第7章 過去・追憶

それから御子はそこを出て、いつものようにオリーブの山に行かれた。弟子達も御子に従った。いつもの場所に着くと御子は仰せになった。

「誘惑に陥らないように祈りなさい」

そして、御子ご自身は石を投げて届くまでのところへ行き、跪いて祈られた。

「父よ、お望みなら、この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私の思いではなくみ旨が行われますように」

すると御使いが天から現われて御子を力づけた。

御子は苦しみ悶え、更に熱心に祈られた。汗が血の雫の様に大地に滴り落ちた。

御子は祈りを追えて立ち上がり、弟子達のところへ行かれると彼らが悲しみの果てに眠っているのをご覧になった。

御子は彼らに仰せになった。「何故、眠っているのですか。誘惑に陥らないように起きて祈りなさい」


【ルカによる福音書 第7章】






「私、日曜日になるといつもここへ来るの。ここに置いてある装飾はどれも綺麗で、見ているだけで幸せな気持ちになるわ」


空が映っていた。雨上がりの石造りの通りに点在する水溜りに。店の軒先に整然と並べられたガラス玉や宝玉に。

自分を飾る為に欲しい物があってこの店に来たわけではない。かと言って誰かに何かを贈る予定があるわけでもない。売り物を見ていた理由をしいてあげるなら単純な気まぐれだった。どこでも良かったんだ。時間を潰せれば。今日時間を潰すために選んだのがたまたまこの店だった……ただ、それだけ。

不意の聞きなれない声がするりと空虚な思考の中へ入り込んだ。緩慢な動作で首を動かせば、自分の視線よりも低い位置で雨上がりの日差しを受けて金の糸が煌めいていた。


「今日は、ブローチを買いにきたのよ。私の大切な人に捧げる、プレゼント。お揃いにしようと思うの。……あなたは、どれが綺麗だと思う?」


今考えればそれは一目惚れの様なものだったのではないかと、そう思う。……違う。もっと根源的な感情だった。嬉しかった。単純に嬉しかったんだ。もう何年も身内以外の者と普通の会話を交わす事もなかったから。父から家業を継いでからというもの外と内を隔絶してきた。せざるを得なかった。

この世の正義の最後の段階を担っているはずの自分達執行人が忌むべき者として除け者にされているのは何故だ?何故避けられなくてはならない?


「ふふっ……どうしたの?そんなに目を丸くして私を見て。そんなに変な事を言ったかしら?」


彼女の姿と言葉に不思議な安らぎを見たんだ。街を行き交う人込みの中で、あらゆるものがモノクロームに沈んでいく中で彼女だけは淡く色付いていた。不思議で、それでいて優しく胸を掴まれたような……そんな感覚がした。






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雨上がりの通りに点在する水溜りに空が映り込む。その横を通り過ぎるたびに一つ一つ、鏡を覗き込む様に見つめる小さな女主人の姿に自分の口から小さな笑みが零れて落ちた。

「ちゃんと上を見ないと危ないですよ」と言葉を紡げば、女主人はきょとんとした眼差しで俺を見つめ、次の瞬間、花が咲くように笑みを浮かべる。


「上?ちゃんと見てるよ~。だって水溜りの中に空が落ちてるもん。だから、セティは今お空を見てたの」


空を見ている。上機嫌に話す彼女と繋いだ手に僅かー……ほんの微かに力を込めた。彼女の金の髪を飾るあのブローチが雨上がりの日差しの中で煌めいていた。


「えへへ……それにセティ知ってるもの。セティが転びそうになったらサンソンがセティの手を引っ張って助けてくれるって」


「それが私の役割ですから、否定はしません。でも、転ばないに越したことはありませんので……私の手をしっかり握って下さいね。それにセティお嬢様が迷子になったら大変ですから」


「む~……違うよ~!逆だよ~!サンソンが迷子にならないようにセティが手を繋いであげてるのー!」


『ふふ……、逆よ、逆。あなたが迷子にならないように私があなたの手を取るの』


昨晩の降った雨の残り香が鼻腔を擽る。それと同時に記憶の……一番大切な場所にしまっておいた言葉の一つが静かに引き出され鼓膜を揺する。緩やかな雑踏に飲み込まれながら、今日の買った食材が入った紙袋を片手で抱え直した。


「ふふっ……そうですか。でしたら尚更しっかり握っていて下さい。私が迷子にならないように」


『迷子だなんて……俺はもうそんな子供じゃない』


あの人に返したものとは真逆の言葉を返して雑踏へと共に流れて行く。あの日、俺に手を差し伸べてくれたアメリアも今俺が感じている気持ちと同じ気持ちだったんじゃないかと、思いを馳せながら。


「アイス冷たくて美味しいねー!サンソン!」


「そうですか。ならよかった。……お嬢様、少し失礼しますね」


「むう~……」


「はい、取れました。お口で食べる分には構いませんがお鼻にまで食べさせないで下さい」


雨上がりの公園の真ん中で拭き上がった噴水の水がアーチを作る。風に乗って僅かにここまで届いた水飛沫が心地良い涼を生んでいた。


「どうかされましたか?……お嬢様?」


何の前触れもなく自分の胸へと伸びて来た小さな白い手と少し遅れて吐き掛けられた息に、彼女の行動の意図が掴めず首を横へと倒し尋ねた。白い手に中にある白いレースのハンカチが俺の胸元を飾るブローチの表面を滑る。思わず瞳を縦に見開けば柔らかに微笑む主人の姿が映った。赤い、俺が何よりも……愛してやまない色が優しい弧を描いている。


『一つはあなたが持っていてちょうだい。約束の証として。あの子を……あの子を頼みます。あの子は私の太陽だから。あの子は私の世界だから。あの子がいる限り私はー……』


今自分が見ているのは誰だろうか。自分は一体いつの時間を見ているのだろう?ああ……あなたは太陽だった。世界だった。礎だったのに……!!!


「……綺麗になった~!お口を拭いてもらったお礼なの。サンソンのブローチはいつもピカピカだけどセティがもっとピカピカにしたよ~……サンソン?」


「……帰りましょうか、”セティお嬢様”。もうすぐお昼になりますから。拗ねないで下さい。また来週の日曜もここに来ましょう」


記憶の引出しに言葉をしまって小さな女主人の手を取った。そう……記憶の片隅に無理に押し込んで。


『……誰、ですか……セティ、アメリアに言われているの。悪い人が来るかもしれないから簡単に屋敷の扉を開けては駄目ですよ、って。だからセティはアメリアが帰ってくるまでアメリアの言った事を守るの……』


『……そのアメリア様から命を受けて参りました。サンソン……私の事はサンソンとお呼び下さい。今日からあなた様へ仕える従者の名前です。セティお嬢様』

数日続いた雨が終わり空から太陽が顔を出していた。美しい太陽が。


≪サンソン≫
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