第6章 日常


それから御子は弟子達に仰せになった。「あなた方が人の子の日を一日でも見たいと望む時が来る。しかし、あなた方はそれを見るとこがない」

「人々があなた方に『見なさい、あそこだ』とか『ここだ』と言うだろう。しかし、出て行ってはならない。また追い掛けてもならない。稲妻が閃いて、大空の隅から隅まで照り輝くように、人の子の日にも同じ事が起きる」

「しかし、人の子はまず多くの苦しみを受け、今の時代から排斥されなければならない。ノアの時と同じような事が、人の子の時にも起こる。ノアが方舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていた。しかし、洪水が襲ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった」

「ロトの時も同じような事が起こった。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりなどしていた。しかし、ロトがソドムから出て行ったその日に、天から人硫黄が降って来て一人残らず滅ぼしてしまった」

「人の子が現われる日も、これと同じようになる。その日、屋上にいる者は屋内に自分の持ち物があってもそれを取りに降りてはならない」

「同じように畑にいる者も後に戻ってはならない。ロトの妻の事を思い出しなさい。自分の命を救おうとする者はそれを失い、自分の命を失うものはそれを保つ」

「あなた方に言っておく。その夜、二人の男が同じ寝床に寝ていると一人は連れていかれ一人は残される。二人の女が一緒に臼を挽いていると一人は連れて行かれ一人は残される」

すると弟子達が「主よ、それはどこですか」と尋ねたので、御子は仰せになった。

「死体のある場所には禿鷹が集まるものである」


【ルカによる福音書 第17章】






深い青が徐々に移ろい白み始め、青に薄紫が、そして茜が溶け出す。陰り始めた昼と夕の狭間の空を見るともなしに見上げ息を漏らした。弓を持ち張られた二弦を震わせて音を生む。揺らぎたゆたう旋律が狭間の空へ吸い込まれて消えて行く。


「……ご、主人、さま……?」


「ああ……起こしちゃったかい?」


今まで肩にあった重みが瞬間消えて、どこか舌足らずな声が僕を呼んだ。すぐに肩に戻った心地良い重みと目を閉じる彼女を横目で見つめて笑みを溢す。

巻き上げ張った弦が震える。そう言えば、昔から肩に重みを感じながら二胡を弾く事が多かったな、と想いながら弓を左右へと動かした。


『リチャード、リチャードお兄様』


けして遠くない記憶の回廊の向こうでヴィクトリアが僕の名前を呼んでいた。僕と同じ髪色が、思い出が記憶の水面を滑り漂う。


「すみません……従者なのに寝てしまいました~……」


「謝らないで。君に謝られちゃうと僕は何も言えなくなってしまうし……それに好きだから」


「……好き、そうですね。ご主人様はその楽器を弾くのがお好きですもんね~」


昼の陽光に暖められた深い緑の柔らかい髪の毛がさらりと動いて僕の首筋を擽る。彼女の横顔からどこまでも真っ逆さまに落ちていきそうな空へと視線を戻した。

「好きの意味がちょっと違うけれどね」と、曖昧な笑みと言葉を唇で紡いで、弓で二胡の音を紡ぐ。音が混ざり、大気が震える。


「そのままでいいから僕の長い独り言を聞いていてほしいんだ」


「……ご主人様?」


二胡で音を紡ぐ事を止め、変わりに唇で言葉を紡ぐ。弓を柔らかな草の上に置いて隣にいる彼女の小さな手に自分の手を重ねた。


「僕はねこんな体になって疎まれて追い出されたけれどそれを怨んだ事は一度もないんだ。当然だと納得させて生きて来たからね。地位も身分も自分には分不相応で過ぎたものだと。……でも違った。今はこう思うんだ。それは逃げでしかないんじゃないか、って。……そう、僕は逃げて来た。そうするのが楽だったんだ」


『冷酷さと憐れみ深さ。畏れられるのと愛されるのと、さてどちらが善いか』


父は憐れみ深い人間かと言われるとけしてそうではない。だから、僕に未来がないと分かった時、父は僕に絶望し、僕を拒絶し、僕を疎んじ追放した。


「憐れみ深いと評される方が領主にとって望ましいけれど、でも恩情にしても下手な掛け方をしないように心掛けなければならない。領主は自分の領民を結束させ、忠誠を誓わせる為には冷酷だという悪評を気に掛け過ぎるべきじゃないんだ。だって、憐れみ深いばかりに混乱を招いて殺戮や略奪を許してしまう領主よりは、秩序の為に冷酷な領主の方が結果的には憐れみ深い人間になるからね」


分かっている。諦めではなく理解しているんだ。父の立場は微妙で家をー……いいや、領民を守る為には強い領主でいなければならない。僕はー……弱い跡取りでは領地に混乱を招くだけだ。だから、父に家を出て行けと言われた時、納得して僕は家を出た。


「でも違った。僕は父と衝突する事を避けていたんだね。父は強い人だから僕は逃げたんだ。物分かりのいい子供でいるのは……楽だったんだ。でも、それも……おしまい」


弱い子供の自分ではなく成す事が出来る自分に。逃げ出し、小賢げに評する自分ではなく流れに逆らい進める自分に。

僕は歩く事もままならない。それどころか立つ事がやっとだけれど……それでも抗ってみたい。足掻いてみたいんだ。


「そう思えたのはアルと、君のおかげだよ」


「ご、ご主人さま……?」


「迎えに来る。必ず。父上と話を付けて爵位を得て、必ず戻って来る。……だから待っていてほしい」


じわりと腕から伝わる自分のものとは違う体温を抱いて言葉を紡いだ。

力があればすべて上手くいく。……そんな簡単な事じゃないのは百も承知だ。共産主義が台頭し始めた世の中だ。手に入れたとしてもその爵位がただの紙切れになる可能性だってある。それでも……それでも僕は流されるだけの葦の穂でいたくない。


「僕は帰って来る。君を迎えに。君は僕にとって唯一の人だから。唯一無二の人だから。君を守れる大人になって迎えに来る。……愛してる」


自分の指に嵌まった指輪が夕凪の光の中で淡く輝いていた。黒獅子と白薔薇が絡んだ、家紋が刻まれた指輪が。

子供時代にお別れを。思考の時は終わった。今は行動の時だから。


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