第8章 安寧と不穏


さて、それではどうでしょうか?恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まるべきだというのでしょうか。

けしてそうではありません。罪に対して死んだ私達が、どうしてなお罪のうちに生き続ける事が出来るでしょうか。

それともあなた方は知らないのですか。洗礼を受けて御子と一致した私達はみんな、御子の死にあずかる洗礼を受けたのではありませんか。私達はその死にあずかる為に、洗礼によって御子と共に葬られたのです。

それは御子が御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達もまた新しい命を歩むためです。

あなた方の死ぬべき体を罪に支配させ、その欲望に屈服してはなりません。また、あなた方の五体を罪に仕える邪な事の為に武器にしてはなりません。

かえって、自分自身を死者の中から蘇ったものとして神に奉げ、また五体の救いの義に役立つ武器として神に奉げなさい。

何故なら、罪があなた方を支配することはないからです。あなた方は罪の元にあるでのはなく恵みの元にあるのです。


【ローマの人々への手紙 第6章】






乾いた風が木々の梢の葉を揺らす。まだ落ちてはいないが、真夏の濃い緑色から徐々に色を変え始めた木々の枝は季節の移り変わりを見上げる者に伝えていた。

瞬間、帰る足を止め申し訳なさを感じながら一本の木へと腕を伸ばし、枝を一つ手折った。綺麗に咲き誇っている花には申し訳ない事をしたと思うが、その後ろめたさよりも自分の主人にもこの花を見せてやりたいという気持ちが勝った。

あたたかな灯りが小さな家々の窓へ灯る。ささやかな家族の夕餉の灯火だ。ありふれた優しい光を一瞥し、止めていた足を再び動かす。いつもよりも少し多い荷物と手折ったばかりの花の枝をそれぞれ両手で持ちながら帰路へ着く。主人が待っている家に向かって。


「ただいま帰りました」


「遅い……!もう、遅いよ!サンソン!!サンソンの帰りが遅いからお日様も沈んじゃったよ」


「ふふっ……すみません。ですが、いつもと帰って来た時間はそれほど変わりませんよ?私が遅く帰って来たのではなく日が早く沈むようになっただけです。季節が進んだ分だけ」


屋敷の扉を潜ると同時に生じた重みとあたたかさに目を細めながら小さな体を受け止めた。自分のたった一人の主人である少女の体を。あの日とー……この子と出会った日にも感じたぬくもりが変わらずに自分を迎えてくれる。変わらない。ただ一つを、除いて。


「あれ?いい匂い……サンソン、そのオレンジの小さなお花……」


「ああ、これですか?帰り道で綺麗に咲いていたので一つ、手折って来たのです。この花の名は……」


「知ってる。金木犀って言うんだよね。秋になるとね、セティね、アメリアと一緒に金木犀の匂いを追って金木犀の木を探したんだよ!懐かしいなあ……」


笑顔で俺の顔と手元の枝とを順番で見つめる主人の目の前で膝を折り、オレンジ色の花の枝を彼女の鮮やかな金の髪へと挿した。より一層笑顔を輝かせ甘い花の香りを纏った主人の愛らしい姿に、自分が浮かべる笑みも深いものになっていく。

あの一件以来……アメリアと俺との間にあった出来事を彼女に告げてから俺と彼女との間で何か変わったことがあったかと言われれば……何も変わっていない。彼女は相変わらず俺の世界の礎であり、彼女は相変わらず野菜を嫌っている。

ただ、お互い笑う時間が増えたように感じている。今日の帰り道で見た、開かないガラス窓の向こう側、くぐもった声で楽しげに声を漏らし穏やかで優しい時間を過ごしている家々と同じ様な時間がここでも流れている。……少なくとも自分はそう思った。


『……誰、ですか……セティ、アメリアに言われているの。悪い人が来るかもしれないから簡単に屋敷の扉を開けては駄目ですよ、って。だからセティはアメリアが帰ってくるまでアメリアの言った事を守るの……』


『……そのアメリア様から命を受けて参りました。サンソン……私の事はサンソンとお呼び下さい。今日からあなた様へ仕える従者の名前です。セティお嬢様』


言葉を紡げば、固く閉ざされていた屋敷の扉が内側から少しずつ開いた。開いた扉の向こう側には、一人崩れ落ちる様に倒れ床に手を着き、音なく、声なく大粒の涙を流す……俺の世界と同じ色を持った、俺の世界が何よりも愛した少女がいた。


「どう、サンソン?セティ、似合ってる?」


「ええ。とてもお似合いですよ、お嬢様」


ふわりとスカートに風を抱いてくるりとその場で円を描く少女の動きに合わせて花の香りも円を描いた。


『アメ……アメリアじゃ、ない……。セティが会いたいのは……あなたじゃない。アメリアなのに……アメリアに言われた通り、セティいい子にしてたのよ……お野菜も、がんばっ……たべる、から……』


透明な涙の雫がいくつもいくつも溢れ、落ちて行く。重力の鎖に導かれて。もう帰らない人の幻影を涙に映し、母の名を呼び肩を震わせ、しゃくりあげ泣いている。

同情だったのか、憐れんだからなのかは……それは分からない。ただ一つ確かな事は考えるその前に自分の体が動いていたという事だ。ごく自然に。そうするのが正解であるとでもいう様に。

放っておくことが出来なかった。いや、誰がこの少女を放っておくことが出来る?

母親の名を泣き枯れた声で呼び続け震えながら縋りついてきた幼い手を誰が振り払う事が出来るだろうか?


「セティお嬢様」


「なあに、サンソン?」


涙で枯れた声ではなく愛らしい声で名を呼ぶ主人の体を包み込むように抱きしめた。あの日と同じ様に。あなたの小さな体を。


「ただいま帰りました、あなたのところに」


「うん、お帰りなさい。待ってたよ!」


季節は巡る。街で聞く話は暗いものばかりだが、ならば、と思う。

今が日が落ちるのが早い季節であると言うならば。うっかりしているとあっという間に闇に追いつかれ取り込まれてしまう時代だと言うのなら……ならば自分が守ればいい、と。


「それでは今から夕食の支度を致しますので、少しお部屋でお待ちください」


「ヤダー!だって、セティが見張っていないとサンソンがお野菜をお料理の中に隠すんだもん!だから、セティはサンソンの隣でサンソンがお野菜を入れないか見張るのよ。あっ、それからちゃんとケーキも作ってくれなきゃ嫌よ?」


『サンソン……このぺしゃんこの丸いの……』


『ケーキ……のはずです。焦げてはいないので大丈夫だと……思います。スポンジ……上手に膨らみませんでしたが……レシピ通りに作ったはずなんです……』


ふっ、と自分の脳裏にそんな言葉が蘇る。この屋敷に来たばかりの時、料理本のレシピを片手に見よう見まねで作った、初めてケーキを焼いた日に自分が呟いた情けない言葉が。


「セティお嬢様」


「んー!ケーキがないと嫌!」


拗ねたように唇を尖らせてふいっと横を向く主人の幼い姿に笑みがこぼれて落ちる。柔らかで穏やかな笑みが。


「ふわふわのスポンジのケーキを、作りますね」


《サンソン》
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