモニア……」
「……フローレンスさんとエールリッヒさんの二人を呼んでくるね。姉さんがもし目覚めたら呼びなさいって二人に言われているの。少し姉さんとお話したくて二人に言うのが遅くなっちゃった」
浅く腰掛けていたベッドサイドの椅子から腰を浮かして扉へ向かい、そしてドアノブに手を伸ばす。扉を開ける直前で振り返り、姉さんに笑みを向けた。
「姉さん、今度お見舞いに来る時は沢山のおきゃくさんを籠に詰めて連れてくるわ。そうしたら二人でまたおきゃくさんを食べよう。私、沢山焼いて持ってくるから」
『健やかなる時も病める時も~……ええっと……次ってなんだっけ?』
夜が更けていく。静かに。しんしんと降り積もる雪が微かな音でさえも飲み込んでいた。
≪ハルモニア・コンコルディア≫
その人にとってこの小さな者の一人を躓かせるよりは、むしろ首にひき臼を括られ、海に投げ込まれる方がましである。気を付けなさい。
もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして、悔い改めるなら彼を赦しなさい。
またもし彼が一日に七度、あなたに対して罪を犯し、七度あなたの元に戻って来てその都度「悔い改めます」と言うなら彼を赦しなさい。
あなた方のうち、耕作か牧畜に携わる僕がいるとする。その僕が畑から帰って来た時、「早く来て食卓に着きなさい」と言うだろうか。
むしろ、「私の夕食の用意をせよ。帯を締め、私が食事を終えるまで給仕せよ。その後で食事をするがよい」と言わないだろうか。
僕が命じられた事を果たしたからと言って、主人が僕に感謝するだろうか。
同じようにあなた方も命じられた事を全て果たした時、このように言いなさい。
「私は取るに足らない僕です。なすべきことを果たしたにすぎません」
【ルカによる福音書 第16章】
時計の長針と短針が12の文字盤上でぴたりと重なる。当に夜の帳は落ち、夜は更け、窓の外へ視線を向ければ一日の内で最も深く濃い闇が広がっていた。しんしんと降り積もる白い雪とコントラストを描いて。
「……姉さん」
ここに来てから何度紡いだか分からない言葉を再び紡ぎ、姉と慕う女性の手を自分の両手で包むように握り締めた。
……氷のように冷たい。息をするたび上下に動く胸がなければこの人はもう死んでいるのではないかと思うほどに。冷たく、凍えている。
『……姉さんが!?バムそれは本当!?』
『ええ、軍にとっても総司令である彼女が倒れたと知られては一大事ですから。それを知っているのはその場に居合わせた者達と私だけだ。彼女の屋敷の者達にも身内ですら緘口令が敷かれて伏せられている』
今日の夕方、この場所に駆け付ける前に彼としたやり取りが蘇り巡っていく。私がここに来れたのは全部バムのおかげで……彼がいなければ私はここに来ることはおろか姉さんが倒れたということも知らないでいたんだと思う。
『それよりも……あの屋敷の鏡……ハルと見た時と今日とでは明らかに……現場検証に私と立ち会ったラインハルト殿は何も変わったところがないと言っていたが……いや、確かに今日は何も変わったところはなかった。……鏡像とはユークリッド空間に一つの超平面を定めた時に、超平面に対して対称的な像との関係をさすが……あの時見たものは超平面に対して対称とは言えなかった。物理的に歪んでいるとも考えられるが、そうだとすれば今日も歪んで見えたはずだ。ならば、あれはー……』
ふるりと首を一度横へと振って考えを切り替える。バムとエールリッヒさんの二人で姉さんの屋敷を調べに行ったらしいけれど、私にはバムの語るそれは半分も理解できなかったし、それに……
「姉さん。私よ、ハルモニアよ。起きて、姉さん……お願いよ……」
鏡の事が全く気にならないかと言われたらそれは嘘になる。でも、それ以上に私にとっては姉さんが倒れたと言うことの方が重要で。
「姉さん……昔、姉さんの屋敷で私が熱を出して倒れた時、こうして姉さんが寝込む私の手を取って頬に当ててくれたよね?」
姉さんの冷たい手を自分の頬へと導き押し当てる。あの日よりも冷たい姉さんの手の平へと私から熱が移って行った。
「……うっ……」
「姉さん……ミルファス姉さん」
「だ、れだ……あっ、ああ……ハル……あなたはハルモニアね……どうしたの……そんな顔をして……」
「……もう、姉さんのせいなんだから。……お水、少し飲める?」
夜が翻り、寒風がカタリカタリとガラス窓を揺らしていた。
「そう……やっぱり私は倒れたのね……ごめんなさい、ハル。あなたにも心配を掛けてしまって」
「『私達は取るに足りない僕です。なすべきことを果たしたに過ぎません』って聖書にもあるでしょう?それに姉さんは私の姉さんだもの……心配するなって方が無理。姉さんだって昔、熱を出した私の看病をしてくれたわ。だからね、これでおあいこ。……果物は……?少しは食べられそう?」
「ううん。それは大丈夫……」
「そっか……ふふっ……本当に昔と逆だね、姉さん」
うたかたの夢が皆を包み込む時間だけれど、ここにうたかたの眠りはなかった。優しく伸び縮みする光が姉さんのまだどこか青白い頬を照らして、そして照らした分だけ影を落とす。
「……昔か……よくお人形遊びをしたわね」
「姉さんの家でね。二人で人形を使って……おままごとの結婚式をしたね。それも何度も」
「ええ。ハルが『おきゃくさんだよ~』ってジンジャークッキーマンをたくさん持って来た時もあったわね。で、式の途中なのにお腹が空いたって言って途中でおきゃくさんを食べた」
「ううっ……だってあの時はお腹が本当に空いてて……」
「しまいには私がせっかく用意したケーキに『ケーキ入刀~』って満面の笑みでおきゃくさんを何人も挿してた」
姉さんの薄い唇が緩やかな弧を描いた。小さく漏れた姉さんの笑い声。笑う時に口元を手で隠す姉さんの癖は昔と変わっていなかった。
私と姉さんでしたおままごとの結婚式。私と姉さんはあの日から姉と妹になったんだと、そう思っている。クリームでベタベタの結婚式だったけれど。
「姉さん。私は姉さんのことが好きよ。姉さんが私の事を好きでいてくれるように私も姉さんの事が好き」
「ハルモニア……」
「……フローレンスさんとエールリッヒさんの二人を呼んでくるね。姉さんがもし目覚めたら呼びなさいって二人に言われているの。少し姉さんとお話したくて二人に言うのが遅くなっちゃった」
浅く腰掛けていたベッドサイドの椅子から腰を浮かして扉へ向かい、そしてドアノブに手を伸ばす。扉を開ける直前で振り返り、姉さんに笑みを向けた。
「姉さん、今度お見舞いに来る時は沢山のおきゃくさんを籠に詰めて連れてくるわ。そうしたら二人でまたおきゃくさんを食べよう。私、沢山焼いて持ってくるから」
『健やかなる時も病める時も~……ええっと……次ってなんだっけ?』
夜が更けていく。静かに。しんしんと降り積もる雪が微かな音でさえも飲み込んでいた。
≪ハルモニア・コンコルディア≫
