第6章 日常
目は体の灯火である。もしあなたの目が澄んでいれば、全身は明るい。しかし、目が悪ければ、全身が暗い。もし、あなたのうちにある光が闇であれば、その暗さはどれほど深い事か。
誰も二人の主人を兼ね仕える事は出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、または一方を親しみ、他方を疎んじるかである。あなた方は神と富に仕える事は出来ない。
それ故、あなた方に言っておく。命の為に何を食べ、何を飲もうか、また体の為に何を着ようかと思い煩ってはならない。命は食べ物に勝り、体は着る物に勝っているではないか。
空の鳥を見なさい。種蒔きも刈り入れもせず、また倉に納める事もしない。それなのに、あなた方の天の父はこれを養って下さる。あなた方は鳥よりも遥かに優れているではないか。
あなた方の誰かが思い煩ったからといって、一刻でも寿命を延ばす事が出来るだろうか。何故、着る物の事で思い煩うのか。野の百合がどのように育つのか考えてみなさい。ほねおりも紡ぎもしない。
あなた方に言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉の中に投げられる野の草でさえ、神はこの様に装って下さる。まして、あなた方に対しては尚更の事ではないか。
だから、明日の事を思い煩ってはならない。明日の事は明日が思い煩う。その日の苦労はその日だけで十分である。
【マタイによる福音書 第6章】
「あの二人は……」
「まだ目覚めません。ここに運ばれてきた当初と比較すればだいぶ傷も癒えてきましたが……特に彼の方は傷が深くて……肉体的にも精神的にも」
徐々に白み赤く色付き始めた弱い光がするりと窓から入り込み光の梯子を窓縁から部屋の中心に向かい伸ばしている。見るともなく変わりゆく空へと向けていた視線を扉が閉まる音がすると同時に部屋の中へと戻した。
「あの……セデル……外は……」
「現状は変わらず、といったところか。赤軍から大規模な追討がかけられている形跡がないのが不気味と言えば不気味だが」
「やはりそれだけ中央の掌握に時間が掛かっているという事でしょうか……赤軍に反感を持つ者も多いでしょうし……」
「あるいは秘密裏に裏で何かを進めているか……赤軍を率いているあの男……フリードリヒはそういう男だ」
顎に指を当て思考を回す。独り言の様に浮かんだ憶測を呟き、口を噤んだ。彼女……ノルンが自分に向けている表情に気が付いたからだ。
白い両の手を身体の前で組み不安で瞳を曇らせている彼女にどう言葉を掛ければいいのか、どんな言葉が正解か……それが分からず口に出すその前に、言葉が死んでいく。沈黙の音が煩かった。
「すまない」
長い間轍に蟠った沈黙を動かしたのは、自分が発した当たり障りのないつまらない言葉だった。
「君から貰った転移の魔法石に救われただけではなくこうして傷が癒えるまで匿って貰ってしまった。私達を匿っていると知られたら君もただでは済まないだろうに……感謝している」
あの時、地下墓地から私達三人が脱出できたのは、彼女が以前お守りと称して私に渡してくれたあの魔法石があったからだ。上級魔法である転移の法を閉じ込めた石が私達を地下の穴倉からここまで一気に飛ばしてくれた。石は割れてしまったが……あれがなければ私達は今頃この世にはいなかっただろう。
「セデル……今ならまだ間に合います。アルさんと一緒にこの国から船で逃げて……」
「それは出来ない。アルフォートも同じ事を言うだろう。私も彼も責任を果たしていないからだ」
「……せき、にん?」
「ああ、この国に生まれた者としての責任だ。この国の民として生まれた以上、私は祖国を捨てる事は出来ない」
目蓋を閉じ首を横へと振り、彼女の言葉をすぐさま否定した。確かに難民となって他国へ逃げる事は混乱が色濃く残っている今のうちなら容易い。が、それをして何になる。
難民とは祖国を支える事すら放棄した者達の総称だ。責任を放棄した者達の成れの果てだ。
「それに、私達が立ち止まる事を”彼”らは許さない」
「彼ら……?」
「虐殺の犠牲になった者達だ」
奴が、フリードリヒが革命の礎となった者達の為に止まらないように、私達も止まるわけにはいかない。”理想”の為の詰み石とされた者達の為に。彼の虐殺の真実を知るものとして。
……あれは悪だ。この世の悪が具現化したものだった。少なくとも自分はそう考えている。真実を知った時、私の理想はあそこにはないと悟った。止まるわけにはいかないのだ。自分の矜持にかけて。
「……ノルン、さん、でしたよね。……すみません、彼から話は聞きました」
「あら、アルさん……で、いいんですよね?もう起き上がって大丈夫ですか?」
「……すみません」
扉が僅かに開く。いつの間にか落ちた日に変わりノルンが作ったランプの柔らかな灯火が影を伸び縮みさせていた。
++++++++++++++++++++
「セデル、良かったのか?ノルンさんに何も言わずに出て来て……」
「巻き込みたくない。いや、既に巻き込んでしまったが……これ以上彼女を危険に晒したくはないんでな。……彼女だけは」
咽返る様な白い朝靄が眼前を染め上げる。海から立ち上る靄が街外れの通りを静寂と共に包んでいた。目深に被った外套を更に下げてかわたれに沈む世界を彼と二人歩いていく。街が途切れ、どこまでも続く平野が広がっていた。
「君も置いて来ただろう、彼女の事を。……それと同じ理由だ」
「別に俺はあいつが大切ってわけじゃ……ただ巻き込むのは筋違いだろう?……セデル、これからどこへ……確かあんた、アテがあるって言ってたよな?」
「……とある修道院だ。一応旧教の修道院という事になっているが、本質は中庸だ。それにあの近辺は自治領になっている。赤軍の手もまだそこまでは及んでいない……ッ!!!!」
「どうしたんだ、セデル……ッ!!?」
朝靄が千切れ、逸れて行く。霞み揺らぐ視界の向こう、分隊を率い私達を待ち構えるように立つ見覚えのある男の姿に、瞬間息を飲みそれと同時に背を汗が伝い落ちて行く。
「セデル。そして、後ろの君が虐殺者アルフォートだね。」
夜露で濡れた平原に男が纏う外套が翻り、棚引いていた。銀の鎧が、男が手にした槍が朝焼けを浴びて燃える様に煌めく。
「王宮騎士団……ッ!!」
「ピエール、か。お前が出てくるとはな。……そこを通せ、と言ったところで無駄だな」
疑問形ではなく言い切る様に言葉を紡いだ。この男の事だ、やすやす見逃すような事はしないだろう。
「ああ、君達二人は国家転覆を目論む大罪人。そして私は秩序を司る王宮の騎士だ。国を乱す者達をむざむざ放っておくことはできない」
……らしいな、実に。
昔馴染の友の変わらない声に刹那自分から零れ落ちたのは罵りの言葉ではなく小さな笑みだった。鋼の剣が鞘を滑る音が僅かに鼓膜を揺らした。
「そうかならば……押し通るッ!!!アルフォート、駆け抜けるぞ!!!!死にたくなければ切り抜けてみろッ!!」
私もそして後ろにいる彼もまだ道の途中だ。悪いがそこをどいてもらうぞ、ピエール。
≪セデル・ライト≫
誰も二人の主人を兼ね仕える事は出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、または一方を親しみ、他方を疎んじるかである。あなた方は神と富に仕える事は出来ない。
それ故、あなた方に言っておく。命の為に何を食べ、何を飲もうか、また体の為に何を着ようかと思い煩ってはならない。命は食べ物に勝り、体は着る物に勝っているではないか。
空の鳥を見なさい。種蒔きも刈り入れもせず、また倉に納める事もしない。それなのに、あなた方の天の父はこれを養って下さる。あなた方は鳥よりも遥かに優れているではないか。
あなた方の誰かが思い煩ったからといって、一刻でも寿命を延ばす事が出来るだろうか。何故、着る物の事で思い煩うのか。野の百合がどのように育つのか考えてみなさい。ほねおりも紡ぎもしない。
あなた方に言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉の中に投げられる野の草でさえ、神はこの様に装って下さる。まして、あなた方に対しては尚更の事ではないか。
だから、明日の事を思い煩ってはならない。明日の事は明日が思い煩う。その日の苦労はその日だけで十分である。
【マタイによる福音書 第6章】
「あの二人は……」
「まだ目覚めません。ここに運ばれてきた当初と比較すればだいぶ傷も癒えてきましたが……特に彼の方は傷が深くて……肉体的にも精神的にも」
徐々に白み赤く色付き始めた弱い光がするりと窓から入り込み光の梯子を窓縁から部屋の中心に向かい伸ばしている。見るともなく変わりゆく空へと向けていた視線を扉が閉まる音がすると同時に部屋の中へと戻した。
「あの……セデル……外は……」
「現状は変わらず、といったところか。赤軍から大規模な追討がかけられている形跡がないのが不気味と言えば不気味だが」
「やはりそれだけ中央の掌握に時間が掛かっているという事でしょうか……赤軍に反感を持つ者も多いでしょうし……」
「あるいは秘密裏に裏で何かを進めているか……赤軍を率いているあの男……フリードリヒはそういう男だ」
顎に指を当て思考を回す。独り言の様に浮かんだ憶測を呟き、口を噤んだ。彼女……ノルンが自分に向けている表情に気が付いたからだ。
白い両の手を身体の前で組み不安で瞳を曇らせている彼女にどう言葉を掛ければいいのか、どんな言葉が正解か……それが分からず口に出すその前に、言葉が死んでいく。沈黙の音が煩かった。
「すまない」
長い間轍に蟠った沈黙を動かしたのは、自分が発した当たり障りのないつまらない言葉だった。
「君から貰った転移の魔法石に救われただけではなくこうして傷が癒えるまで匿って貰ってしまった。私達を匿っていると知られたら君もただでは済まないだろうに……感謝している」
あの時、地下墓地から私達三人が脱出できたのは、彼女が以前お守りと称して私に渡してくれたあの魔法石があったからだ。上級魔法である転移の法を閉じ込めた石が私達を地下の穴倉からここまで一気に飛ばしてくれた。石は割れてしまったが……あれがなければ私達は今頃この世にはいなかっただろう。
「セデル……今ならまだ間に合います。アルさんと一緒にこの国から船で逃げて……」
「それは出来ない。アルフォートも同じ事を言うだろう。私も彼も責任を果たしていないからだ」
「……せき、にん?」
「ああ、この国に生まれた者としての責任だ。この国の民として生まれた以上、私は祖国を捨てる事は出来ない」
目蓋を閉じ首を横へと振り、彼女の言葉をすぐさま否定した。確かに難民となって他国へ逃げる事は混乱が色濃く残っている今のうちなら容易い。が、それをして何になる。
難民とは祖国を支える事すら放棄した者達の総称だ。責任を放棄した者達の成れの果てだ。
「それに、私達が立ち止まる事を”彼”らは許さない」
「彼ら……?」
「虐殺の犠牲になった者達だ」
奴が、フリードリヒが革命の礎となった者達の為に止まらないように、私達も止まるわけにはいかない。”理想”の為の詰み石とされた者達の為に。彼の虐殺の真実を知るものとして。
……あれは悪だ。この世の悪が具現化したものだった。少なくとも自分はそう考えている。真実を知った時、私の理想はあそこにはないと悟った。止まるわけにはいかないのだ。自分の矜持にかけて。
「……ノルン、さん、でしたよね。……すみません、彼から話は聞きました」
「あら、アルさん……で、いいんですよね?もう起き上がって大丈夫ですか?」
「……すみません」
扉が僅かに開く。いつの間にか落ちた日に変わりノルンが作ったランプの柔らかな灯火が影を伸び縮みさせていた。
++++++++++++++++++++
「セデル、良かったのか?ノルンさんに何も言わずに出て来て……」
「巻き込みたくない。いや、既に巻き込んでしまったが……これ以上彼女を危険に晒したくはないんでな。……彼女だけは」
咽返る様な白い朝靄が眼前を染め上げる。海から立ち上る靄が街外れの通りを静寂と共に包んでいた。目深に被った外套を更に下げてかわたれに沈む世界を彼と二人歩いていく。街が途切れ、どこまでも続く平野が広がっていた。
「君も置いて来ただろう、彼女の事を。……それと同じ理由だ」
「別に俺はあいつが大切ってわけじゃ……ただ巻き込むのは筋違いだろう?……セデル、これからどこへ……確かあんた、アテがあるって言ってたよな?」
「……とある修道院だ。一応旧教の修道院という事になっているが、本質は中庸だ。それにあの近辺は自治領になっている。赤軍の手もまだそこまでは及んでいない……ッ!!!!」
「どうしたんだ、セデル……ッ!!?」
朝靄が千切れ、逸れて行く。霞み揺らぐ視界の向こう、分隊を率い私達を待ち構えるように立つ見覚えのある男の姿に、瞬間息を飲みそれと同時に背を汗が伝い落ちて行く。
「セデル。そして、後ろの君が虐殺者アルフォートだね。」
夜露で濡れた平原に男が纏う外套が翻り、棚引いていた。銀の鎧が、男が手にした槍が朝焼けを浴びて燃える様に煌めく。
「王宮騎士団……ッ!!」
「ピエール、か。お前が出てくるとはな。……そこを通せ、と言ったところで無駄だな」
疑問形ではなく言い切る様に言葉を紡いだ。この男の事だ、やすやす見逃すような事はしないだろう。
「ああ、君達二人は国家転覆を目論む大罪人。そして私は秩序を司る王宮の騎士だ。国を乱す者達をむざむざ放っておくことはできない」
……らしいな、実に。
昔馴染の友の変わらない声に刹那自分から零れ落ちたのは罵りの言葉ではなく小さな笑みだった。鋼の剣が鞘を滑る音が僅かに鼓膜を揺らした。
「そうかならば……押し通るッ!!!アルフォート、駆け抜けるぞ!!!!死にたくなければ切り抜けてみろッ!!」
私もそして後ろにいる彼もまだ道の途中だ。悪いがそこをどいてもらうぞ、ピエール。
≪セデル・ライト≫
