第5章 無垢なもの弱きもの

また、救いの御子は弟子達に仰せになった。

「躓きが生じるのを避ける事は出来ない。しかし、それをもたらす人は不幸である。その人にとって、この小さな者の一人を躓かせるよりは、むしろ首に碾き臼を括られ、海に投げ込まれる方がましである。気を付けなさい」

「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を諌めなさい。そして、悔い改めるなら、彼を赦しなさい。また、もし彼が一日に七度、あなたに対して罪を犯し、七度あなたの下に戻って来て、その都度『悔い改めます』と言うなら、彼を赦しなさい」


【ルカによる福音書 第16章】






トクリ……命の流れる音がした。トクリ……綾の様に細い流れが束となり水牢を満たしていた。

ひたり、と、手の平全体を水牢に押し当てて、次に額を押し当て目蓋の緞帳をゆるりと降ろせばトクリ、トクリ……と水が奏でる子守歌が皮膚を通じて伝わってくる。

命の流れる音がした。永遠の眠りに就いた人の体を取り囲んで、ぐるりグルリ、クルリからりと水の流れが歌を歌い渦をなして。

押し当てた手の平を、額を通じてあたたかさが伝わって来る。これは幻?私が望むから、私がそう望んでいるからあたたかさを感じてしまうのだろうか?ここに来て見つめるうちに分かった事が、あるじゃない。

この人はもう石と同じなんだって。私はもう知っているじゃない。この人の魂と心があるのは私がいる現世ではなく、幽世。

でも、ここで眠るあなたはあまりにもあの日のままだから。在りし日のままだから。

私が愛していると言えば答えてくれそうで、私の事を好きかと問えばあの日と同じ様に私の事を何も言わずに抱きしめてくれそうで。

言葉なく散り、剥がれていく。雲母の結晶の様にポロリ、ハラリと剥がれ、落ちていく。液状の雲母の結晶が一片手の甲に落ちて、滑っていく。

大丈夫。私はあなたに沢山の愛を教えてもらった。注いで貰った。あなた達が私にくれた愛が私に残された唯一のもの。あなた達が私に残してくれた遺産。だから……


「また……会いに、来るね」


トクリ、コポリ……命の流れる音がした。命を繋いだ糸をある日突然解かれた、あるいは命の灯火を理不尽に吹き消された者達の身体を納めた棺を流れる水が揺り籠を揺らすように揺らしていた。






「あれ~?ハル~どうしたんですか~?今日はお屋敷の皆さんは仕事でお出掛けしていて部屋にはいませんよ~?」


「そうだったの……?うーん……せっかく顔見に来たのにな、残念」


「今朝も会ってたじゃないですか~?ハル、いっつもご主人様の事起こしに行ってますし~。って言うか、いつの間に敬語抜けたんです?前はご主人様に敬語でしたよね?」


「ふふっ、それはね……秘密。起こさないといつまでも寝てる日があるから……それじゃあ今日に置いて行かれちゃう、でしょ?時間は有限だもの」


午後の白い光が天から降って充ちる。大きく開け放たれた回廊の窓から一陣草の匂いを孕んだ風が吹き込み私の肺を洗っていった。

風と共にするり、と入り込んできた声のする方へ視線を向ければ思った通りの人の姿があって、自然と私の唇にゆるい弧が浮かんでしまう。


「アンゼこそ、どうしたの?鳥籠なんて持って……」


彼女の名を呼び首を横へと倒せば、彼女はキャハハッ!と非常にらしい声を上げながら大きく片手を左右に振って答えた。


「今、市場に行って買って来たんですよ~。ず~っと鳥籠の中じゃ可哀想だと思ったので。いいですか~?見ててください……!」


アンゼの青い瞳が悪戯を思い付いた子供の様に刹那、煌めく。彼女が何を思い付いたのか私が理解したのは事が起こった後で、「駄目……!アンゼ……!」と、声を上げた時には籠の中の小さな黄色い鳥は蒼穹を目指し高く、より高くへと飛翔してしまっていた。


「キャハハハ~飛びました飛びました~。あの子は今日から自由です~」


「うん、そうだね……でも、あの子は長くは、生きられない」


「なんでですか~?あんなに元気いっぱいに羽搏いて言ったじゃないですか~?病気しているようには見えませんでしたよ~?」


アンゼの大きな瞳が数度瞬く。今度首を横に倒したのは私ではなく彼女。


「鳥籠の中の鳥は鳥籠の中でしか生きられないよ。あの子は餌の取り方も知らない。外敵から身を守る術もない。今は元気でもきっと死んでしまう」


「そうなんですか~?でも”自由”ですよ~?窮屈なところにいるよりそっちの方が幸せだと思いますけど?」


「本当に?明日死んでしまうとしても?この籠の中に”自由”は一つもなかったのかな?本当に、なかったのかな?」


純白のレースのカーテンが踊り、縺れる。結んで開いて……青空とのコントラストが眩しかった……。


「あの子の幸せが何なのかは分からないよ。私達にも、それにきっとあの子自身にも」






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『ほう……ならお前はこのまま泣き寝入るのか?まあ、それも悪くはないだろう。お前の人生だ。それにお前の幸せはお前だけのものだ。俺のものではないからな』


『誰が泣き寝入りなんて……!』


『なら、その小さなナイフで胸を抉りに行くのか?止めておけ止めておけ。お前の腕じゃ抉る前に抉られるのが関の山だ。それに仮に抉られる前に抉ったとしてもあの男は何とも思わないだろうさ。あの男にとって死は畏怖するものでも慄くものでもない。どこまでも甘美か……あるいはどこまでも無に近い何かだ。そんな人間に死を与えて何になる?何になろうか?』


黒い法衣の裾が夕間暮れの風の中、踊っていた。咽返る様な黄昏の闇の中で禍刻の空より深い対の紅玉が伸びた前髪の隙間から私の姿を捉えている。真っ直ぐに。吸い込まれるような深淵の色をした珠の中で私が崩れ落ちていた。


『なら、私はどうすればいいの……私には何も……』


『そう悲観する必要はないと思うが?お前にはあの男にはない大きな、大きな武器があるじゃないか?死を畏怖し恐れないというならそれ以外の絶望をくれてやればいい』


『ちがう……もの……?』


『ああ、そうだ。お前は何を与えられて育って来た?あの男はお前から何を奪った?お前があの男に奪われこうして苦しんでいるのは何故だ?……同じ目に合わせてやればいい。知らぬと言うなら与えてから奪えばいいだけじゃないか?実に単純かつ明快だ。……まあ、俺がお前に出来る助言はここまで、だ。さっきも言ったようにお前の幸せはお前だけのものだ。俺のものじゃないんでな』


円を描く様に法衣の裾が動いた。私に背を向け歩き出そうとする男を映した私の瞳が大きく避ける様に縦に見開く。黄昏を掴む様に、黄昏に縋る様に私の手が空を掻く。


『幸せ……教えて……あなたの幸せって……なんですか?私の幸せって……なんですか……?』


『俺が恐れる事はただ一つ。この血を滾らせる事なく終える事だ。怨みも憎しみも、死もどうでもいい。恐怖と歓喜の焼き爛れた火の様な日々を生きる事が俺の幸せだよ。ハルモニア』


++++++++++++++++++++


「ハル?ハル~?どうしたんですか~遠く見ちゃって?そんなに小鳥が心配です~?」


「……ちょっとね、”幸せ”について思い出してたの。ねえ、アンゼ、幸せって何なのかな?アンゼにとって幸せって……何?」


≪ハルモニア・コンコルディア≫
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