第5章 無垢なもの弱きもの
ですから、偽りを捨て、「各々隣人に対して真実を語りなさい」
私達は互いに一つの体の部分だからです。
「腹が立っても、罪を犯してはなりません」
あなた方が腹を立てている間に太陽が沈む事があってはなりません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。
盗みを働いた者は、もう盗んではなりません。かえって困っている人に分け与える事が出来るように、労苦して、自分の手で、真面目に働きなさい。
あなた方は悪い言葉を一切口にしてはなりません。むしろ、聞く人々に恵みをもたらすように必要に応じて、人を高めるのに役立つ言葉を語りなさい。
神の聖なる霊を悲しませてはなりません。
全ての苦々しい思い、憤り、怒り、刺々しい声、罵りを全ての悪意と共に除き去りなさい。
そして、互いに親切にし、慈しみの心を持って、心から赦し合う者になりなさい。
神も、御子に結ばれたあなた方を心から赦して下さったのです。
【エフェソの人々への手紙 第4章】
沈黙を伴い風が渡る。あたたかいのか冷たいのか判断しかねる風に鼻先を擽られて鉛の様に重い目蓋を持ち上げた。案の定、瞳を開けた先に広がっていたのは開ける前と何ら変わらない”黒”一色に塗りつぶされた景色だった。
黒、黒、黒。一面の、黒。静寂の作る駄々っ広い空間の中、一人ユラユラと、上も下も、右も左も分からない場所を漂い、たゆたう。
不快か、と問われると難しいものがある。自分はこの”瞬間”は間違いなく好きなのだ。だらりとだらしなく四肢の力を抜き、視線の焦点を合わせず虚ろに彷徨う。
何も考えず、無抵抗に、全てを黒に委ねて。母に寄生する子とは、母の胎内で羊水に浸かる子はこんな気持ちで夢を見ているのだろうか。生まれる前から体液が時折こぽり……と、奏でる子守歌を聞きながら。
僕と対の妹をそれぞれの腕に抱きながら笑い合う若い夫婦の後姿があった。断頭台の露に消える若い女の姿があった。白い、染み一つない蒼穹の下で女の艶やかな黒髪が、桔梗の髪飾りが踊っていた。
ひたり、と頬に不意に何かが触れた。と、同時に焼ける様な、焼け爛れた空気が一気に肺を焦がしていく。あまりの苦しさに思わず咽た。
赤子の妹が口を開く。対の黄昏よりも深い赤の瞳を裂けんばかりに見開いて預言を告げる。腐り切った国の終焉を、”件”が告げる避けられない未来を。老いた一人の男へ託宣を下す。
『俺が恐れる事はただ一つ。この血を滾らせる事なく終える事だ。怨みも憎しみも、死もどうでもいい。恐怖と歓喜の焼き爛れた火の様な日々を生きる事だ』
老いた男の深い皺が刻まれた眦が言葉と共にぐにゃりと歪んだ。老いた体におよそ似つかわしくない瞳がそこにあった。両の目をギラギラと輝かせて。火の様な、黄昏よりも深い赤の瞳があった。
++++++++++++++++++++
あたたかいのか冷たいのか……判断しかねる空気が、肺の中に滞り澱んでいた空気と置換し、肺を洗って行く。酸欠の脳に酸素を更に送る為、伸びをしながら大口をもう一度開いた。起きてすぐ酸素を大量に取り込んだつもりだったがまだ完全に醒めきっていない。夢見のせいだろうか、目覚めは最悪だった。
つい先日の軍議を思い出すと柄にもなく息が出て来てしまう。作戦実行前の大切な時期である事は自分も知っているだけに責められても仕方がないのだが……教皇が失脚した今、脅威となるものはー……
回っていない頭を何とか回している最中でも腹の虫は鳴るらしい。壁時計の方へ視線を向けると時計の針はまだ早い時間を指していた。ゆっくり食事を取ってもおつりがくる程度にはゆとりがある。
「簡単なものでも作るか」
そう思い立ち、手を洗うために洗面所へと向かった。鏡のない洗面所へ。以前、同志の一人に「なんで洗面所なのに鏡がないのか?」と、聞かれたこともあったなあ。
「映るから、なんて言えねえよな」
時々映るから。両の目がギラギラした赤い瞳が。あのクソジジイとよく似た対の、黄昏よりも深くて暗い瞳が、鏡越しに自分を見つめやがるから。
≪バロン≫
私達は互いに一つの体の部分だからです。
「腹が立っても、罪を犯してはなりません」
あなた方が腹を立てている間に太陽が沈む事があってはなりません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。
盗みを働いた者は、もう盗んではなりません。かえって困っている人に分け与える事が出来るように、労苦して、自分の手で、真面目に働きなさい。
あなた方は悪い言葉を一切口にしてはなりません。むしろ、聞く人々に恵みをもたらすように必要に応じて、人を高めるのに役立つ言葉を語りなさい。
神の聖なる霊を悲しませてはなりません。
全ての苦々しい思い、憤り、怒り、刺々しい声、罵りを全ての悪意と共に除き去りなさい。
そして、互いに親切にし、慈しみの心を持って、心から赦し合う者になりなさい。
神も、御子に結ばれたあなた方を心から赦して下さったのです。
【エフェソの人々への手紙 第4章】
沈黙を伴い風が渡る。あたたかいのか冷たいのか判断しかねる風に鼻先を擽られて鉛の様に重い目蓋を持ち上げた。案の定、瞳を開けた先に広がっていたのは開ける前と何ら変わらない”黒”一色に塗りつぶされた景色だった。
黒、黒、黒。一面の、黒。静寂の作る駄々っ広い空間の中、一人ユラユラと、上も下も、右も左も分からない場所を漂い、たゆたう。
不快か、と問われると難しいものがある。自分はこの”瞬間”は間違いなく好きなのだ。だらりとだらしなく四肢の力を抜き、視線の焦点を合わせず虚ろに彷徨う。
何も考えず、無抵抗に、全てを黒に委ねて。母に寄生する子とは、母の胎内で羊水に浸かる子はこんな気持ちで夢を見ているのだろうか。生まれる前から体液が時折こぽり……と、奏でる子守歌を聞きながら。
僕と対の妹をそれぞれの腕に抱きながら笑い合う若い夫婦の後姿があった。断頭台の露に消える若い女の姿があった。白い、染み一つない蒼穹の下で女の艶やかな黒髪が、桔梗の髪飾りが踊っていた。
ひたり、と頬に不意に何かが触れた。と、同時に焼ける様な、焼け爛れた空気が一気に肺を焦がしていく。あまりの苦しさに思わず咽た。
赤子の妹が口を開く。対の黄昏よりも深い赤の瞳を裂けんばかりに見開いて預言を告げる。腐り切った国の終焉を、”件”が告げる避けられない未来を。老いた一人の男へ託宣を下す。
『俺が恐れる事はただ一つ。この血を滾らせる事なく終える事だ。怨みも憎しみも、死もどうでもいい。恐怖と歓喜の焼き爛れた火の様な日々を生きる事だ』
老いた男の深い皺が刻まれた眦が言葉と共にぐにゃりと歪んだ。老いた体におよそ似つかわしくない瞳がそこにあった。両の目をギラギラと輝かせて。火の様な、黄昏よりも深い赤の瞳があった。
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あたたかいのか冷たいのか……判断しかねる空気が、肺の中に滞り澱んでいた空気と置換し、肺を洗って行く。酸欠の脳に酸素を更に送る為、伸びをしながら大口をもう一度開いた。起きてすぐ酸素を大量に取り込んだつもりだったがまだ完全に醒めきっていない。夢見のせいだろうか、目覚めは最悪だった。
つい先日の軍議を思い出すと柄にもなく息が出て来てしまう。作戦実行前の大切な時期である事は自分も知っているだけに責められても仕方がないのだが……教皇が失脚した今、脅威となるものはー……
回っていない頭を何とか回している最中でも腹の虫は鳴るらしい。壁時計の方へ視線を向けると時計の針はまだ早い時間を指していた。ゆっくり食事を取ってもおつりがくる程度にはゆとりがある。
「簡単なものでも作るか」
そう思い立ち、手を洗うために洗面所へと向かった。鏡のない洗面所へ。以前、同志の一人に「なんで洗面所なのに鏡がないのか?」と、聞かれたこともあったなあ。
「映るから、なんて言えねえよな」
時々映るから。両の目がギラギラした赤い瞳が。あのクソジジイとよく似た対の、黄昏よりも深くて暗い瞳が、鏡越しに自分を見つめやがるから。
≪バロン≫
