第7章 過去・追憶


私はまことの葡萄の木であり、私の父は栽培者である。私に繋がれていて実を結ばない枝は全て父がこれを切り取られる。しかし、実を結ぶものは全てもっと豊かに実を結ぶように父が綺麗に刈り込んでくださる。

私があなた方に話した言葉によってあなた方は既に清くされている。私の内に留まっていなさい。そうすれば私もあなた方のうちに留まる。葡萄の枝が木に繋がれていなければ枝だけで実を結ぶ事は出来ない。それと同じようにあなた方も私の内に留まっていなければ実を結ぶ事は出来ない。

私は葡萄の木でありあなた方は枝である。人が私の内に留まっており、私もその人の内に留まっているならその人は多くの実を結ぶ。

私から離れてはあなた方は何もする事が出来ない。私の内に留まっていない人があれば枝の様に外へ投げ捨てられ枯れる。すると人々はそれをかき集め、火に投げ入れて燃やしてしまう。

あなた方が私の内に留まっているなら、望むものを何でも願いなさい。そうすれば叶えられる。

あなた方が多くの実を結び、私の弟子となるならそれによって父の栄光を受ける事になる。父が私を愛して下さったように私もあなた方を愛してきた。

私の愛の内に留まりなさい。あなた方が私の掟を守るなら、私の愛の内に留まる事になる。私が父の掟を守って、その愛の内に留まっているのと同じである。私がこれらの事をあなた方に話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満ち溢れる為である。


【ヨハネによる福音書 第15章】






「そう思う事はおかしな事ですか?ヴィクターおじ様?」


ふわり、と私の鼻腔を嗅ぎ慣れた香りが擽った。没薬の香りが今日一日世界を照らし続けていた日が山の稜線の間に間もなく消えるという事を告げている。

わずかに空気が動いた。夕間暮れの風によって動いた……というわけではなくおじ様が微かに笑った事によって。西から差し込む落日の輝きに遮られて私から見るおじ様は今は影に塗り潰されて見えないけれど、おじ様は笑った。そう思ったんです。


「おかしいなんてとんでもない。言ったじゃないか?君は君が思った事を言えばいい、と。最初から正解なんてない問い掛けだ。おかしな答えを答えようがないんだよ。……君もそう思うだろう?」


「……君?……あっ」


おじ様の視線が少し、ほんの僅か私の横へとずれた。日が先程よりも沈んだからだろうか、あれほど見えなかったおじ様の表情が今ははっきりと私からでも見る事が出来る。細く緩められたおじ様の瞳が見つめる先には私達の他にもう一人人がいて、その人の姿を認識すると同時に私の瞳はおじ様のものとは逆に見開いた。


「そう、えい、様?いつからいらっしゃったんですか?」


「あっ……うっ……その……」


「あっ、奏影様……!ま、待ってください……!」


落日の灯火が消えて黄昏が沈黙を伴って窓から入り込む。私の横をあっという間にすり抜け駆けて行ってしまった人の名を呼んで、手で空を掻いた。追い掛けなくては……そう思って反射的に一歩足を踏み出して……瞬間立ち止まりそのままくるりと身を返す。そんな私をおじ様は変わらない柔和な表情で見つめていた。


「おじ様……!今日はもう遅いですから一晩泊まって行って下さい。最近はこの辺りも夜になると治安が悪くなりますし……それに、その……久しぶりにおじ様のお話を聞きたいですわ」


「ふふっ……怖がりはもう大丈夫なのかい、テレーズ?」


「あっ……あれはおじ様が怖いお話ばかりなさるから……!」


「そうかもしれないね。さて、でもいいのかい?奏影君、と言ったね?追い掛けなくても」


「あっ……!」


おじ様の口から零れた微かにしわがれた声が夕間暮れの海に沈む部屋の中に溶けるように広がって行く。部屋を出て行く直前にもう一度念押しする様に一方的な約束を取りつけて扉を潜り抜けた。背中で誰かが笑っていた。影が笑っていた。


「奏影様ー?奏影様ーどこですかー?」


長い長い石の回廊に自分の足音と声が残響する。手に持ったランタンの灯が訪れた夜を払ってくれているけれど少々心もとなくも感じる。


『ふふっ……怖がりはもう大丈夫なのかい、テレーズ?』


先程聞いたおじ様の言葉がリフレインする。かぶりを振って消そうと思ったけれど一度思い出してしまった言葉は簡単に消えてくれそうになかった。少し意地を張っておじ様にはああ言ってはみたけれど今でも夜の回廊を一人で歩くのは得意ではない。特にここには大鏡がある……


「あの~……ここにいます……!さっきから!」


「えっ?きゃぁああああああああああ!!!」


手に持ったランタンの灯が揺らぎ伸びて縮む。い自分の肩に何かが触れた気がして振り返れば、後ろの姿見に自分の虚像ともう一つ、像が映り込んでいた。硬質な音を奏でてランタンが砕ける。散ったガラスの破片が残った油に付いた火を反射して煌めいていた。


「あっ、そう……え……」


「お、驚かせてしまってすみません……!自分が大きな声を出したから……!」


「い、いえ……!そんな事……!私が勝手に驚いて転んだだけですわ……!です、けれど……」


散った光が奏影様の姿を浮かび上がらせていた。私の隣で膝を折り心配そうに顔を覗き込む彼の視線がいたたまれなくなって自分の視線を落とす。そろり、そろりと腕を伸ばして彼の黒い、異国の服の端を指先で掴んだ。顔が何故でしょうか……とっても熱い……


「あの……起こしてもらえると……助かり、ます……その……どうも腰を……抜かしてしまったみたいで……」


見なくても分かる。今の私の顔は赤いということぐらい。でも、この赤みは暫く、消えそうにない。

カツリ、コツリと石が鳴る。二つ並ぶように音が響いていた。今日は朔の日だからいつもより夜が静かに感じる。静かで、暗く、重い。でも、不思議と怖く感じないのは隣に彼がいてくれるからでしょうか?


「すみませんでした……」


「あっ、謝らないで下さい……!さっきも言いましたが私が勝手に驚いただけですから……!おじ様が昔お話して下さった事を思い出してしまって……朔の夜に鏡の中を覗いてはいけない。向こう側の王国に連れていかれてしまうから、って……」


「いえ……その……あの……違うんです。さっき話を聞いてしまったから……聞くつもりはなかったんです……」


降りしきる、降り積もる。夜が横を通り過ぎて行く。彼の言葉に刹那瞳を閉じて……夜を飲み込み言葉を紡いだ。


「おかしいと思われたかもしれませんね」と。

私は今まで信仰と共に生きて来た。だけど奏影様は違う。私の中で信仰と常識が重なる部分はけして少なくはない。けれど彼は違う。そんな彼から見たら私は異様に見えたかもしれない。今はこんな時世ですもの。先の旧教徒からの新教徒による弾圧は記憶に新しい。


「だけどそれが私の世界。私と姉が生きた世界なんです。信仰を捨ててしまったら姉が精一杯生きた証も否定してしまうような気がして……私にとって信仰は葡萄の木で私は枝葉なんです。その内に留まっていなければ枝は外へ投げ捨てられ枯れる。そして火に投げ入れて燃やされてしまう」


『私達に出来る事はいつだって小さな事。小さな事を大きな愛を持って行う事こそが私が贈る事が出来るただ一つの事』


ミルラの香りが夜を包んでいた。姉様が天に昇って行った時のも傍にあった香り。


「ふふっ……変な話を聞かせてしまいましたね。戻りましょう。ヴィクターおじ様も呼んで皆でお食事を食べましょう」


≪テレーズ・リジュー≫
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