第7章 過去・追憶

私があなた方を愛した様に、あなた方が互いに愛し合う事、これが私の掟である。

友の為に命を捨てる事、これ以上の愛を人は持ちえない。私が命じる事を行うなら、あなた方は私の友である。

もう私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか、知らないからである。

私はあなた方を友と呼ぶ。私は父から聞いた事は全て、あなた方に知らせたからである。

あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのである。

私があなた方を任命したのは、あなた方が出掛けて行き、実を結び、その実がいつまでも残る為であり、またあなた方が私の名によって父に願う事は何でも叶えていただけるようになる為である。

あなた方が互いに愛し合う事、これを私はあなた方に命じる。


【ヨハネによる福音書 第15章】






「リリスこれは……?」


「ふふっ……シャヘル、実はね、従業員のジュラさんに板チョコレートを沢山貰ったの。ジュラさんも一人じゃ処理しきれないからって。でも、そのままじゃちょっと味気ないと思ってチョコを湯煎してトリュフにしてみたの」


休日の夜の酒場に酒とは違う強い甘い香りが漂う。夜……とは言ったもののまだ店を開く時間にはなっていない。木の窓の枠が切り取った場所では低く宵の明星と細く白い三日月が並んで浮かんでいるような時間だ。店を開くにはまだ早い。

窓が切り取った先の風景に向けていた視線を耳慣れた声がする方へと動かせば、俺の名を呼び佇んでいる妻の姿があった。丸く平らな木の皿に小さく丸めた手製のチョコレートを乗せて満面の笑みを浮かべた彼女がいた。


「シャアンやルナの分も作ったんだけれど最初にシャヘルに味見してもらいたいなって思って持って来たんだ。自分ではなかなか上手に出来たつもりなんだけど、どうかな?……シャヘル?」


妻の……リリスの昼の蒼穹を溶かし込んだ様な長い髪が彼女の首の動きに合わせるように揺れ動く。不思議そうに小さく首を横に倒し、瞳を瞬かせる妻の名をもう一度紡ぎ、呼んだ。自分の両腕を広げ、ある言葉と共に。


「おいで、リリス」


ほのかに妻の、雪を固めた様に白い頬に朱色がさす。黄昏の落日が見せる幻とは違う朱色が。キシリ……と痛んだ薄い木の床が僅かにしなり、鳴った。


「……で、どうしてこうなる」


「ふふふっ~なんだか気持ちいい~……シャヘルが二人に増えた~ふふ~もう一つチョコをちょうだい~シャヘル~」


自分の膝の上に乗り楽し気に左右に揺れているリリスの背中に向い小さく一つ息を溢す。呂律の回っていない、舌足らずな彼女からの催促の言葉に少々眉間が痛んだ。支えていないと今にも身体がふにゃりと床へ落ちてしまいそうな妻の腰へと腕を回す。やはり力が入っていない。……間違いない。酔っている。


「チョコの中に洋酒を入れていたとはな……しかもこの香り……相当度数が強いものを使ったな、リリス」


疑問形ではなく確信を持って言葉を紡ぐ。今まさに舌の上で溶け芳香をまき散らしているチョコは証拠としては十分過ぎた。


「だって~……シャヘルは~……お酒好きでしょ~?だから~……ふふっ……でも本当に……美味しい……言ったでしょ……じょうずに……出来たのよ、って。もう一つちょうだい、シャヘル」


自分でチョコの中身を確かめる前に妻に与えてしまった事は、自分がしたことながら浅慮で配慮に欠けていたと、酔っぱらう妻の姿に痛感する。完全に酒が回ってしまった彼女の体を後ろからではなく横抱きに抱え直して口の中に残る余韻とは裏腹、苦い笑みを浮かべた。


「ねえ~……シャヘル~……わたしの……話を聞いて……ちょこが……んっ……はあ……」


小さく響く水の音が鼓膜を優しく揺する。口に含んだ水と互いの唾液が混じり合って粘性のある劣情を煽る様な音を生んでいた。明星と月が沈み窓から夜が入り込む。

反射的に逃げようとする妻の舌を自分の舌で捕らえ、捕まえ、絡めて妻の舌の裏をなぞるように刺激すれば、ぴくり、と妻の体が縦に跳ねた。

窓の外、昼の空を夜が覆い、喰らって行く。


「はあ……んっ……しゃへ……」


「これ以上食べたらお前の事だ、潰れるだろう?……いや、すでに潰れているか……どうする?まだ水が必要か?」


リリスの白く華奢な喉が今与えた水を飲み込みコクリ、と鳴る。空気を求め大きく肩を上下させいる彼女の背中を、慰めるように数回軽く擦り撫でた。……これもすっかり癖になっていまったな……


「んっ……お、みず……あと、シャヘル……がほしい……」


「……喜んで」


再び交わった耽美な水の音に耳を傾ける。ああ……酔って痴れているのはリリスの方ではなく俺の方だ。今、俺はこの女に酔わされている。互いの指と指が、舌と舌が絡んでいた。


「んっ……」


「……寝たのか。……酔うと潰れて眠るところも変わらないな……」


自分の腕の中で無防備な姿を晒して静かに一人、眠りの国へと旅立って行った妻の、閉じられた双眸と彼女の首から下げられた古びた指輪へと順に口付けを落とした。あの日……自分が彼女へ贈った、彼女の細い指に嵌めるには明らかに大き過ぎる指輪にへと。


『やはりお前の指では大き過ぎるな。……そのまま薬指へ入れ替えろ』


ああ……酔いそうだ。痴れてしまいそうだ。熱に魘され色香に負けて。……違う。酔っていたんだ。あの時から自分は間違いなく酔い痴れ続けている。


『ナザレだ。俺のもう一つの名前だ。そしてお前の名でもある。お前達人間は夫婦となる時そうするのだろう?妻になってくれるな、リリス』


愛おしい。何よりも。狂いそうなほどに。この女への自分の想いで痴れてしまうほどに。渇望するほどに。お前は俺の夢を終らせた。終わらせてくれた。影が色褪せそこに今までとは違う道を見出した。

確かなぬくもりを持って今ここにある妻の体を横抱きに抱えて立ち上がる。店の方は入口の戸に臨時休業の札でも下げておけばいいだろう。


『あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのである』

『あなた方が互いに愛し合う事、これを私はあなた方に命じる』


今なおいけ好かない書物の一節がふと脳裏を過った。残らず焚書にしてやりたいぐらいだが、なるほど……その部分だけは認めよう。


「……この続きは、また深夜に。今はお休み、リリス」


≪シャヘル・ナザレ≫
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