第4章 革命
初めに御言葉があった。御言葉は神と共にあった。御言葉は神であった。御言葉は初め神と共にあった。
全てのものは御言葉によって出来た。
出来たもので御言葉によらず出来たものは何一つなかった。
御言葉の内に命があった。この命は人間の光であった。
光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。
神から遣わされた人がいた。この人は証の為に来た。光について証をし、彼によって全ての人が信じる様になるためである。
彼は光ではなかった。しかし、光について証する為に来た。
全ての人を照らす真の光はこの世に来た。
御言葉はこの世にあった。この世は御言葉によって出来たが、この世は御言葉を認めなかった。
御言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。
しかし、御言葉を受け入れた者、その名を信じる者には神の子となる資格を与えた。
彼らは血によってではなく、人間の意思によってでも、男の意思によってでもなく、神によって生まれた。
御言葉は人間となり、我々の間に住む様になった。
我々はこの方の栄光を見た。父の下から来た独り子としての栄光である。
独り子は恵みと真理に満ちていた。
【ヨハネによる福音書 第1章】
「寝てしまわれたようです。無理もありません。だいぶ焦燥されていたようですしそのせいで酷く興奮されていましたから……疲れてしまったのでしょう」
「そっか。ガイウスもお疲れ様。あの子の面倒見てあなたも疲れたでしょ?もう時間も時間だし後は大人に任せて子供は寝なさいな」
夜鷹の囀りが虫の音と共にするり、と、窓の隙間から入り込む。椅子に浅く腰掛け読み耽っていた論文から視線を外して、奥の部屋から少々……いや、かなり疲弊した様子で戻って来た同居人を見つめ小さく息を溢した。どうやら案の定手酷い仕打ちを受けたらしい。
あたしの言葉にガイウスのまだどこか幼さが残る顔がやや困った様に動いた。「そうさせていただきます」とあたしに告げて、今出て来た扉とは違う扉に手をかけるガイウスにパチリ、と自然に瞳が瞬き、首が横へと倒れる。
「そっち、寝室じゃないわよ?あんたの部屋はあの子を運んだあの部屋じゃない」
「ええ。ですが、見ず知らずの女性と僕が同室というのも彼女への失礼に値しますから。……今日は作業場の方で寝ようか、と。毛布お借りします」
「女性って、あなたもあの子もまだ子供じゃない。気にする事ないと思うけど……」
「……おやすみなさい、ヒュパティア」
改めてあたしたちに向き直り深々と頭を垂らしたガイウスに、そんな事をしなくてもいいよと言う代わりに手を振り「おやすみ」とまた明日会う約束を取り付けた。……後で作業場じゃなくてあたしのベッドに運ばなきゃなあ、なんて算段をつけながら。自慢じゃないがあそこは人が寝る場所じゃない。主であるあたしが言うんだから間違いない。
「言っておくが運ばないからな」
「ん?あたしまだ何も言ってないけど?」
「お前の事だ。どうせ後で運べと言うに決まっている」
「あら?よくあたしの事をご存じで。そこまであたしのことよく知っているのあなただけよ」
どこかバツが悪そうに視線を逸らす彼の姿に飲み込もうとして飲み込み切らなかった声が笑い声になって零れ落ちる。しばらく顔を合わせていなかったけれど、この人は相変わらずのようだった。分かりにくいが一周回って案外分かりやすい。
「おい……」
「いいからいいから。あ~……やっぱりこうしてるとちょっと落ち着くかも。それにあったかいし」
背中から伝わって来る久しく感じていなかったぬくもりに自然と瞳が細くなり唇がゆるく綻んでいくのを感じた。彼と自分の体を一つの毛布で包んで、彼の胸に自分の背中をそのまま預けて背をもたれて……
どーせ、あなたの事だから、今苦虫を噛んだ様な渋い顔してるんだろうけど。でも、それは背を預けているあたしからは見えない。
見る事によって一つの形を決めている以上、見えなければあたしがそれを気に病む必要はない。
「”我々も含めてこの世で一つの形を与えられているあらゆるものは、実のところそこに存在しているわけでなければ、存在していないわけではない”……?」
「あっ、人の文献勝手に読まないでよ」
「お前が見えるようにわざと広げてるんだろうが」
「あっ、やっぱり分かった?」
御名答とケタケタ、肩を震わせて笑えば、ストン、と手刀が頭の真上に落ちて来た。地味に痛い。……まあ、加減してくれてるっていうのは知ってるから許してあげよう。根には持つけど。あとで覚えてろ!
「量子力学っていう分野があってね。その中の一つにそういう考え方、理解の仕方っていうものがあるの。”この世にある存在の全ては様々な可能性が重なった状態としてあるに過ぎない。そして、存在の状態は観測する事、つまり見る側ー……観測者ごとに形を決めて見ている”っていう考え方」
”我々はこの世界を過去から未来まで一つながりに繋がったたった一つの歴史しか持たないと認識している。しかし、量子力学の多時間解釈によれば、我々の宇宙と並行する無数の別の時間、別の歴史が存在し、その中にはまったく我々の宇宙と違った歴史を辿るものも無数存在するのである”
「つまり……」
「あなたとあたしと……出会わなかった世界もあるし、出会っても死に別れた世界もあるってこと」
広げた文献を畳み、刹那、瞳を伏せた。背中から確かに今伝わって来る自分のものとは違う体温と心音を感じながら。
「ソフィアも出て行っちゃったし、ガイウスがいるとはいえこの家、何だか広く感じるのよ」
正直、この人の考え方はうちの馬鹿兄貴同様、手放しで賛同できないところもあるけど……それはお互い様だ。
いや、”観測者”が”観測”する事で世界が定まるというのならば誰一人として同じ世界には住めないのではないだろうか?世界はどこまでも孤独で、混じり合う事はないのかもしれない。だけど……
「……帰って来てよ。そろそろ、さ。じゃないと広すぎて、広すぎて寒くて、時々身動きできなくなる、から」
寄り添うあう事は出来るんじゃないだろうか。世界が無数あって無数の可能性があるなら、あたしはあなたと、こうして一緒にいられる可能性を大切にしたいと思う。
……そう思う事は、おかしなこと?
≪ヒュパティア・キリル≫
全てのものは御言葉によって出来た。
出来たもので御言葉によらず出来たものは何一つなかった。
御言葉の内に命があった。この命は人間の光であった。
光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。
神から遣わされた人がいた。この人は証の為に来た。光について証をし、彼によって全ての人が信じる様になるためである。
彼は光ではなかった。しかし、光について証する為に来た。
全ての人を照らす真の光はこの世に来た。
御言葉はこの世にあった。この世は御言葉によって出来たが、この世は御言葉を認めなかった。
御言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。
しかし、御言葉を受け入れた者、その名を信じる者には神の子となる資格を与えた。
彼らは血によってではなく、人間の意思によってでも、男の意思によってでもなく、神によって生まれた。
御言葉は人間となり、我々の間に住む様になった。
我々はこの方の栄光を見た。父の下から来た独り子としての栄光である。
独り子は恵みと真理に満ちていた。
【ヨハネによる福音書 第1章】
「寝てしまわれたようです。無理もありません。だいぶ焦燥されていたようですしそのせいで酷く興奮されていましたから……疲れてしまったのでしょう」
「そっか。ガイウスもお疲れ様。あの子の面倒見てあなたも疲れたでしょ?もう時間も時間だし後は大人に任せて子供は寝なさいな」
夜鷹の囀りが虫の音と共にするり、と、窓の隙間から入り込む。椅子に浅く腰掛け読み耽っていた論文から視線を外して、奥の部屋から少々……いや、かなり疲弊した様子で戻って来た同居人を見つめ小さく息を溢した。どうやら案の定手酷い仕打ちを受けたらしい。
あたしの言葉にガイウスのまだどこか幼さが残る顔がやや困った様に動いた。「そうさせていただきます」とあたしに告げて、今出て来た扉とは違う扉に手をかけるガイウスにパチリ、と自然に瞳が瞬き、首が横へと倒れる。
「そっち、寝室じゃないわよ?あんたの部屋はあの子を運んだあの部屋じゃない」
「ええ。ですが、見ず知らずの女性と僕が同室というのも彼女への失礼に値しますから。……今日は作業場の方で寝ようか、と。毛布お借りします」
「女性って、あなたもあの子もまだ子供じゃない。気にする事ないと思うけど……」
「……おやすみなさい、ヒュパティア」
改めてあたしたちに向き直り深々と頭を垂らしたガイウスに、そんな事をしなくてもいいよと言う代わりに手を振り「おやすみ」とまた明日会う約束を取り付けた。……後で作業場じゃなくてあたしのベッドに運ばなきゃなあ、なんて算段をつけながら。自慢じゃないがあそこは人が寝る場所じゃない。主であるあたしが言うんだから間違いない。
「言っておくが運ばないからな」
「ん?あたしまだ何も言ってないけど?」
「お前の事だ。どうせ後で運べと言うに決まっている」
「あら?よくあたしの事をご存じで。そこまであたしのことよく知っているのあなただけよ」
どこかバツが悪そうに視線を逸らす彼の姿に飲み込もうとして飲み込み切らなかった声が笑い声になって零れ落ちる。しばらく顔を合わせていなかったけれど、この人は相変わらずのようだった。分かりにくいが一周回って案外分かりやすい。
「おい……」
「いいからいいから。あ~……やっぱりこうしてるとちょっと落ち着くかも。それにあったかいし」
背中から伝わって来る久しく感じていなかったぬくもりに自然と瞳が細くなり唇がゆるく綻んでいくのを感じた。彼と自分の体を一つの毛布で包んで、彼の胸に自分の背中をそのまま預けて背をもたれて……
どーせ、あなたの事だから、今苦虫を噛んだ様な渋い顔してるんだろうけど。でも、それは背を預けているあたしからは見えない。
見る事によって一つの形を決めている以上、見えなければあたしがそれを気に病む必要はない。
「”我々も含めてこの世で一つの形を与えられているあらゆるものは、実のところそこに存在しているわけでなければ、存在していないわけではない”……?」
「あっ、人の文献勝手に読まないでよ」
「お前が見えるようにわざと広げてるんだろうが」
「あっ、やっぱり分かった?」
御名答とケタケタ、肩を震わせて笑えば、ストン、と手刀が頭の真上に落ちて来た。地味に痛い。……まあ、加減してくれてるっていうのは知ってるから許してあげよう。根には持つけど。あとで覚えてろ!
「量子力学っていう分野があってね。その中の一つにそういう考え方、理解の仕方っていうものがあるの。”この世にある存在の全ては様々な可能性が重なった状態としてあるに過ぎない。そして、存在の状態は観測する事、つまり見る側ー……観測者ごとに形を決めて見ている”っていう考え方」
”我々はこの世界を過去から未来まで一つながりに繋がったたった一つの歴史しか持たないと認識している。しかし、量子力学の多時間解釈によれば、我々の宇宙と並行する無数の別の時間、別の歴史が存在し、その中にはまったく我々の宇宙と違った歴史を辿るものも無数存在するのである”
「つまり……」
「あなたとあたしと……出会わなかった世界もあるし、出会っても死に別れた世界もあるってこと」
広げた文献を畳み、刹那、瞳を伏せた。背中から確かに今伝わって来る自分のものとは違う体温と心音を感じながら。
「ソフィアも出て行っちゃったし、ガイウスがいるとはいえこの家、何だか広く感じるのよ」
正直、この人の考え方はうちの馬鹿兄貴同様、手放しで賛同できないところもあるけど……それはお互い様だ。
いや、”観測者”が”観測”する事で世界が定まるというのならば誰一人として同じ世界には住めないのではないだろうか?世界はどこまでも孤独で、混じり合う事はないのかもしれない。だけど……
「……帰って来てよ。そろそろ、さ。じゃないと広すぎて、広すぎて寒くて、時々身動きできなくなる、から」
寄り添うあう事は出来るんじゃないだろうか。世界が無数あって無数の可能性があるなら、あたしはあなたと、こうして一緒にいられる可能性を大切にしたいと思う。
……そう思う事は、おかしなこと?
≪ヒュパティア・キリル≫
