第7章 過去・追憶
さて、御子は再び彼らに仰せになった。
「私は去って行く。あなた方は私を捜すであろうが、自分達の罪のうちに死ぬ。私の行くところにあなた方は来る事が出来ない」
そこで、ユダヤの人々は言った。「『私達の行くところにあなた方は来る事が出来ない』と言っているが、まさか自殺するつもりではあるまいか」
御子は彼らに仰せになった。
「あなた方は下から来る者に属しており、私は上からの者に属している。あなた方はこの世に属しており、私はこの世に属していない。それであなた方は自分の罪のうちに死ぬと私は言ったのである。『私はある』を信じなければ、あなた方は自分の罪のうちに死ぬだろう」
そこで彼らは「あなたは一体誰ですか」と言った。御子はお答えになった。
「それは初めからあなた方に話している事ではないか。あなた方について話す事、裁く事が沢山ある。しかし、私をお遣わしになった方は真実であり、私はその方から聞いた事を世に向って語っているのである」
彼らは御子が御父について話しておられる事を悟らなかった。そこで御子は仰せになった。
「あなた方は人の子を上げた時はじめて『私はある』を悟り、また私が自分勝手には何もせずただ父が教えられた通りに話していた事から悟るであろう。私をお遣わしになった方は私と共にいて下さり、私を一人にしておかれる事はない。私がいつもその御心に適う事を行うからである」
これらの事をお語りになると、大勢の人は御子を信じた。
【ヨハネによる福音書 第8章】
「御子は言われた。『私は、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです』兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です」
雨が降っていた。数日前に降っていたこの世の全てを押し流す嵐のような雨ではなく静かに降り積もる、銀の糸の様な雨が。
焚かれた嗅ぎ慣れない香の香りがするりと肺へ入り込み満たしていく。修道女が言うにはこれは没薬……ミルラと呼ばれる香らしい。
祈りを上げる修道女が背負った黄色十字。彼女の長い赤毛の間から見えるその刻印に強く下唇を噛み、両の拳を握った。方々探し回って異端者に頼む事しか出来なかった自分の不甲斐なさに体が震える。一筋、手の平から流れた生ぬるい水が廃教会の朽ちた床を赤く汚していた。
「また、もしあなた方がよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音の言葉をしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなた方に最も大切な事として伝えたのは私も受けた事であって、次の事です」
湿った風が傍らを通り過ぎ祈りの言葉を上げる修道女の髪を、俺の髪を微かに動かした。糸杉の木の棺に納められた彼女の髪は動かない。
「御子は、聖書の示すとおりに、私達の罪のために死なれた事、また、葬られた事、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた。御子は眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりを通して来たからです。全ての信者の創造主、かつあがない主にまします天主、主の僕らの霊魂に、全てのもの赦しを与え給え。願わくは、かれらが絶えず望み奉りし赦しをば我らの切なる祈りによりてこうむらしめ給え。世々に活きかつしろしめし給う主によりて願い奉る。主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え。 彼らの安らかに憩わんことを」
彼女は眠っていた。白い花の海に抱かれて。何者にも侵される事もなく、時を止めて。恐ろしいほどの静けさと咽返る様な死がたゆたい具現していた。
「……終わったぞ。しかし、刑死した人間の為にミサを奉げるとはな。知られればお前もこの女同様死罪になる」
「それはあなたも同じではないのか、ロト」
「私は既に黄色十字を背負っているからな。今更の話だ。……お前としても本当は異端者の私ではなく神父の下でミサを奉げたかったんだろうが……」
異端の証を背負った修道女の言葉に刹那瞳を閉じ、一つ首を縦へと振った。彼女が口にしたそれは紛れもない事実だったからだ。
「だろうな。死罪になる危険を冒してるんだ。それほど大事な者だったんだろう?この首は」
「……彼女は世界でした。根幹でした。俺にとって……礎でした」
蝋燭の炎が灯っていた。いくつも。頭上で、背後で。その瞬間、自分の周りで固まっていた時間が緩やかに解けて、音もなく溶けて行った。彼女の時間だけは、止まったまま、彼女だけを置き去りにして。
++++++++++++++++++++
「”誰が殺した駒鳥を。それは私よスズメがそう言った。私の鎌で私の腕で、私が殺した 駒鳥を”」
「……誰……?ここは秘密のお庭なのに……どうして……」
「名乗るほどのものじゃない。綺麗に咲いた赤い薔薇に魅入られ足を止めただけだよ。小さな庭の女主人よ」
陽光の全てを集めて庭の主人の髪が煌めいていた。僅かに吹き込んだ風を受け微かに動く金の糸にぐにゃりと自身の口元が弧を描く。予期せず来訪者の訪れに幼い彼女の思考は追い付いていないのだろう。泣き腫らした大きな、自分とは違う赤い眼に、今、依代にしている男の黒衣が映っている。
「さて、唐突だが、女主人よ。今日は素敵な物語をあなたへと献上したく参った。いえいえ、お代はいりません。対価はあなた様の心でございますゆえ」
依代の伸びて簾のようになった前髪の間から青ざめ歯をカチカチと震わせている幼子の姿が見える。恐怖で顔を染め数歩後ずさりする少女の、細く白い腕へと自分の腕を伸ばし、捕まえた。
「サンソン」と、彼女が呼んだ名に自分の浮かべる笑みが更に深いものへと変わって行く。
「”誰が見つけた。死んだのを見つけた。それは私よ、ハエがそう言った。”さて、庭の主人よその幼い眼で一体何を見た。それは何の死骸だ?……そう、お前の母の首だ。それを高く掲げたのは誰だ?お前と同じ金の髪を無造作に掴んだのは誰だ?……誰が殺した?駒鳥の雌の首を刈ったスズメは誰だ?」
「あ……あああっ……う……嘘よ……こんな……こんなこと……」
「嘘。ふむ、そうかもしれないな。俺がお前に見せた幻術の類かもしれない。お前がそうだと思うならな。……さあ、どうする?真実を知りたいか?なら共に来るか?それともここに一人で残りスズメを待つか?それもいいだろう。もしかしたらスズメがお前に教えてくれるかもしれぬ。さて、どうする?駒鳥の雛よ」
≪サンソン/ラス≫
「私は去って行く。あなた方は私を捜すであろうが、自分達の罪のうちに死ぬ。私の行くところにあなた方は来る事が出来ない」
そこで、ユダヤの人々は言った。「『私達の行くところにあなた方は来る事が出来ない』と言っているが、まさか自殺するつもりではあるまいか」
御子は彼らに仰せになった。
「あなた方は下から来る者に属しており、私は上からの者に属している。あなた方はこの世に属しており、私はこの世に属していない。それであなた方は自分の罪のうちに死ぬと私は言ったのである。『私はある』を信じなければ、あなた方は自分の罪のうちに死ぬだろう」
そこで彼らは「あなたは一体誰ですか」と言った。御子はお答えになった。
「それは初めからあなた方に話している事ではないか。あなた方について話す事、裁く事が沢山ある。しかし、私をお遣わしになった方は真実であり、私はその方から聞いた事を世に向って語っているのである」
彼らは御子が御父について話しておられる事を悟らなかった。そこで御子は仰せになった。
「あなた方は人の子を上げた時はじめて『私はある』を悟り、また私が自分勝手には何もせずただ父が教えられた通りに話していた事から悟るであろう。私をお遣わしになった方は私と共にいて下さり、私を一人にしておかれる事はない。私がいつもその御心に適う事を行うからである」
これらの事をお語りになると、大勢の人は御子を信じた。
【ヨハネによる福音書 第8章】
「御子は言われた。『私は、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです』兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です」
雨が降っていた。数日前に降っていたこの世の全てを押し流す嵐のような雨ではなく静かに降り積もる、銀の糸の様な雨が。
焚かれた嗅ぎ慣れない香の香りがするりと肺へ入り込み満たしていく。修道女が言うにはこれは没薬……ミルラと呼ばれる香らしい。
祈りを上げる修道女が背負った黄色十字。彼女の長い赤毛の間から見えるその刻印に強く下唇を噛み、両の拳を握った。方々探し回って異端者に頼む事しか出来なかった自分の不甲斐なさに体が震える。一筋、手の平から流れた生ぬるい水が廃教会の朽ちた床を赤く汚していた。
「また、もしあなた方がよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音の言葉をしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなた方に最も大切な事として伝えたのは私も受けた事であって、次の事です」
湿った風が傍らを通り過ぎ祈りの言葉を上げる修道女の髪を、俺の髪を微かに動かした。糸杉の木の棺に納められた彼女の髪は動かない。
「御子は、聖書の示すとおりに、私達の罪のために死なれた事、また、葬られた事、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた。御子は眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりを通して来たからです。全ての信者の創造主、かつあがない主にまします天主、主の僕らの霊魂に、全てのもの赦しを与え給え。願わくは、かれらが絶えず望み奉りし赦しをば我らの切なる祈りによりてこうむらしめ給え。世々に活きかつしろしめし給う主によりて願い奉る。主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え。 彼らの安らかに憩わんことを」
彼女は眠っていた。白い花の海に抱かれて。何者にも侵される事もなく、時を止めて。恐ろしいほどの静けさと咽返る様な死がたゆたい具現していた。
「……終わったぞ。しかし、刑死した人間の為にミサを奉げるとはな。知られればお前もこの女同様死罪になる」
「それはあなたも同じではないのか、ロト」
「私は既に黄色十字を背負っているからな。今更の話だ。……お前としても本当は異端者の私ではなく神父の下でミサを奉げたかったんだろうが……」
異端の証を背負った修道女の言葉に刹那瞳を閉じ、一つ首を縦へと振った。彼女が口にしたそれは紛れもない事実だったからだ。
「だろうな。死罪になる危険を冒してるんだ。それほど大事な者だったんだろう?この首は」
「……彼女は世界でした。根幹でした。俺にとって……礎でした」
蝋燭の炎が灯っていた。いくつも。頭上で、背後で。その瞬間、自分の周りで固まっていた時間が緩やかに解けて、音もなく溶けて行った。彼女の時間だけは、止まったまま、彼女だけを置き去りにして。
++++++++++++++++++++
「”誰が殺した駒鳥を。それは私よスズメがそう言った。私の鎌で私の腕で、私が殺した 駒鳥を”」
「……誰……?ここは秘密のお庭なのに……どうして……」
「名乗るほどのものじゃない。綺麗に咲いた赤い薔薇に魅入られ足を止めただけだよ。小さな庭の女主人よ」
陽光の全てを集めて庭の主人の髪が煌めいていた。僅かに吹き込んだ風を受け微かに動く金の糸にぐにゃりと自身の口元が弧を描く。予期せず来訪者の訪れに幼い彼女の思考は追い付いていないのだろう。泣き腫らした大きな、自分とは違う赤い眼に、今、依代にしている男の黒衣が映っている。
「さて、唐突だが、女主人よ。今日は素敵な物語をあなたへと献上したく参った。いえいえ、お代はいりません。対価はあなた様の心でございますゆえ」
依代の伸びて簾のようになった前髪の間から青ざめ歯をカチカチと震わせている幼子の姿が見える。恐怖で顔を染め数歩後ずさりする少女の、細く白い腕へと自分の腕を伸ばし、捕まえた。
「サンソン」と、彼女が呼んだ名に自分の浮かべる笑みが更に深いものへと変わって行く。
「”誰が見つけた。死んだのを見つけた。それは私よ、ハエがそう言った。”さて、庭の主人よその幼い眼で一体何を見た。それは何の死骸だ?……そう、お前の母の首だ。それを高く掲げたのは誰だ?お前と同じ金の髪を無造作に掴んだのは誰だ?……誰が殺した?駒鳥の雌の首を刈ったスズメは誰だ?」
「あ……あああっ……う……嘘よ……こんな……こんなこと……」
「嘘。ふむ、そうかもしれないな。俺がお前に見せた幻術の類かもしれない。お前がそうだと思うならな。……さあ、どうする?真実を知りたいか?なら共に来るか?それともここに一人で残りスズメを待つか?それもいいだろう。もしかしたらスズメがお前に教えてくれるかもしれぬ。さて、どうする?駒鳥の雛よ」
≪サンソン/ラス≫
