第4節 海開き


私達三人、どこでまた会おうか。雷、稲妻、それとも雨の中?

あの騒ぎが収まったら、戦いの決着が付いてから。

それなら日没前になるだろう。

場所はどこで?

ヒースの荒れ野で。

そこで”マクベス”に会おう。

可愛い私の猫よ、すぐに行くよ。

私のヒキガエルが呼んでいる。

今すぐ行くよ。

美しいものは醜い。醜いものは美しい。濃い霧と濁った空気の中を飛んで行こう。


【マクベス 第一章 第一幕】






「”人々を恐れてはならない。覆われているもので現われないものはなく、隠されているもので知られないものはない。身体を殺しても、魂を殺す事の出来ないものを恐れる事はない”」


石造りの小部屋の天窓から一条、午後の白い光が舞い降りる。落ちる光が作る日溜りの中で飼い猫が大きく背伸びをし、欠伸をしているのを見ながら小さく息を吐き出した。


「ふふっ……こう見えて聖書だけは諳んじる事が出来るんですよ。もっとも自慢できる事はこれぐらいしかありませんけれど」


返事はない。当然だった。ここにいるのは私の他は愛猫といくつかの役目を終えて壊れたガラクタ達とそして一枚の絵だけですもの。私とこの子が見つけた私達だけの秘密の小部屋。

元々は倉庫として使っていたのかもしれないけれど、部屋に積もるほこりがここに人が来なくなって久しい事を私に教えてくれていた。愛猫の真新しい小さな足跡がいくつも、いくつもほこりの上に刻まれている。

舞う細かいほこりに乱反射し掛かった光の梯子とその梯子の光で照らされている自分の身の丈以上ある一枚のテンペラを笑みを浮かべ見上げた。

今よりもだいぶ若いお父様と私が一度も会ったことがない若い女性が並んで描かれている。二人とも穏やかな表情を浮かべて、寄り添っていた。二人は夫婦……この絵を見た時一目で分かった。そう思える空気が二人の間に確かにあった。そして、二人に挟まれるように描かれている真ん中の子どもは……


「あなたは、一体誰なのかしら……?」


顔の部分をナイフで乱暴に削られ破かれたその子に今まで何度尋ねたか分からない問いを改めて問うた。

キャンバスに残された部分からその子が女の子だという事は分かった。メアリーお姉様が普段お召し上がりになっている深紅のドレスとよく似た深紅のドレスを着ているけれど、この子はお姉様ではない。だって、お姉様の髪の色は私と同じ銀色ですもの。この子のような茜色の髪じゃ、ない。


「あなたは……誰?どうしてお父様と一緒にいるの?」


指先でキャンバスを静かになぞれば積もったほこりが指先にうっすらと移った。静寂の音が耳を突いてざわり……と私の心を動かしていく。


「……また会いに来ますね。ここは少し、寂しい場所、ですから」


衣が微かに擦れる音がする。名前も顔も、実在しているかも分からない物言わぬ部屋の主に背を向けて踵を返した。静寂だけを部屋へ残して。






「テオ……!」


「ジェーン様……」


「お帰りなさい、テオ。ご実家の用事で出掛けていたのよね?あなたのお兄様は……ローデヴェイグ様はお元気だったかしら?」


数日ぶりに耳にした大好きな声に自分の眦が緩く弧を描いた。それほど長い時間は鳴れていたわけではないのに彼の姿に緩む瞳と高鳴る胸を自分で抑える事が、出来ない。鏡がないから確認する事は出来ないけれど、きっと今の私は頬が鬼灯の様に赤く染まっている。

ふっ、と触れた左手の指先をそのまま流れるようにテオの手に重ね、彼を見上げ微笑んだ。重ね合わせた手からテオのぬくもりが伝わって来る。私が何よりも大好きな人の体温が。


「ジェーン様……指のそれはまだ……」


「前にも言ったわ。それだけは嫌です。たとえテオに言われても……これを私に贈ってくれたテオの頼みでも聞けません」


彼の視線が自分の手の、ある一点にある事に気付いて強く言葉を紡いだ。嫌だ、嫌だとぐずる聞き分けのない子供の様に首を左右へ振りながら。

長年身に着けていたビーズの指輪の輝きはとうにくすんでしまっているけれど、千切れるたびに、ほつれるたびに、自分で修復をし続けて身に着け続けて来た。


「他の人にとってはガラクタのおもちゃの指輪かもしれないけれど、私にとっては何よりも大切な指輪なの。宝石よりも価値がある、記憶の宝物」


「ジェーン様……」


僅か流れる空気の流れとテオの視線を感じながら両の目蓋を閉じた。


『大人になったら結婚しよう、僕が君を幸せにする。だから…ずっと、僕と一緒にいてほしい』


あの日、おもちゃの指輪と共に贈られた言葉が記憶の中で優しく残響する。おもちゃの指輪と幼くて遠い約束の言葉。ままごとの結婚の、約束。それでも、それでもあの頃の私は信じてた。一瞬は、永遠だと。永遠は、一瞬だと。私達が今いる一面の薄紫に染まった初夏の花畑が世界の中心なのだと。


『大人になったら?今じゃ駄目なのかな?私、テオが大好きだよ。私がまだ小さいからお嫁さんになれないの……?大きくなったらテオのお嫁さんになれる?いつ大きくなるかな?明日、それとも明後日?テオのお嫁さんになれるかな?』


『ジェーン、そんなに早くは無理だよ。でも、僕達が大人になったら、その時は……』


『うん!その時はジェーンが花嫁さんでテオが花婿さんだね。約束だね』


私は私で、テオはテオで……それはこの先、私達が大人になったとしても決して変わらないと、そう信じていた。だけど、私はマクベス家の人間でテオは私の従者になってしまった。私は私のままなはずなのに、テオはテオのはずなのに……それが時々堪らなく、苦しく感じる。


「テオは……」


「どうかされましたか、ジェーン様?」


「テオはもう、私の事をジェーンとは呼んでくれないのね。子供の時のように、もう呼んではくれないの?」


だからこうして我が侭を言って彼を困らせてしまう。少しだけ首を傾げて戸惑ったような笑みを見せる彼に、キシリ……と砂を噛み止まる歯車によく似た音が自分の胸のあたりでした気がした。

誰よりも知っているはずなのに……いつでも彼を困らせるのは、私。

私がいなければ……と言うつもりはない。だってそれは今まで私に仕えて来てくれた彼を否定してしまう言葉だから。でも、時々思ってしまうの。これから先無数の道がテオの前に提示されるのだとしたら、テオには道を他ならぬ自分自身で選んでほしい。枷には……なりたくない。


「……すみません、ジェーン様」


「いいの。意地悪を言ってテオを困らせた私が悪いの。だから、テオは謝らないで。あなたに謝られちゃうと私も困ってしまうから。……それよりテオの話が聞きたいわ。テオの家のお話、ローデヴェイグ様のお話、それからテオ自身のお話も。何だって知りたいの」


首をゆるゆると振った後に困った様に俯いてしまったテオの顔を覗き込み、指先で包んで動かして正面を向かせた。口元に笑みを浮かべて。

たとえこれから先、私達の関係がまた変わっていってしまうとしても、私は彼と紡ぐ今を覚えていたい。

私の中で美しい旋律が踊っていた。


≪ジェーン・マクベス≫
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