第6章 日常
あなた方も聞いている通り、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私はあなた方に言っておく。悪人に逆らってはならない。右の頬を打つ者には、他の頬も向けなさい。
また、あなたを訴えて下着を取り上げようとする者には上着をも取らせなさい。無理にでも一ミリオンを歩かせようとする者とは一緒に二ミリオン歩きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない。
あなた方も聞いている通り、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私はあなた方に言っておく。あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害するものの為に祈りなさい。それは天におられる父の子となる為である。
天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなた方に何の報いがあろうか。徴税人さえもそうしているではないか。自分の兄弟だけ挨拶したからといって、何か特別な事をした事になるだろうか。だから、天の父が完全であるようにあなた方も完全な者となりなさい。
人々の前で自分の善い行いを見せびらかさないように気を付けなさい。さもないと、天におられるあなた方の父の元で報いを受ける事は出来ない。
だから、施しをする時には、偽善者が人から賞賛されようとして会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。
あなた方によく言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた方が施しをする時には、右の手でする事を左の手に知らせてはならない。これはあなた方の施しを隠しておく為である。そうすれば、隠れた事をご覧になるあなたの父が報いてくだる。
【マタイによる福音書 第5章】
「……ノルン、さん、でしたよね。……すみません、彼から話は聞きました」
「あら、アルさん……で、いいんですよね?もう起き上がって大丈夫ですか?」
「……すみません」
闇に慣れた瞳を焼くような強い光ではない、仄かな揺らぐランプの灯火が扉を潜り抜けた俺を迎え入れた。闇に寄り添う柔らかな優しい光の中で俺の名を口にした女性を瞬間見つめ、深く頭を垂らした。「すみません」という何度目になるか分からない謝罪の言葉と共に。
「その言葉ならもう何回も聞きましたから。アルさんったら怪我で魘されている間でさえ何回も謝罪の言葉を繰り返していらっしゃいましたから。お加減はどうですか?まだ痛みますか?」
「……大丈夫……いえ、まだ少し痛みますが動けないというわけではないですから。ノルンさんがやって下さったんですよね、俺達の手当て」
「あの日は流石に肝が冷えました。彼……セデルが傷だらけのあなた達二人を背負って来たんですもの」
パタリ、と手元の分厚い本を閉じ困った様な笑みを浮かべる彼女に、俺は顔を伏せた。いたたまれない気持ちが、申し訳なさが次から次へと泡のように湧き出して、いつまでも弾けて消えずに蟠り留まっていた。
「あの……あいつ……彼女は、起きましたか?」
「あいつ……ああ、金髪の彼女ですね。まだ目覚めないようですが、心配しないで下さい。怪我の程度はあなた達と比べて軽いものでした。疲れているのでしょう。体力的にも精神的にも。……でも、ふふっ……」
「……どうかされましたか、ノルンさん?」
夜の帳が不意に震えた。ノルンさんの口から零れ落ちた鈴が鳴る様な静かで涼やかな笑い声が夜に吸い込まれ、霧散していく。
「ふふっ……アルさんったら彼女を大事そうに抱えて離さないんですもの。気を失ってる間もずっと守る様に抱えてらっしゃったから……大切なんですね、彼女の事が」
「そういうわけじゃ……あいつと会ったのはあの時が二度目です。一張羅のジャケット取られたし。それにー……」
『痴れ者!!この薄汚い手を離せ……!』
『悪い事は言わないからこれ被ってじっとしてな。あんたのその恰好ここじゃ目立つんだよ』
強い光を宿した金の髪が薄暗いスラムの一角で煌めいていた。陽光のような髪の下で覚めるような青い瞳が俺を真っ直ぐ捕らえ、睨みつけていた。
『……お前は、何なんだ?お前も私のことを快くは思っていないのだろう?』
『それは、お前にも言えたことじゃないのか?』
『私はお前達を別の次元の輩だと思っていた。実在していたのだな』
「……俺、あいつの名前すら知らないんです。本当に、何も知らない。……ははっ……まいったな。本当に何も知らねーんだ、俺。何も」
ひび割れた唇から微かな笑みと共に紡がれた言葉は、自分でも驚くほど渇いていた。
俺は知らない。知ろうともしなかった。あの人……フリードリヒさんの思想に共鳴していればただそれで良かったから。楽だったんだ。それは思考を停止していただけに過ぎないという事に今更気付いて打ちのめされて……
『だが!?何寝惚けた事言ってやがる!!何かを成す為には対価が必要だ!!それが大きければ大きいほど!!たった今、お前は目を背けた!!お前は現実が見えていない、ただ駄々をこねて逃げ回っている餓鬼と一緒なんだよッ!!!!』
「これじゃ、ルフィールが言ったようにただの駄々をこねて逃げてる餓鬼だ……」
「ならば、ここで歩みを止めるか?虐殺者の汚名を被り罪を背負い断頭台に上るか?」
「セデルさん、そんな言い方……」
「事実だ。私も彼も赤軍からすれば裏切り者。先のゴイムの虐殺の首謀者という事になっているからな。真実を知る私達はフリードリヒからすれば目障りな存在でしかない。そう……私達は罪人だ。特にアルフォート、君はルフィールと共にフリードリヒの将として奴のそばで戦果を重ねていた。人望もある。潰す以外の選択肢は奴の中に存在しないだろう」
「そんな……あなた達は何も悪い事はしていないのに……それなのに罪人だなんて……」
影が伸びて、縮む。今まで硬く口を閉ざし深く椅子に腰かけ俺達の話を聞いていた彼ー……セデルさんの鋭い瞳に見据えられ、言葉を紡がれ、強くした唇を噛んだ。
「ああ、そうだ。私達は悪だ。戦争とはそういうものだ。勝者は善であり敗者は悪。皆が戦犯であり、同時に犠牲者だからだ」
「……負けて逃げ出した俺は悪って事か」
「ああ。だからもう十分だ。反省も後悔も。自分達が正義となる為には勝つしかない。あの強大な力に、な。私はそう考えているが、君はー……」
握り締めた拳に爪が食い込む。ポタリ、と一滴、流れ落ちた赤い血が板張りの床に染み込んでいった。
正義……自分が善になる為に勝つしかないというのなら、偽りを正す為に戦わなけらばならないというのであれば。
「いい目だ。覚悟は決まったようだな」
「はい。ですが、まずこの状況を打開しないと……」
「ああ、だから出掛けるんだ。今、王都では新教の一部の過激派組織が旧教徒や騎士団に対してテロ活動を行っている。治安維持の為に赤軍は兵を割かねばならないし、それに北方のファシスト勢力の動きも活発化してきていると聞く。世情が安定していない今が好機だ。王都の包囲網を脱出するな。今なら掻い潜れる」
「その後は……」
「古くからの知人がいる。あの男なら力になってくれるはずだ」
「分かりました。いつまでもこうしてここで隠れているわけにもいきません。明朝出立しましょう」
俺は何も知らない。誰一人救う事が出来なかった敗者だ。悪だ。……もうそんなの沢山だ。
流されるままの自分でいたくない。だから、進む。戦いを終らせるためにも。
≪アルフォート≫
また、あなたを訴えて下着を取り上げようとする者には上着をも取らせなさい。無理にでも一ミリオンを歩かせようとする者とは一緒に二ミリオン歩きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない。
あなた方も聞いている通り、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私はあなた方に言っておく。あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害するものの為に祈りなさい。それは天におられる父の子となる為である。
天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなた方に何の報いがあろうか。徴税人さえもそうしているではないか。自分の兄弟だけ挨拶したからといって、何か特別な事をした事になるだろうか。だから、天の父が完全であるようにあなた方も完全な者となりなさい。
人々の前で自分の善い行いを見せびらかさないように気を付けなさい。さもないと、天におられるあなた方の父の元で報いを受ける事は出来ない。
だから、施しをする時には、偽善者が人から賞賛されようとして会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。
あなた方によく言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた方が施しをする時には、右の手でする事を左の手に知らせてはならない。これはあなた方の施しを隠しておく為である。そうすれば、隠れた事をご覧になるあなたの父が報いてくだる。
【マタイによる福音書 第5章】
「……ノルン、さん、でしたよね。……すみません、彼から話は聞きました」
「あら、アルさん……で、いいんですよね?もう起き上がって大丈夫ですか?」
「……すみません」
闇に慣れた瞳を焼くような強い光ではない、仄かな揺らぐランプの灯火が扉を潜り抜けた俺を迎え入れた。闇に寄り添う柔らかな優しい光の中で俺の名を口にした女性を瞬間見つめ、深く頭を垂らした。「すみません」という何度目になるか分からない謝罪の言葉と共に。
「その言葉ならもう何回も聞きましたから。アルさんったら怪我で魘されている間でさえ何回も謝罪の言葉を繰り返していらっしゃいましたから。お加減はどうですか?まだ痛みますか?」
「……大丈夫……いえ、まだ少し痛みますが動けないというわけではないですから。ノルンさんがやって下さったんですよね、俺達の手当て」
「あの日は流石に肝が冷えました。彼……セデルが傷だらけのあなた達二人を背負って来たんですもの」
パタリ、と手元の分厚い本を閉じ困った様な笑みを浮かべる彼女に、俺は顔を伏せた。いたたまれない気持ちが、申し訳なさが次から次へと泡のように湧き出して、いつまでも弾けて消えずに蟠り留まっていた。
「あの……あいつ……彼女は、起きましたか?」
「あいつ……ああ、金髪の彼女ですね。まだ目覚めないようですが、心配しないで下さい。怪我の程度はあなた達と比べて軽いものでした。疲れているのでしょう。体力的にも精神的にも。……でも、ふふっ……」
「……どうかされましたか、ノルンさん?」
夜の帳が不意に震えた。ノルンさんの口から零れ落ちた鈴が鳴る様な静かで涼やかな笑い声が夜に吸い込まれ、霧散していく。
「ふふっ……アルさんったら彼女を大事そうに抱えて離さないんですもの。気を失ってる間もずっと守る様に抱えてらっしゃったから……大切なんですね、彼女の事が」
「そういうわけじゃ……あいつと会ったのはあの時が二度目です。一張羅のジャケット取られたし。それにー……」
『痴れ者!!この薄汚い手を離せ……!』
『悪い事は言わないからこれ被ってじっとしてな。あんたのその恰好ここじゃ目立つんだよ』
強い光を宿した金の髪が薄暗いスラムの一角で煌めいていた。陽光のような髪の下で覚めるような青い瞳が俺を真っ直ぐ捕らえ、睨みつけていた。
『……お前は、何なんだ?お前も私のことを快くは思っていないのだろう?』
『それは、お前にも言えたことじゃないのか?』
『私はお前達を別の次元の輩だと思っていた。実在していたのだな』
「……俺、あいつの名前すら知らないんです。本当に、何も知らない。……ははっ……まいったな。本当に何も知らねーんだ、俺。何も」
ひび割れた唇から微かな笑みと共に紡がれた言葉は、自分でも驚くほど渇いていた。
俺は知らない。知ろうともしなかった。あの人……フリードリヒさんの思想に共鳴していればただそれで良かったから。楽だったんだ。それは思考を停止していただけに過ぎないという事に今更気付いて打ちのめされて……
『だが!?何寝惚けた事言ってやがる!!何かを成す為には対価が必要だ!!それが大きければ大きいほど!!たった今、お前は目を背けた!!お前は現実が見えていない、ただ駄々をこねて逃げ回っている餓鬼と一緒なんだよッ!!!!』
「これじゃ、ルフィールが言ったようにただの駄々をこねて逃げてる餓鬼だ……」
「ならば、ここで歩みを止めるか?虐殺者の汚名を被り罪を背負い断頭台に上るか?」
「セデルさん、そんな言い方……」
「事実だ。私も彼も赤軍からすれば裏切り者。先のゴイムの虐殺の首謀者という事になっているからな。真実を知る私達はフリードリヒからすれば目障りな存在でしかない。そう……私達は罪人だ。特にアルフォート、君はルフィールと共にフリードリヒの将として奴のそばで戦果を重ねていた。人望もある。潰す以外の選択肢は奴の中に存在しないだろう」
「そんな……あなた達は何も悪い事はしていないのに……それなのに罪人だなんて……」
影が伸びて、縮む。今まで硬く口を閉ざし深く椅子に腰かけ俺達の話を聞いていた彼ー……セデルさんの鋭い瞳に見据えられ、言葉を紡がれ、強くした唇を噛んだ。
「ああ、そうだ。私達は悪だ。戦争とはそういうものだ。勝者は善であり敗者は悪。皆が戦犯であり、同時に犠牲者だからだ」
「……負けて逃げ出した俺は悪って事か」
「ああ。だからもう十分だ。反省も後悔も。自分達が正義となる為には勝つしかない。あの強大な力に、な。私はそう考えているが、君はー……」
握り締めた拳に爪が食い込む。ポタリ、と一滴、流れ落ちた赤い血が板張りの床に染み込んでいった。
正義……自分が善になる為に勝つしかないというのなら、偽りを正す為に戦わなけらばならないというのであれば。
「いい目だ。覚悟は決まったようだな」
「はい。ですが、まずこの状況を打開しないと……」
「ああ、だから出掛けるんだ。今、王都では新教の一部の過激派組織が旧教徒や騎士団に対してテロ活動を行っている。治安維持の為に赤軍は兵を割かねばならないし、それに北方のファシスト勢力の動きも活発化してきていると聞く。世情が安定していない今が好機だ。王都の包囲網を脱出するな。今なら掻い潜れる」
「その後は……」
「古くからの知人がいる。あの男なら力になってくれるはずだ」
「分かりました。いつまでもこうしてここで隠れているわけにもいきません。明朝出立しましょう」
俺は何も知らない。誰一人救う事が出来なかった敗者だ。悪だ。……もうそんなの沢山だ。
流されるままの自分でいたくない。だから、進む。戦いを終らせるためにも。
≪アルフォート≫
