第3節 温泉


ですから、愛された子として神に倣う者になりなさい。そして、愛に基づいて歩み続けなさい。御子も私達を愛し、私達の為にご自分を神への芳しい香りの供え物、犠牲として渡されたのです。

聖なる人々に相応しく、あなた方の間ではみだらな事、汚らわしい一切の事、それに貪欲な事は口にさえしてはなりません。

また、卑猥な話、愚かなお喋り、あるいは下品な冗談なども相応しくありません。むしろ口にすべきは感謝に満ちた言葉です。全てみだらな事を行う者、汚らわしい事を行う者、貪欲な者は偶像崇拝者であって、御子の統治する国において約束されたものを相続する資格がない事を弁えなさい。

虚しい言葉に惑わされてはなりません。先に述べたような行いの為に、不従順な者達の上に神の怒りが下るからです。彼らの仲間になってはなりません。

かつてあなた方は闇でしたが、今は主と結ばれて光となっています。「光の子」として歩みなさい。実に光が結ぶ実は、あらゆる善意、正義、真実を備えたものです。

主に喜んでいただけることは何かを見極めなさい。実を結ばない闇の業に与してはなりません。むしろ、その誤りを指摘しなさい。

彼らが隠れて行っている事は口にする事さえ恥ずかしい事です。誤りと指摘される全ての事は光によって明るみに出されます。明るみに出されるものは全て光なのです。


【エフェソの人々への手紙 第4章】






一片、午後の少し弱くなった光が降り注ぐ。まるで白鳥の羽根に包まれているかのような心地良い気怠さに負けて、うつらうつらと櫂を漕ぎ出した……そんな時だった。窓の外、ある人影が修道院へ向かって歩いてくるのが見えたのは。

近付く人影の輪郭が徐々に、ぼやけたものからはっきりしたものへと変わって行く。次の瞬間、私は眠りを自室に置き去りにして扉を勢いよく押し開け、階段を一段飛ばしで降りて駆けた。


「ヴィクターおじ様……!来て下さったんですか……!」


「ははっ。君は相変わらずのようだね。どうだい、ここの院長の仕事には慣れたかい?」


ヴィクターおじ様の年かさを重ねた眦がその言葉と共にゆるり、と動く。久々に見たおじ様の笑顔は記憶の中にあるものと寸分も違わないもので、変わらない優しい笑顔に釣られる様に私の瞳も、そして口元も緩い弧を描いた。


「おじ様……お手紙で……は……こちらにいら……しゃるなんて……一言も……書かれて……いませんでした……から……」


「ははっ、すぐに帰るわけじゃないから慌てずにまずは息を整えなさい。テレーズ」


走って階段を降りて来たからだろう。普段より速い速度で左胸が脈を打つ。でも、それだけが理由ではない事を他の誰でもない、私自身が一番よく知っていた。


「だって……はあ……嬉しくって……お手紙でおじ様がお元気でいらっしゃるという事は知っていましたけれど……こうしてお顔を見るのは本当に久しぶりで……」


「それは私も同じだよ。君も元気そうで何よりだ」


「でも、おじ様?どうして今日はここへ?」


「先日一人では消費し切れない蜜を貰ってね。方々に配り歩いていたところなんだ」


「蜂蜜……ですか?でも、それだけではないような……」


首の動きに合わせるように被った日に焼け褪せたレースのカーテンで作ったヴェールが揺れ動く。瞳を数度瞬かせて、おじ様のお顔と手元の荷物を交互に見つめた。


「ふふっ。そっちはね蜜の対価に貰った薬草で作った茶でね。これも一人で消費し切れない量になったから一緒に持って来たんだよ」


「まあ……ハーブティーですね……!素敵!でしたらおじ様、今日は一緒にお茶を飲みましょう……!おじ様と一緒にお茶を飲むなんて何年ぶりかしら……!」


「ははっ、そんなに慌てて手を掴まなくても逃げやしないよ。さっきも言っただろう?今日はすぐに帰るわけじゃない、と」


おじ様の無数の皺が刻まれた手を自分の手で包み引けば、おじ様は変わらない柔和な表情で私を見下ろしていた。あの頃と違って大人になった分私の身長も伸びて距離は近くなったけれど、こう諭すように言われてしまうとやっぱり距離は変わっていないんだと、そう思ってしまう。そして、それに安心感を感じるのも、また。


「美味しいお茶……淹れますね、ヴィクターおじ様……!」






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「……さて、テレーズ。一つ質問してもいいかな?」


「……何でしょうか、おじ様?私に答えられることならいいのですが……」


「なあに難しい事じゃないよ。君は君が思った事を言えばいい」


窓から吹き込む風が見えない手となり机の上に平積みに積まれた本をめくって行く。ほとんど空になった白磁の茶器からおじ様へと視線を移せば、柔らかな逆光の中、腕を組み変わらない笑顔でこちらを真っ直ぐに見つめているおじ様がいた。


「テレーズ。君は神をなんだと思う?君にとって”信仰”とはなんだい?」


誘う様に吹き込んだ風が手を振る。私とヴィクターおじ様しかないない空間に、私達以外の、どこか風に乗ってやって来た笑い声が微かに響いた。


「君の姉は若くして病床に伏し、亡くなった。私も彼女の葬儀に立ち会ったからそれは知っている。何も悪い事などしてはいないのに……いや、むしろ君の姉は敬虔な修道女だった。……そうだね、死は確かに平等だ。だが、同時に理不尽でもある。自身の信徒であったにも拘わらず神は君の姉君の命を死から救いやしなかった。なのに君が今でもそんな神への信仰を持ち続けている事に少しばかり興味があってね。聞かせてくれるかい?」


光さざめく客室に静かな尋問の声が吸い込まれ消えて行く。浮かべた曖昧な笑みを刹那瞳を閉じると同時に消して、改めておじ様へと向き直った。


「私は……私にとっての”神”とは義なる神ではなく愛の神ですわ」


神とは秩序と規律を司る法の神だと言う人がいる。だから、義なる神は時として人間に恐ろしい罰を下すのだ、と。……本当に、そうなのでしょうか?


「私はそうは思いません。神とは例えば幼子を見つめる母の様に慈しみ深いお方なのだと、私は思っています。そして、それは天ではなく私の内に存在しているんです。おじ様、私は産毛に包まれた矮小な鳥でしかありません。私は義なる神の目に適う様な人間ではないんです。矮小な私にできる事はいつでも小さな事です。小さな花のような親切、眼差し、言葉……小さな事を大きな愛を持って捧げたいと、そう思っているんです」


『私達に出来る事はいつだって小さな事だ。小さな事を、大きな愛を持って行う事しか私達には出来ない』


私は、私の良心にー……私の中にある神の愛に殉じたいと、そう思っている。姉がそうであったように。ロトがそうであるように。


「人はそれを独善と呼ぶでしょう。ですが、善とはそもそもそういうものではないでしょうか?人それぞれに正義があるように、善も人それぞれなんです。……大丈夫ですわ、おじ様。私には私が道を間違えそうになった時に引き留めてくれる方々もいますから。……この修道院です。この愛すべき場所を守る為なら、私はどんな苦難も甘んじて受けますわ」


時代は流れる。水の流れの様に。特に今は瀬の時代。漂うのではなく大きく流転し変化する時。

だから、私は守りたい。変わらず私の内にいてくれる神を、変わらず私の支えになってくれているこの場所を。


「そう思う事はおかしなことですか?ヴィクターおじ様?」


≪テレーズ・リジュー≫
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