第3節 温泉

ですから、全ての他人を裁く者よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人を裁いていますが、それは結局自分自身を罪に定めているのです。あなたも人を裁いて同じ事をしているからです。

そのような事を行う者に対して神の正しい裁きがある事を私達は承知しています。そのような事を行う者を裁きながら、自分も同じ事をしている者よ、あなたは神の裁きを逃れられると思っているのですか。それとも、神の豊かな慈悲、寛大、忍耐をないがしろにしているのですか。

神の慈しみはあなたを悔い改めに導く為のものである事を知らないのですか。あなたは頑なで心を改めようとせず、神の正しい裁きの現われる「怒りの日」の為に、神の怒りを蓄えているのです。

神は各々の行いに応じて報いをお与えになります。耐え忍んで善い業を行い、栄光と誉れと不滅とを求める者には永遠の命を与え、自己本位で審理に従わず、不義に従う者には怒りと憤りを注がれます。

全て悪に徹する者には、ユダヤ人をはじめとしてギリシア人にも苦難と難儀があり、全て全を行う者にはユダヤ人をはじめとしてギリシア人にも栄光と誉れと平和があります。

神は人を分け隔てなさいません。


【ローマの人々への手紙 第2章】






乾いた風が無数の黄色や赤に色付いた枯れ葉を舞わせながら傍らをすり抜け、人通りのまだらになった街を渡って行く。木枯らしに乗ってふわふわとした雪虫が眼前を過ぎて行った。

晩秋の風に冬の香りが混じる。ぶるり、と体を震わせて熱を体の中から生み出して、また風に乗って運ばれる雪虫を視線で追い掛けた。自分はこの風に当たるのが好きだった。暮れ霞む、闇の包まれつつある城下を見下ろして足をゆっくり前後へばたつかせ、尻尾を揺らして何をするでもなく眺めるのが好きだった。

雪虫が舞い始めるこの季節が好きだ。だってもうすぐ冬になる。ニクスとオレの好きな季節がもうすぐやって来る。

白雪……捨て子だったオレにその名前をくれたのはニクスだったらしい。どこか遠い、遠い異国の言葉で白い雪と書くらしい。ニクスと同じ雪という意味を持つ自分の名前がオレは大好きだった。だって、オレはニクスの事が好きだから。ニクスとオレは血は繋がっていないけど名前は繋がってる……そう考えるとたまらなく嬉しいんだ。

釣瓶を落とすように日が沈んでいく。世界が斑な色に染まって夜が来る。今夜こそ雪が降るだろうか?


「そろそろ屋敷に戻らないと……ニクスに怒られる」


腰掛けていた縁石から反動をつけてヒョイ、と飛び降りて天に向かって大きく腕を伸ばし固まった筋肉をほぐせば、ジワリと体の芯からあたたかくなる。……ニクス、俺の帰りが遅いと怒るし……この前はイカを残して怒られたけど。


「ん……?」


気のせいだろうか?冬の匂いに混じって嫌な匂いがする。どこから……今、オレの目の前を通って行った黒い男、からか……?

乾いた音を立てて石が転がる。刹那、振り返りオレを見つめた男の瞳が脳裏に焼き付いて離れなかった。

両の赤い目をギラギラと輝かせて。ハラリ、と一片、今年一番の六花の花弁が鼻の頭に落ちて、瞬間、溶けた。






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「……聞いているのか、白雪?」


「一応。つまりアンタの子息をオレは護衛すればいい……のか……?」


「まあ、合ってはいるが……疑問形ではなく言い切っていいところだぞ、そこは」


初夏の風が大きく開け放たれた窓から遠慮なく堂々と入り込む。白の、全く日に焼けていない美しいレースのカーテンが視界の外れで絡み結んで、ほどけて離れて行く。この風は少し苦手だ。今は気持ち良くてもすぐに暑さを連れて来る。


「……でもアンタも素直に言えばいいのに。傍系とは言え聖王の血に連なるからこそ息子と娘と別々に離して育ててるんだろ?血を絶やさないために。このままだと子供達からアンタは余計な怨みを買うだけだ」


「それをあの子達が知る時ではないという事だよ。まだ、な。……ニクスから聞いたのか?」


「うん。ニクスが言ってた。自分は傍流だけど血を引いてる、って。アンタの妹……なんだっけ?」


ふわり、と気怠い空気を飲み込み背を伸ばせば肺の中の空気が置換して綺麗な空気で満たされる。窓の向こう、部屋から見下ろせる中庭をニクスとよく似た茶色の癖がついた長い髪を持つ少女が走り抜けていく。あの子がヴィクトリア……?


「息子は……リチャードはそんな不出来な息子ではないよ。亡き妻によく似た優しい人間だ。ニクスともよく似ているが……。『他人を裁く者は他人を裁いているが、それは結局自分自身を罪に定めている。その時、人を裁いて同じ事をしているからだ』……ニクスが以前言っていた言葉だ。白雪。もう一度お前に言っておこう。ニクスはそれは望まない」


目蓋の裏側に像が映る。両の目をギラギラと輝かせて。恐怖と歓喜に震えた落日の様な、爛れた火の様な対の瞳があの日の俺を見つめていた。


「ニクスが望む望まないじゃない。オレがそれを望んでいる。あいつの首を」


「復讐は虚しさしか残さないぞ」


「だが自己満足はさせてくれる、違うか?」


明るい初夏の光が充ちる部屋の中、一人窓縁に立って見つめていた。見つめられていた。あの、赤い瞳の幻影を。






空はどこまでも蒼く、高く。風は芽吹き新緑の衣を纏い始めた草花を震わせて周りで輝く並みとなりそのまま遠くへと渡って行く。これから来る季節を思うと少々億劫だが、今この瞬間は嫌いじゃない。雪虫が舞い始める季節ほどではないが。


「ん……」


そんな時だった。綺麗に手入れが行き届いた庭園の一角の、ある意味目を引くその場所に目が留まったのは。


「これ……トマト、か?」


それはおそらく野菜の苗だった。太陽の精一杯を浴びてキラキラと……立ち枯れた、植物の苗。よく見るとこの一帯だけ枯れている植物が目立つような……?


「これは食べちゃ駄目ですよ~」


「……?これアンタが世話してるのか?」


「はい……!だから食べちゃ駄目ですよ~ネコさん。食べるならもう少し置いておいてください~」


「……ネコ?」


「ネコさんじゃないんですか?」


どこまでも蒼い空、落ちていきそうな昼の光の中で輝く雲のような、星のような色に染まったお下げが僅かにそよぐ風の中で揺れていた。泥で汚れた白い手の中に一つ、これから植えるのだろうか剥き出しの花の苗を抱えてこちらを見ている少女の首がコテリ、と横へ倒れる。オレの首もコテリ、と横へと倒れる。


「ネコ……ネコ科だから、ネコ……でいいような……」


「やっぱりネコさん……!でも、駄目ですよ~ここの草は猫草じゃありません~」


「猫草……猫草は嫌いじゃない。またたびの方が好きだけど。今からその花を植えるのか?」


『この花壇にその苗を植えるのか?……ニクス?猫草か?』


氷晶石の園で笑っていたニクスの声とどうしてだろう……全然似てないはずなのに一瞬だけ、ダブった……見た目も声も全然違うのに。

「ええ、そうですよ」と目の前の少女の唇が動くと同時にニクスの唇も動く。


「……なあ」


「どうかされました?」


「……オレも少し手伝っていいか?重いもの運ぶの、苦手じゃないし」


依頼は受けているが少しぐらいの暇はある。太陽の精一杯の輝きを受けて煌めく。草も、この子の髪も、記憶のニクスも。あの頃みたいに土をいじりたいと思ったのは、この館で久方ぶりにニクスという名前を紡いだから、かもしれない。


≪白雪≫
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