第5章 無垢なもの弱きもの

裁いてはならない。裁かれない為にである。あなた方が人を裁く様に、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升で、あなた方にも量り与えられる。

兄弟の目のあるおが屑は見えるのに、何故、自分の目にある丸太に気が付かないのか。

自分の目に丸太があるのに、どうして、兄弟に向って『あなたの目からおが屑を取り除かせてくれ』と言えるのか。

偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目からおが屑を取り除く事が出来る。

求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。叩きなさい。そうすれば開かれる。

誰でも求める者は手に入れ、探す者は見出し、叩く者には開かれる。

あなた方のうち子供がパンを求めているのに石を与える者がいるだろうか。

あるいは、魚を求めているのに蛇を与える者がいるだろうか。あなた方は悪い者であっても、自分の子供達に善い物を与える事を知っている。

まして、天におられるあなた方の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えて下さらない事があるだろうか。


【マタイによる福音書 第6章】






「ねえ、アマダス」


「……なんだ。軍議前だ。フリードリヒを待たせるわけにはいかないんでな。用があるなら手短に言え」


「用っていう用じゃないんだけどね。新入りの女は元気にしてるかい?」


何をするでもなく少し呆けた空を見上げ、足を前後に揺すりながら尋ねる男の姿に息を一つ吐き出した。案の定、これからの軍議に何ら関係ないそれに対する抗議の意味を込めて。

採光目的で切り取られた窓から伸びた触れられない透明な光の梯子が石の部屋をぬるく温めていた。

真綿で包まれているかと錯覚するような午後の空気を飲み込み肺へと流し込む。妙な気怠さと重さを体に感じる理由は、午後の空気のせいだけではないだろう。


「それを知ってどうする、バロン」


「いや、だって気になるし。匿ってるんだろ?噂になってるよ」


「赤軍に慣れるまで世話をしているだけだ。それ以上でも以下でもない。前にも言った通りー……っ……」


丸めた地図を机の横にまた一つ積み、視線は奴にくれず次の資料に手を伸ばす。嫌味や皮肉をくれてやりたいところだが、この男に言ったところで無駄になるのは火を見るよりも明らかだ。戦後処理なんて地味な裏方の仕事をこいつが律義にこなしているとは思えない。皮肉を言ったところで徒労で終わる。

乾いたインクの匂いが鼻腔を擽る。紙の端で切ったばかりの傷から滲んだ黒ずんだ血液がインクと混ざり紙面を汚していた。


「彼女は素質がある。今から仕込んでおいて損はないだろう。手札は多いに越したことはない」


「”慰み者”にしてるって噂あるけど?……怖い怖い。そんな今にも人殺しそうな目で睨みつけんなよ。噂だって言ってるだろう?根も葉もあるかもしれない噂」


「くだらん」


「噂が?」


「その与太話も貴様との無駄話もだ。……言いたい事はそれだけか?ならば出ていけ。こうして貴様と無駄に話している時間も億劫だ」


「はいはい。まあ、少しは暇つぶしになったよ」


「そうか。なら今度こそ出ていけ」


自分の紡いだ喉に引っ掛かる言葉に気付いた時には男の姿は窓際には既になく、一人残った執務室で再び息を肺の底から吐き出した。怠さも息に溶かして吐き出したつもりだったが、益々疲れが募っただけだった。


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『悪いな。信仰ならとうの昔に一つ残らず磨り潰して捨てたんだ。欠片も残っちゃいない』


黒煙の匂いが白い汚れ一つない蒼穹へ立ち上りその臭気で青を犯し、汚す。黒煙と人々の罵声と色を失くした骸、そして王宮に立てられた赤の勝鬨。その場に居合わせた女は瞠目する。


『あなたは……あなた達は私の力になってくれる?』


噎せ返るような死臭が漂うその場所で、必死にこちらに手を伸ばそうとしている女の姿が憐れに思えなかったかと言えば嘘になる。だが、それ以上にー……


「アマダス様、……いつまで飲むおつもりですか」


「……飲む?……飲んだうちに、入らねえよ……」


熱が籠った頬に何かが触れた。むず痒いがけして不快ではないその感触に導かれる鉛の様に重い目蓋を薄く解放した。

対の緑の瞳の中に小さな俺が逆さまに映っていた。すっかり乾いた澄んだ瞳の中で。先程まで溢れんばかりに透明な涙を湛えていたはずではなかっただろうか……この短時間で乾いたのだろうか……

そこまで鈍くなった思考を回して気付いた。夢を見ていた、その事に。


「……殺さないのか」


「えっ……」


「今なら簡単に出来るぞ。何、難しい事じゃない。そこのピックでも使って喉を刺せばいい。訓練しているのだろう?」


「……アマダス様は……それを望んでいるのですか……?」


「まさか。まだ成すべき事を成していない。それが終わるまで歩みを止めるわけにはいかない。……お前と一緒でな」


くるり、からりと世界が回る。本当に飲み過ぎている……

世界が巡り、回る。回る世界の底にあの日の自分がいた。焼け焦げた、落ちた教会の前で誰のものかも分からない”あの子だと思いこんだ”骸を抱き、天を仰ぐ事しか出来ないでいた自分が。落城した城の前で崩れ落ちる様に倒れた女の姿が。

守るべき者と唯一無二の、今の自分を支える価値観を覆され、慟哭する事しか出来ないでいた自分と、あの日の彼女の姿が重なりダブった。

女の腕を引き、閉じ込めて、弾力のある桜色に色付いた唇を自分の指の腹を使いなぞって。薄らと指に移った女の血を舌先を使い拭った。


「……口の端が切れてる。他人の心配をする前にまず自分の心配をするんだな」


ああ……今夜は本当に酒に酔っている。痴れている。自分で分かるほどに。


「寝る。明日も早いんでな。お前も早く寝ろ。いつもの部屋を使うといい」


重ねてどうする。傷の舐め合いをして何になる。どこかで誰かが笑っていた。背中で自分が笑っていた。

『裁いてはならない。裁かれないために』

まったく馬鹿げた話だ。だがー……


≪アマダス・メラン≫
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