第3節 温泉

その時、悪魔に憑かれ、目が見えず、口が聞けない人が御子の元に連れて来られた。御子が癒されると口の聞けなかった人が物を言い、目が見えるようになった。群集は皆驚嘆して「この人がダビデの子ではないだろうか」と言った。

ファリサイ派の人々はこれを聞いて「悪霊の頭ベルゼブルによるのでなければ、この男の悪霊を追い出せるわけがない」と言った。

御子は彼らの思いを知って仰せになった。

「どんな国も内輪で争えば荒れ果て、どんな家も内輪で争えば成り立って行かない。もし、悪魔が悪魔を追い出すのなら、内輪で争う事になる。そのような事でどのようにしてその国は成り立って行くのだろうか」

「もし、私がベルゼブルによって悪魔を追い出しているのなら、あなた方の弟子は誰によって悪霊を追い出すというのか。だから、あなた方の弟子があなた方の裁き手となる」

「もし私が神の霊によって悪霊を追い出しているなら神の国は既にあなた方の元に来ている。強い人の家に押し入ろうとする時はまず強い人を縛り上げてからでなければ、どうして家財を奪い取る事が出来るだろうか。縛り上げてはじめてその家を荒らす事が出来る。私に味方しない者は私に反対し、私と共に集めない者は散らかしている」


【マタイによる福音書 第12章】






ユラリ、と俺の目の前で焔が踊った。別に戦火ってわけじゃない。何の変哲もない野営の焚き木の火が周囲を照らしている。


「何だ。何か言いたい事があるならはっきり言ったらどうだ」


「お前ってほんっとうに可愛げの欠片もねーな。俺だってお前と夜警番なんてしたかねーよ。ああ、最悪だ」


バチリ、と火の粉を伴って乾燥した薪木が爆ぜた。蛍の様に刹那煌めきそのすぐそばから落ちて消えて行く。そんな光の先で金の糸が輝いていた。昼とは違う酷く頼りない光が女の細い髪を照らしている。

売り言葉に買い言葉。俺とこの女の間で交わされる言葉を一言で言うならそれだった。飛竜を撃退しノルンさんと共にこの女が現われてから今まで、互いに口を開けばお互いの口が紡ぐのは相手を罵倒するものだ。

合わない。この女と俺はそれも徹底的に。理屈ではない。心の底から感じていた。

ノルンさんと話す事には慣れた。流れで俺達について来ることになった実影という名前の女とも普段話す分には支障がない。ピエールさんはむしろ今では頼りがいのある兄貴分のような存在になっていた。ケイオスとは全然タイプが違うが、話しやすい。

けれど、この女は……嫌いだ。

痛いぐらい張り詰めた空気は純粋な夜の寒さから来るものだろうか?……本当にそれだけだろうか?足元から、背中から、服の隙間から忍び込む冷気にブルリ、と身体が震えて熱を生む。

この寒さが自分の体内でまだ火が燃え続けているという事を実感させてくれていた。吐き出した息がその先から青い夜の底で吸い込まれて消えて行く。


「……しかし、あの修道院にまた行くことになるとはな……」


「何か言ったか」


「……フンッ。言っただろう。お前の様な下賤な者と交わす言葉は多く持ち合わせていないと」


「下賤……ね」


世界が単純化されていく。夜の暗がりと目の前の火が照らす場所と。ここは暖かい。光が当たっているからな。だが、ここ以外の大部分の場所は……


「お前は……」


「しつこい。その臭い口を塞いだらどうだ」


「俺達とお前と、何が違う?」


大部分の場所は……暗がりだ。


「お前達の様な貴族と俺達の様な平民との間に一体何の違いがある?生まれ?家柄?それとも思想か?信仰か?……身分って、なんだ?」


『君達が私達を糾弾する?笑わせる。君達とて私と同じではないか。私達が民衆を利用した様に君達は王女を利用する。そして、邪魔になるようならば排除する。ああ、よく分かるさ。それが頂点に立つ者の”血筋”だ。……そう、邪魔になるようであれば排除される。平民と何が違う?』


グルリ、カラリと不可視の針が逆回りに回り始める。あの日……腐泥と咽返る様なカビの臭いが充満した地下遺跡でフリードリヒが口にした言葉が巡って行く。


『アル。君の言う”民”というのは君達の様なー……君達の言葉で言う”持たざる者”のことだよね?……でも、”持つ者”は?僕達の様な貴族はこの国の民ではないの?』


「”持つ者と持たざる者”、”利用するものとされるもの”その違いはなんだ?」


言葉が解けて、溶けていく。崩れて行くのは矜持か信念か。何者かになりたいと、そう思った。時代の流れにただ流され続けるだけの葦の穂にはなりたくないと、そう思っていた。だが、現実はどうだ?流されるどころか激しい渦に絡め取られて自分一人では満足に息をする事すら出来ないでいる。


「……んな話をあんたにしても無意味、か。俺とあんたが見ている景色は違う。なんたって俺はあんたからすれば下賤な人間だからな」


「……どこへ……いく……?」


「見回りだよ。これ以上ここであんたと喋っていても実入りなんて一つもないだろ。お互いに。……あんたと俺と、いる世界は違う」


何もかもが決定的に違う。なのに膿んで腐臭を放っているような自分の一部を晒したのは誰でもいい、話を聞いて欲しかったから。せめて吐き出して次から次へと湧いてくるどす黒いものを軽くしたかったから。……我ながら身勝手な話だ。これじゃ八つ当たりだ。

いずれにせよ自分がどう思ったところで時は流れ、情勢も動いていく。それを押しとどめる事は出来ない。……少なくとも俺一人では。

諦めた様に小さく一つ息を吐き、踵を返し湿った土を踏み歩き出す。黒い森の隙間から蒼い夜の光が零れて落ちていた。……ここまで暗いと夜の空でさえ明るく見えるんだな。そんな当たり前のことを見上げながら考えていた。どれぐらいの時間、そうしていたかは分からないが。


『ああ、そうだ。私達は悪だ。戦争とはそういうものだ。勝者は善であり敗者は悪。皆が戦犯であり、同時に犠牲者だからだ。だからもう十分だ。反省も後悔も。自分達が正義となる為には勝つしかない。あの強大な力に、な』


「……戻って来てみれば寝てやがるし……」


周囲をぐるりと回って元の場所へと戻って来てみれば消えかかった火の傍らで倒れ込む様にあの女が寝ていた。口の隙間から微かに零れている寝息と僅かに上下している華奢な肩が女が死者ではなく生者である事を俺に教えていた。

おい。と、一言言葉を紡ごうとして、言葉にする寸でで飲み込んだ。そして、紡ぐ代わりに女の傍らに膝を折り掬い上げるように両手で抱え、歩いた。起こさないように極力揺らさないようにしたつもりだが、微かに吹く風が女の髪を揺らして俺の腕を擽る。


「あら……アルさん……こんな夜遅くにどうかされました……まあ……」


「ノルンさん、起こしてしまってすみません。こいつをここで預かって下さい。寝てしまったみたいなんで」


「それは構いませんが……アルさんは?」


「もうすぐ交代の時間ですから。セデルが来たら俺も自分の幕に戻って寝ますので」


寝惚け眼だったノルンさんの瞳が俺の手元に止まった瞬間、静かに見開いた。そっと彼女の幕の中にあの女を降ろして横たえ、すぐに潜り後にする。

セデルが俺達に話した修道院が俺を受けて入れてくれるかなんてわからない。ただ通ってきた道を戻る事が不可能なことぐらい俺にだって分かっていた。

『そう、だね。……でも、アル、これだけは忘れないでいてほしい。”目に見えるものが、示されるものが全て真実だとは限らない”ことを。そして、”最善だと思ってとった行動が最良の結果に繋がるとは限らない”ことも』


「……リック。今、堪らなくお前の顔が見たいよ。なあ、親友?お前なら、どうするんだ……?」


≪アルフォート≫
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