第4章 革命

預言者イザヤの書に、「見よ、私はあなたの先に私の使いを遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒れ野に叫ぶ者の声がする、主の道を整え、その歩む道を真っ直ぐにせよ」と、書き記されているように、洗礼者が荒れ野に現れて、罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。

ユダヤの全地方、またエルサレムに住む全ての人が洗礼者の元に来て罪を告白し、聖なる川で洗礼を受けた。

洗礼者はらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、蝗と野蜜を食物としていた。

洗礼者は宣べ伝えて言った。

「私よりも力のある方が後からおいでになる。私は身を屈めてその方の履物の紐を解く値打ちさえない。私は水であなた方に洗礼を授けたが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる」


【マルコによる福音書 第1章】






『……私は艱難(かんなん)を受ける事を誇る。艱難は根気と忍耐を生んでくれるからだ。根気は徳をよく鍛錬し、鍛錬を受けた徳は希望を生む。この希望は私達を決して欺く事がない』

俺の根幹を成す教えが、聖なる書物の一節が蘇り胸中を廻って行く。残暑の茹だるような熱とは明らかに異なる熱により苛まれ、苦しみ、喘ぐ子の手を取り強く握り締めた。

必ず良くなると言う代わりに手を握り、病者の塗油を施すのではなく清水に浸し濡らした清潔な布で痘痕が無数に湧き出た幼子の顔を拭った。

この子が高熱と体の痛みを訴え出してからもう五日になる。病状は日ごとに良くなるどころか悪くなる一方だ。一度は解熱したが、それと同時に皮膚に豆粒状の丘疹が生じ、顔面から一気に全身へと広がって行ったのだ。……明らかにこの村を今襲い、蝕んでいる病と症状が同じだった。


「今、村の者が薬と援助を求めて教皇府へと向っている。あと少しの辛抱だ。お前が神の御許に向かうにはまだ早過ぎる」


経験から無駄な事と分かってはいたが、手の平を通じて自身の中にある力を練り上げ、病床で苦しみに喘ぐ子の中へと送り込んだ。……皮肉な話だ。魔を払う職業に就いていながら村人一人、幼子の小さな体を蝕む病魔一匹自分は払えないでいる。

手に僅かに力を込めた、その時だった。苦しみによって閉じられていた双眸が微かに動き、開いて、痘痕によりぶくりと腫れ上がった幼子の唇が動いたのは。


「つらい、こと……たえる……ひと……かみさま……みすて、ない……ん、だろ?だ、から……へい、き」


『辛い事に耐える人間を神や天使は見捨てない、程度にでも思っておけ』

『ふーん……辛い思いをしないで済むならしない方がいいと思うけどなあ……でも、神様と天使様が見てくれてるなら、まっ、いっか!』


『ああ。神は厳しい罰や恐ろしい裁きを下す者ではなく慈悲深い者だからな』


子供が紡いだ言葉に自身の瞳が大きく見開いていくのを感じる。今、幼子が紡いだ言葉は確かにいつか、自分が紡ぎ教えた聖書のそれだった。

ああ、そうだとも。……そうだ、慈悲深い神が民を見捨てるはずがない。お前の様な子供たちこそが天の国にもっとも歓迎される存在なのだから。

幼子の手がするり、と、自分の手の平の上から落ちていく。もう一度汗ばんだ小さな手の平を取ろうとした、刹那ー……

全ては歪む。拉げ、潰れ、焼けた。悪夢の如く。

魔の熱を孕んだ火球が、地獄の業火が、岩を蒸発させるほどの高温が窓の外に広がると同時に熱波となり、あらゆる空間を空間を焦がし灰燼へと帰していった。内も外もなく、寝そべるあの子の体を、その他の兄弟達も、村人もー……俺自身をも飲み込んで。遠くで馬の嘶く声を聞いた気がした。軍馬の声を聞いた気がした。

目を覚ました時、炎は既に消えていたが、黒ずんだ何かが、灰と瓦礫が混じり合った何かが、あった。

焼け爛れた聖母子像が、あの子達が、そして何より俺自身が毎日祈りを捧げていた存在が、冷たい雨の中、残された人間を、俺を笑う様に見下ろしていた。

その日、俺の中で信仰は……死んだ。






++++++++++++++++++


「貴殿は……!」


「王宮騎士か」


全身を甲冑で包んだ騎士の体が俺の言葉を受けて僅かにたじろいだ。着込んだ鎧のせいだろうか、やけにくぐもり力ない響きとなって鼓膜を揺する。

たじろぎ一歩、後ろへ後退した騎士の後ろからすかさず突進してきた男騎士の一撃を寸でのところで躱し、いなすと同時に男の背へと手で触れれば、光が生まれ一気に男の中へと収束していく。余剰の治癒の力が光として具現して。

光が収まった時、男はだらりと体を弛緩させ、成す術もなく重力に引かれる様にして倒れていった。物言わぬ骸へ姿を変えて。


「一体、なに、を……」


「なに、触れただけだ。特別な事など何一つとしてしていない。治癒魔法と原理は同じだ。もっとも、流す魔の量はそれとは比べ物にならないが」


硝煙の咽返る様な臭いが場を支配していた。もはや敵も味方も何もない。自軍敵軍入り乱れる王宮前の広場のあちこちで死が狂ったように舞踏を踊っていた。

「貴殿が反乱軍を指揮していたのか……!」


「人聞きが悪い事を。こちらからすればそちらこそ巨悪だ。悪性の腐りきった腫瘍なんだよ、お前達は」


……そう、これでいい。こちらが俺達の本隊であると偽装しなくてはならない。もっと時間を稼がなければ……俺達の同志が事を成就させるまで敵戦力の矛先をこちらに引き付けておく必要がある。本懐を遂げる為なら、礎になる為ならば、俺一人など……いや、ここにいる者達の命など全てまとめても安いものだ。

火薬が舞う。湧き立った黒煙が穢れない蒼穹を犯す様に広がり、隠していく。その黒煙の狭間から白亜の宮が見え隠れしていた。

赤の旗と共に。革命軍のシンボルである土と鉾が描かれた深紅の旗が勝鬨として風を受け大きく翻り、白亜宮を彩っていた。

……新しい時代の始まりを告げる様に。


「……終わった、な。さて、王宮と教皇府は落ちた。大勢が決した今になってもお前はまだ戦うというのか?」


勝鬨を前に士気が上がった自軍の兵士たちが上げる雄たけびが大気を震わせる。湧き立ち士気が上がった俺達と、その逆に戦意を喪失したお前達とー……さて、これ以上戦闘を続けて長引かせ被害を被るのは……はたしてどちらだろうな?


「神をも畏れぬ不届き者めッ!!!」


「悪いな。信仰ならとうの昔に一つ残らず磨り潰して捨てたんだ。欠片も残っちゃいない」


邪悪を野放しにする神の、その姿がもう二度と心に浮かばないように、何度も、何度も、一つずつ、一つずつ……

ただ、ああ……あの女は、エリカ、と言ったか?彼女は無事だろうか?

信仰し、敬愛していた神の姿すら消したのに、自分と同じ駒の一つにしか過ぎない女の身を案じる自分が、酷く滑稽だ。


≪アマダス・メラン≫
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