第7章 過去・追憶

その頃ファリサイ派の人々と律法学者達がエルサレムから御子の元に来て言った。「何故弟子達は昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に身を清めません」

御子はお答えになった。「何故、あなた方は自分の言い伝えの為に神の掟を破るのか。神は父と母を敬え。父または母を罵る者は刑に処されると仰せになった」

「しかし、あなた方は言っている。父または母に向って、私のものであなたの役に立つものは神への供え物です、と言う者は父または母を敬わなくてもよい、と。このようにあなた方は自分達の言い伝えによって神の言葉を無にしている。偽善者達、イザヤはあなた方についていみじくもこう預言した」

「この民は口先で私を畏れ敬うが、その心は私から遠く離れている。私を礼拝しているが、それは虚しい。彼らが教える教えは人間の戒めだからである」

それから御子は群衆を呼び集めて仰せになった。「聞いて悟りなさい。口から入るものが人を穢すのではない。口から出るものが人を穢すのである」

その時、弟子達が御子に近寄って「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて躓いた事をご存じですか」と言うと御子はお答えになった。

「私の天の父がお植えにならなかったものはみな抜き取られる。そのままにしておきなさい。彼らは盲人を導く盲人である。盲人が盲人を導けば二人とも穴に落ちてしまう」

ペトロが言った。「この喩えを私達に説明して下さい」

御子は仰せになった。「あなた方までまだ悟らないのか。口に入るものはみな腹に入り、厠に落ちる事が分からないのか。しかし、口から出るものは心から出るもので、これが人を穢す。悪い考えや殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、冒瀆は心から出て来る。これこそが人を穢す。身を清めずに食べる事は人を穢さない」


【マタイによる福音書 第14章】






石を敷き詰めた道の端の轍に雨が溜まる。轍同様に雨が溜まった窪みに足を取られ瞬間よろめいた。雨が降っていた。蒼くけぶる水しぶきのヴェールの向こうで灯が滲んでいる。

早く帰らなくてはならない。そう思っているのに体の動きは心とは裏腹に酷く鈍重なものだった。心に体が追い付いていない。

この悪天候のせいで帰る時刻が予定よりもだいぶ遅くなってしまった。彼女がー……俺の小さな女主人は泣かずに待っているだろうか。

この時期にしては冷たい雨が羽織った外套を激しく叩いていた。けして遠くない距離で雷光が轟音を伴い柱を掛けていた。


「遅くなりました……!セティお嬢様……!」


夜が入り込み雨が吹き込む。屋敷の扉を開けると同時に俺の足に飛びついて来た小さな影を見下ろしてすぐに後ろ手に扉を閉めた。俺が壁になっていたから吹き込んだ雨で濡れはしなかったが……


「セティお嬢様。あなたまで濡れてしまいますよ。私から腕をお放しください」


「遅い……!帰って来るのが遅いサンソンがいけないのよ……!」


イヤイヤと聞き分けのない子供がするように激しく首を横に振り俺をなじる女主人の体をそっと抱え持ち上げた。酷く動揺しているのが体の震えからすぐ見て取れた。まだ首を振り続けている主人の頬に自分の手の平を重ねる。ヒタリ、と濡れた手袋越しに自分のものとは違う体温が伝わり、悴んだ指先が暖められ解れて行くのを感じた。


「……サンソン?」


「少し落ち着きましたか?」


小さな女主人の瞳に嵌まった紅玉の中に俺の姿が映っていた。あの人と……同じ色をした瞳にあの頃よりも醜悪になった自分の姿が映り込んでいる。あの日刎ねた首についていたものと同じ紅玉が俺を真っ直ぐ見つめていた。


「サンソン……大丈夫?」


「ええ、大丈夫ですよ。こうして無事帰って来ることができましたし」


「でも、今のサンソン迷子の猫みたいな顔してたよ」


不敬を承知で触れていた雨で濡れた手を放し主人の体を静かに床へと降ろした。「サンソン」と名を呼び不思議そうに首を傾げているこの小さな女主人に自分が向けている感情を何と形容すればいいのか……自分でも分からない。


「今すぐ食事の用意をしますので部屋に入りましょう。……今夜は帰りが遅くなってしまい申し訳……ありませんでした」


ユラリ、と暖炉にかけた小さな火が燻りたゆたう。もうすぐ夏になるとはいえ酷い雨の日にはここは底冷えをする。うつらうつらと櫂を漕ぎながらぼんやりと輪郭が曖昧な光を見つめ、肺の奥底から一つ息を吐き出した。……今日は酷く疲れた。主人も今頃、深い夢の世界へと旅立っているのだろうか。


「アメリア……」


口に出した名前が消えかかっている火の中へと消えて行く。俺がむやみやたらと紡いでいい名ではない。それなのに自然と紡いでしまったのは今日が彼女の命日だからだろうか。


『いつまで騙し続けるつもりですか』


今日の昼会ってしまった自分の縁者が俺に突き付けた言葉が思考を抉って行く。法務官として処理に関わったあの男は人好きする穏やかな笑顔のままはっきり言ってのけたのだ。


『天の父がお植えにならなかったものはみな抜き取られます。今のあなたは……そうですね。言うなれば盲人です。盲人が盲人を導けば二人とも穴に落ちてしまいますよ』


『……何が言いたい?ペトロ』


墓。そこは墓だった。あの日、秘密裏にその部分だけ持ち出し土を被せ葬り石を乗せた。……耐えられなかったんだ。あの人が民衆の好奇の目に晒される事が。風雨に晒され野犬に柔らかい唇の部分から食い破られていく様を見たくなかった。


『口から入るものはみな腹に入り、厠に落ちます。ですが、口から出てくるものは心から出てくるものですから、これが人を穢すんですよ』


『……俺に説教をする為にわざわざここまで来たのか』


『ええ、そうですよ。もう一度言いましょう。サンソン。いつまでそのぬるま湯に浸かっているつもりですか。お止めなさい。あなたの口から出てくる嘘で最も穢れるのは、穢してしまうのは誰ですか?』


ペトロの癖のある黒髪が楽し気に揺れていた。いや、実際は奴が楽しんでいるわけじゃない事は分かっている。あの時、ペトロはこの歪んだ状況を的確に指摘していただけだという事ぐらい俺にだってわかっているんだ。


「夢はいつか終わる。目覚めなきゃいけない。……分かってんだよ……そんなこと……身が切れるぐらい」


消えかかった焔の最後の輝きが、断末魔の灯火が目蓋の隙間から瞳の奥に入り込む。あの人と同じ深い紅の珠だ。


『罪人に一瞬の苦しみだけ与えてその後襲ってくる叫びたくなるような苦痛からあなたは解放してあげているんでしょう?そんなあなたは怖い人ではなく慈悲深い人だと、私はそう思っているわ。もし、もしもの話よ?もし……』


もし、私が処刑されるなら、サンソン。私はあなたの手にかかって死にたい。


≪サンソン≫
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