第6章 日常
兄弟愛についてことさらあなた方に書く必要はありません。あなた方自身、神に教えられて互いに愛し合っていますし、マケドニア全地方の全ての兄弟達に対してそれを実行しているのです。
しかし、兄弟の皆さん、その愛を益々完全なものとするように勧めます。そして、腰を落ち着けて自分の務めに専念し、あなた方に命じておいた通り、自分の手で働くように心掛けなさい。
そうしてこそ初めて、外部の人々に対して品位を保つ事が出来、また人の世話にならずに暮らしていけるのです。
兄弟の皆さん、眠りに就いた人々について、無知であってほしくはありません。
それは、あなた方が希望を持たない他の人々の様に嘆き悲しんだりしない為です。
御子が死んで復活された事を信じているのですから、神が眠りに就いた人々を、この御子の故に、御子と共に導き出して下さる事をも同じ様に信じましょう。
≪テサロニケの人々への第一の手紙 第4章≫
霧と闇の蠢く反吐を吐きたくなるような場所で、見るともなく上を見上げ息を溢す。変わらない血と錆に覆われた舞台に立つ自分に向けられた大小も色も二つとして同じものがない対の、無数の好機の瞳達。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。
今はこの職を継いだ直後と比べれば少し落ち着いているが、それでこの現実が消えるというわけではない。……つまりは、そういう事。
嫌だった。堪らなく嫌だった。自分の快楽の為に人を傷付け、犯し、殺す人間がいる事を自分は知っている。なのに、何故、自分でなければならないのだと叫びたかった。
人一人救うために全霊を賭け命をとして職務に当たっている人間がいる事を自分は知っている。だが、自分はどうだ?何故、自分はそうなれない?
叫びたかった。堪らなく叫びたかった。喉が切れるくらい大声で叫び、壊れてしまいたかった。逃げ出したかった。何もかも全てかなぐり捨てて。家も、矜持も、何もかも、なにもかも……ッ!
『サンソン』
一片、光が差し込んだ。白くほっそりした細い指先が冷たい自分の頬に触れる。優しい日溜りの中にいるような心地良さがあった。白い光に照らされて、自分のすぐ近くで彼女の金色の髪が煌めき、揺れていた。
彼女は光……光だった。人は小さく頼りないと言うかもしれない。吹けば簡単に消えるだろうと笑うかもしれない。だが、俺にとっては唯一無二の灯火だったんだ。彼女が、彼女は礎だった。世界の。
その灯火の名は……その人の名前は……
「サンソン」
「……っう……セティ、お嬢様……?」
名を呼ぶ声に閉じた目蓋が震える。霞む視界の先で自分を見つめ指先で俺の頬に触れている少女の名を寝起きの擦れた声で紡いだ。
そうか……俺はこの日溜りの中で……
「……もしかしなくても、眠っていました、か。申し訳ありません。従者が主君の前で居眠りをするなんて」
「んーんー。いいの。セティもさっきまでお昼寝していて今起きたの。それに仕方ないよ。だって、ここは特別なお庭だもん。アメリアの秘密のお庭なの」
ふるり、と首を横に振り瞳で弧を描くと小さな女主人ははにかむ様な笑みを浮かべて俺に告げた。
「アメリア……」
「そう、アメリア。あのね、セティ、アメリアの事大好きよ。昔も今も。ずっとずっと大好きなの。アメリアはセティと同じ金色で、小さくて華奢だったけれど、いつもセティを守ってくれていたの。セティはそんなアメリアが大好きよ」
花が綻び、鳥は歌う。長い間満足な手入れがされていない庭はそれでもなお美しかった。
七色の輝きが香しい芳香がうつろい包む、忘れられた庭。
いつかまた来ると約束しておきながらとうとう果たせなかった。
「今日はお日様ぽかぽかでいいお天気だからきっとここも綺麗なんだろうなあって思ったの。だから、サンソンにも見せてあげたかったんだあ。あっ、でも、勝手にお庭を見せたってアメリアが知ったら、アメリアにセティ怒られちゃうかなあ……サンソン?」
小さな主人の瞳が伏せられる。俯いてしまった主人の柔らかで滑らかな頬に今度は俺が指先で触れていた。手袋越しにじわりと熱が伝わって来る。考えるその前に、体は動いていた。
「アメリアは……アメリアという人はそういう人なのですか?セティお嬢様を大した理由もなしに叱りつける人なのでしょうか?」
「ううん……!アメリアは優しいよ!だって、アメリアはお母様とは違うもん!すっごく優しい、お日様みたいな人……!」
がばり、と弾かれた様に顔を上げ真っ直ぐ俺を見つめると主人は捲し立てるように言葉を紡いだ。あの人とよく似た色をした瞳に、あの日と同じ様に自分の姿が映り込んでいた。磨き上げられた宝石のような大きな瞳に自分の像が映っていた。
『あなたはそういう人なの?理由もなく人を傷付ける様な人なのかしら?』
『……違う!俺は、俺はただの一度だって人を殺したいと思った事なんて……!』
『なら答えは出ているじゃない。あなたはそんな人じゃないわ。他の人がなんと言おうと後ろ指を指そうとも、あなたはもう知っているわ。……それに私も』
手が空を掴む。今、自分は何を掴もうとした。記憶の引出しから何を取り出し抱こうと思った?小さく喉が鳴り、息が、落ちた。
「……セティお嬢様。私はあなたに多くのものを与えたいと思っております」
「……どうしたの、サンソン?」
「あなたが望むなら全てを叶えて差し上げたい。私が知っている事、私が持っているもの全て、全てあなたに渡したいと、そう思っています。俺が……」
俺がいつかそうしてもらったように、今度は俺が返す番だ。釣り合いが取れない事など百も承知だ。だが、あなたは「では、せめて借りではなく恩だと思ってちょうだい」と言ったから……だから俺はその恩に報いたい。
あなたと同じ礎であるこの少女に。この子もまた俺の礎だから。
「サンソンは……」
「はい、ここにおりますよ。どうされましたか、セティお嬢様」
「サンソンは……いなくならない?アメリアみたいにセティを置いて一人でどこか遠いところに行かないよね?」
「……お嬢様が望む限り、あなたのお傍にいますよ。さあ、そろそろ帰りましょうか。昼はあたたかくなってきましたが、朝や晩はまだ冷え込みますので」
再び頬へ触れれば、瞬間、瞳を閉じて、くすぐったいと訴えながら小さく主人が身じろいだ。そんな主人の姿を瞳を細めながら見つめていたんだ。
太陽の精一杯の光を受けて麦の穂の様にきらきらと輝いて風に吹かれて揺れる金の糸が、指先に絡んで、縺れる。
まだこの子は知らない。だがいつかこの子は全てを知るだろう。その時、俺の世界は瓦解する。受け入れる覚悟はとうの昔に出来ている。甘んじて受けよう。だが……
今は、今は浸っていたい。たとえ全てが最後にはどこへともなく消え去ってしまうとしても。でも、それでも、こんな瞬間があってもいいだろう?
「サンソン、あのね、今日のお夕飯は……」
「安心して下さい、お嬢様。今日は春キャベツでロールキャベツを作る予定ですので」
「お野菜ヤダー!サンソンの意地悪~!」
「野菜も食べないと……アメリアにも笑われてしまいますよ?」
触れた指先はそのまま流れるように、優しく絡む。小さな手をはぐれない様にと取り、二人で並び歩いた。
あなたがいるこの場所こそが、俺の世界の、中心。
≪サンソン≫
しかし、兄弟の皆さん、その愛を益々完全なものとするように勧めます。そして、腰を落ち着けて自分の務めに専念し、あなた方に命じておいた通り、自分の手で働くように心掛けなさい。
そうしてこそ初めて、外部の人々に対して品位を保つ事が出来、また人の世話にならずに暮らしていけるのです。
兄弟の皆さん、眠りに就いた人々について、無知であってほしくはありません。
それは、あなた方が希望を持たない他の人々の様に嘆き悲しんだりしない為です。
御子が死んで復活された事を信じているのですから、神が眠りに就いた人々を、この御子の故に、御子と共に導き出して下さる事をも同じ様に信じましょう。
≪テサロニケの人々への第一の手紙 第4章≫
霧と闇の蠢く反吐を吐きたくなるような場所で、見るともなく上を見上げ息を溢す。変わらない血と錆に覆われた舞台に立つ自分に向けられた大小も色も二つとして同じものがない対の、無数の好機の瞳達。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。
今はこの職を継いだ直後と比べれば少し落ち着いているが、それでこの現実が消えるというわけではない。……つまりは、そういう事。
嫌だった。堪らなく嫌だった。自分の快楽の為に人を傷付け、犯し、殺す人間がいる事を自分は知っている。なのに、何故、自分でなければならないのだと叫びたかった。
人一人救うために全霊を賭け命をとして職務に当たっている人間がいる事を自分は知っている。だが、自分はどうだ?何故、自分はそうなれない?
叫びたかった。堪らなく叫びたかった。喉が切れるくらい大声で叫び、壊れてしまいたかった。逃げ出したかった。何もかも全てかなぐり捨てて。家も、矜持も、何もかも、なにもかも……ッ!
『サンソン』
一片、光が差し込んだ。白くほっそりした細い指先が冷たい自分の頬に触れる。優しい日溜りの中にいるような心地良さがあった。白い光に照らされて、自分のすぐ近くで彼女の金色の髪が煌めき、揺れていた。
彼女は光……光だった。人は小さく頼りないと言うかもしれない。吹けば簡単に消えるだろうと笑うかもしれない。だが、俺にとっては唯一無二の灯火だったんだ。彼女が、彼女は礎だった。世界の。
その灯火の名は……その人の名前は……
「サンソン」
「……っう……セティ、お嬢様……?」
名を呼ぶ声に閉じた目蓋が震える。霞む視界の先で自分を見つめ指先で俺の頬に触れている少女の名を寝起きの擦れた声で紡いだ。
そうか……俺はこの日溜りの中で……
「……もしかしなくても、眠っていました、か。申し訳ありません。従者が主君の前で居眠りをするなんて」
「んーんー。いいの。セティもさっきまでお昼寝していて今起きたの。それに仕方ないよ。だって、ここは特別なお庭だもん。アメリアの秘密のお庭なの」
ふるり、と首を横に振り瞳で弧を描くと小さな女主人ははにかむ様な笑みを浮かべて俺に告げた。
「アメリア……」
「そう、アメリア。あのね、セティ、アメリアの事大好きよ。昔も今も。ずっとずっと大好きなの。アメリアはセティと同じ金色で、小さくて華奢だったけれど、いつもセティを守ってくれていたの。セティはそんなアメリアが大好きよ」
花が綻び、鳥は歌う。長い間満足な手入れがされていない庭はそれでもなお美しかった。
七色の輝きが香しい芳香がうつろい包む、忘れられた庭。
いつかまた来ると約束しておきながらとうとう果たせなかった。
「今日はお日様ぽかぽかでいいお天気だからきっとここも綺麗なんだろうなあって思ったの。だから、サンソンにも見せてあげたかったんだあ。あっ、でも、勝手にお庭を見せたってアメリアが知ったら、アメリアにセティ怒られちゃうかなあ……サンソン?」
小さな主人の瞳が伏せられる。俯いてしまった主人の柔らかで滑らかな頬に今度は俺が指先で触れていた。手袋越しにじわりと熱が伝わって来る。考えるその前に、体は動いていた。
「アメリアは……アメリアという人はそういう人なのですか?セティお嬢様を大した理由もなしに叱りつける人なのでしょうか?」
「ううん……!アメリアは優しいよ!だって、アメリアはお母様とは違うもん!すっごく優しい、お日様みたいな人……!」
がばり、と弾かれた様に顔を上げ真っ直ぐ俺を見つめると主人は捲し立てるように言葉を紡いだ。あの人とよく似た色をした瞳に、あの日と同じ様に自分の姿が映り込んでいた。磨き上げられた宝石のような大きな瞳に自分の像が映っていた。
『あなたはそういう人なの?理由もなく人を傷付ける様な人なのかしら?』
『……違う!俺は、俺はただの一度だって人を殺したいと思った事なんて……!』
『なら答えは出ているじゃない。あなたはそんな人じゃないわ。他の人がなんと言おうと後ろ指を指そうとも、あなたはもう知っているわ。……それに私も』
手が空を掴む。今、自分は何を掴もうとした。記憶の引出しから何を取り出し抱こうと思った?小さく喉が鳴り、息が、落ちた。
「……セティお嬢様。私はあなたに多くのものを与えたいと思っております」
「……どうしたの、サンソン?」
「あなたが望むなら全てを叶えて差し上げたい。私が知っている事、私が持っているもの全て、全てあなたに渡したいと、そう思っています。俺が……」
俺がいつかそうしてもらったように、今度は俺が返す番だ。釣り合いが取れない事など百も承知だ。だが、あなたは「では、せめて借りではなく恩だと思ってちょうだい」と言ったから……だから俺はその恩に報いたい。
あなたと同じ礎であるこの少女に。この子もまた俺の礎だから。
「サンソンは……」
「はい、ここにおりますよ。どうされましたか、セティお嬢様」
「サンソンは……いなくならない?アメリアみたいにセティを置いて一人でどこか遠いところに行かないよね?」
「……お嬢様が望む限り、あなたのお傍にいますよ。さあ、そろそろ帰りましょうか。昼はあたたかくなってきましたが、朝や晩はまだ冷え込みますので」
再び頬へ触れれば、瞬間、瞳を閉じて、くすぐったいと訴えながら小さく主人が身じろいだ。そんな主人の姿を瞳を細めながら見つめていたんだ。
太陽の精一杯の光を受けて麦の穂の様にきらきらと輝いて風に吹かれて揺れる金の糸が、指先に絡んで、縺れる。
まだこの子は知らない。だがいつかこの子は全てを知るだろう。その時、俺の世界は瓦解する。受け入れる覚悟はとうの昔に出来ている。甘んじて受けよう。だが……
今は、今は浸っていたい。たとえ全てが最後にはどこへともなく消え去ってしまうとしても。でも、それでも、こんな瞬間があってもいいだろう?
「サンソン、あのね、今日のお夕飯は……」
「安心して下さい、お嬢様。今日は春キャベツでロールキャベツを作る予定ですので」
「お野菜ヤダー!サンソンの意地悪~!」
「野菜も食べないと……アメリアにも笑われてしまいますよ?」
触れた指先はそのまま流れるように、優しく絡む。小さな手をはぐれない様にと取り、二人で並び歩いた。
あなたがいるこの場所こそが、俺の世界の、中心。
≪サンソン≫
