第1節 あべこべちぐはぐ

私達は、隣人の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。

私達一人ひとりは、互いに聖なる者として造り上げるのに役立つように、隣人を満足させるべきです。

御子も自分の満足を求められませんでした。むしろ、「あなたを謗る者の謗りが私の上に降りかかった」と書き記されている通りです。

前の時代に書かれた事は全て、私達への教訓として書かれたもので、聖なる書物が与える忍耐と励ましによって、私達が希望を持ち続ける為です。

忍耐と励ましの源である神が、あなた方に救いの御子に倣って互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

それは、心を合わせ声を揃えて、私達の主の神であり父である肩を讃える為です。


【ローマの人々への手紙 第15章】





青くけぶった空を見るともなしに見上げる自分の耳に不意に声が届く。上へと向けていた視線を下ろし声がした方へと向ければ、大きく肩で息をし手を振りながらこちらへ駆け寄って来るビビの姿が映った。


「ごめんね、シャアン、くん……少しおうち出るの遅くなっちゃったから、走って、来たの……」


「馬鹿か、お前。お前走るの得意じゃないだろ……」


「だ、だいじょうぶだよー今日は寒くないから息も苦しくな……けほっ……」


壁に預けていた背を剥がして慌てて幼馴染へ駈け寄ればいつものどこか締まりのない顔で話す彼女がいて、内心ほっとしたのも束の間、大きな咳を吐き出す彼女のその様子に自然と眉間に力が籠る。


「ほら、だから……大丈夫か?」


「う、うん……大丈夫。ちょっと咳が出ただけだよ。シャアン君に迷惑かけられないし……」


幼馴染のまだ自分より大きな背に手を重ねてゆっくりと上下に動かせば、深い息が一つ彼女の口から零れ、落ちていく。少し落ち着いてきたのだろうか、彼女の頬に赤みが戻って来たのが分かった。


「今日はどこに行くの?」


「いつもの石が沢山取れるところ……って言いたいけど母さんに買い物頼まれたからそこに行こうかなって思ってる」


「頼まれごと?」


「うん。ここでパンを買って来いって言われた。お前、分かるか?」


彼女の首の動きに合わせて伸びた髪がサラリ、と揺れる。母さんから渡されたメモをポケットから取り出して広げて彼女に見せれば、途端に「あっ、ここディアーだ!」という声と共にきらりと彼女の瞳が煌めいた。


「知ってるのか?」


「うん!前にお母さんと一緒に行った事あるよ!あのねー不思議で変なものが沢山あるよ!勿論パンもあった!」


「そっか。……ん」


「うん。手、繋ごうね」


「あそこのパンは美味しいんだよ~」っと嬉しそうに話す幼馴染に手を伸ばせば自分の手に彼女の手が重なった。いつもそうしているように繋いで。繋いだ手から伝わって来る自分のものより少しだけ高い温度を握り締めて同じ歩幅で歩き出す。彼女が知ってるって言うんだから迷わず行ける、だろうか……こいつ、方向音痴だったような……


「地図あるから大丈夫か」


「どうしたの、シャアン君?」


「何でもない」






++++++++++++++++++


「すみません、巻き込んでしまって。今、この店の者が解毒剤を取りに行っていますから」


「えっと……ありがとう、ございます。服、貸して、もらって」


「流石に布を被っただけというわけにもいかないでしょうし……びっくりしました。だって服がビリビリな状態で女の人を抱えて駆け込んでこられたので。まあ、予想はすぐにつきましたけど……あの爆発のせい……ですね。間違いなく」


古い木の香りと薬品の匂い、そして焼き立てのパンの匂いが鼻を微かに擽る。この店の主人でノルン、と名乗った女の人に頭を下げれば「気にしないで下さい」と彼女のふるり、彼女は首を一度横へ振った。


「……」


「……どうかしましたか?」


「いや、店って俺と同じぐらいの歳の子どもでも出来るんだなって……」


「普段はちゃんとした大人ですから安心して下さい。今は子供の姿をしていますが。……今あなたが子供じゃなくて大人の姿をしているのと同じ理由です」


ゆるり、ゆるやかな弧が浮かぶ。穏やかな声色で言葉を紡ぐとノルンと名乗ったその人は、ピンッ!と人差し指を伸ばして部屋の隅を指差した。そこにあったのは大きな、おそらく姿見用の鏡で、鏡の中にノルンと一緒に見た事のないはずなのに見覚えのある男が一人、映りこんでいた。


「さて、と。私、少し外の様子を見てきますね。あなた達みたいに服がなくてお困りの方もいると思いますから。すみませんが少しだけ留守番を頼んでもいいでしょうか?」


「うん。こいつ思い切り煙吸い込んでたから。こいつが良くなるまでどっちにしろ帰れない」


「そうでしたね。見たところ一時的な軽い発作だと思いますからすぐに良くなると思いますよ。お腹が空いたらテーブルの上のパンを食べて下さい。本当はここで働いてる女の子と一緒に食べようと思って焼いたのですが……それどころじゃなくなりましたし。ご迷惑をかけたお詫びですから気にしなくて大丈夫ですよ。じゃあ、行ってきますね」


「あっ、うん。いって、らっしゃい……ノルン」


パタパタとありったけの布という布を腕一杯に抱えて店を文字通り飛び出して行ってしまったノルンの背中を、手を振って見送り目蓋をパチリ、動かした。開けっ放しの店の扉がキイキイ……小さく鳴っていた。


「大丈夫か?」


「あっ……えっと……シャアン君、だよ、ね?」


「うん。……お前、だよ、な」


カタリ、コトリ、キシリ。床が軋む音がする。音に気付いて振り返れば目が覚めたのだろうか、奥の部屋から大きくなったけど小さくなった彼女がひょこりと姿を現した。


「……どうした、来ないのか?ノルン……この店の人だけどお腹が空いたらパンを食べてもいいって……」


自分の声ってこんなに低かっただろうか?自分の口から言葉を話しているのに父さんが話しているみたいだ。

……そして、気付いた。彼女の肩が俺の声を聞いた直後、瞬間、びくりと跳ね上がった事に。申し訳なさそうに俯いてしまった彼女の、体が小さく震えている事にも。


「どうした?」


「あっ、ち、違うの。シャアン君なの。シャアン君って分かってるんだけど……でもね、おかしいな……なんで、かな。どうして、かな」


彼女の中で何かがはち切れて、溢れている。何かは分からない。でも、それだけは分かった。カタリ、カタリと歯を鳴らして色味が戻っていたはずの顔から色が消えて、白になる。ここはあたたかい部屋の中なのに寒そうに、痛そうに彼女は体を震わせていた。

冷気が足元からしんしんと這い上って来るような、そんな気がした。刹那、出した手が彼女を通り越し空を掴む。


「ごめんね、シャアン君……」


「……謝るな。俺は俺だ。いつもお前の隣にいる俺だから。だから……」


自分の吐き出した息とは違う息が胸にかかる。空を掻いた手をそのまま伸ばして棒のように固まってしまった幼馴染の体を引き寄せた。大人の真似事、じゃない。ただ、母さんがこうすると俺もルナも不思議と安心できるから。だから、真似した。


「もっと頼れ。頼ってくれ」


確かに彼女の方が俺より年上だけど、それでも思ってるんだ。頼って欲しいって。


≪シャアン・ナザレ≫
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