第4章 革命

さて、救いの御子はこの人々の群れを見て、山にお登りになった。そして、腰を下ろされると、弟子達が近寄って来た。

救いの御子は口を開き、彼らに教え始められた。

自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人達のものである。

悲しむ人は幸いである。その人達は慰められる。

柔和な人は幸いである。その人達は地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人は幸いである。その人達は満たされる。

憐れみ深い人は幸いである。その人達は憐れみを受ける。

心の清い人は幸いである。その人達は神を見る。

平和をもたらす人は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる。

義の為に迫害されている人は幸いである。天の国はその人達のものである。

私の為に人々があなた方を罵り、迫害し、またありとあらゆる言われない悪口をあなた方に浴びせる時、あなた方は幸いである。

喜び、踊れ。天におけるあなた方の報いは大きいからである。

あなた方より前の預言者達も同じ様に迫害されたのである。


【マタイによる福音書 第5章】






あたり一面、無数の赤い火の粉の群れが舞う。立ち上る黒煙と共に絡み縺れて夏の夜空を飛ぶ蛍の様に狂った舞踏を踊っていた。

焦熱の焔の舌が闇を捕らえて喰らっている。……いつもの夢だ。今更何の感慨も湧かない光景を高台から見下ろして、眼下に広がる焔が踊り狂う舞台へと身を放り投げた。あの女がー……もう一人の自分が幽世と現世の端境で見る、夢。

パキリ、と、どこかで何かが折れる音がした。ガラリ、と、何かが崩れる音がした。何かー……何かってなんだ?この幽玄の世界に形あるものなど何もないじゃないか。ならば、今僕の前で、横で、背後で崩れた瓦解したものはなんだ?初めから形がないものが崩れたのだろうか?そう、人の業の様な何かが。


「……ふふ……」


口元が緩い弧を描く。僅かに開いた唇から零れ落ちた笑みが幽玄の空気を微かに擽り揺さぶった。

”業”が瓦解する事などあるものか。積み上がり高くなることはあれど精算される事など、ない。


「……厄介なもん持たされたもんだよね。僕も、あんたもさ。なあ?お前もそう思うだろう?」


轟々と音を立てて浄化の炎が闇に喰らい付き、喰いつかれる。今日も僕が辿り着くその前に覚醒し現世へ帰還してしまったもう一人の自分の名を紡ぎ、焔の中へと放り込んだ。

心配するな。誰かが断ち切らなければならないというのなら、僕がそれを成す。あの血統は未来に残してはならないものだ。


時は近い。僕自身がこの現実に出会う日も、また。だから、だからその日まで……


「……ごきげんよう」


さあ、目覚めよう。陽光が目蓋に落ちる前に。一片落ちる、その前に。


……陽、光?さて、いつも目覚めの瞬間に落ちてくるのは光だっただろうか?すり抜けて行くのはそんな暖かなものだっただろうか?






++++++++++++++++++


夕暮れの茜が名残日と共に震えている。幻燈の様に頼りない灯火がまだ霞む視界の端で映った。


「……誰、あんた。アマダスじゃないよね。あいつ目、細いし」



「あ、あの……大丈夫ですか?その、倒れているように見えたので……」


徐々に覚醒する脳と共に、滲み擦れた世界が明確な輪郭を帯び始める。視線の先には一対の、自分が知らない人間の青い双眸があった。


「大丈夫ですか……?」


大丈夫かともう一度紡がれた言葉が草の匂いと共に降り積もる。ああ、そうか……と、自分が何をしていたのかを思い出し、口を動かした。


「飽きたから寝てた」


「あ、飽きたからって……」


「あとお腹空いてたし」


「お、お腹が空くと寝るんですか……?」


「動くのが面倒。億劫」


瑠璃色、緋色の光が河を往く。星空を連れて紫紺の衣へと着替え始めた天球から視線を逸らし、ゴロリ、と寝返りを打って目蓋の幕を再び降ろした。


「ま、また寝るんですか……」


「うん。お腹空いてるから」


「帰って何かを食べては……」


「うん。気が向いたらね。あんたも帰んなよ」


手の平を左右へ動かす事すら億劫で、沈黙する事で見知らぬ女へ帰る様にと告げた。よっぽどの馬鹿じゃない限りこれで十分伝わるだろう。

鼻先を青い草の匂いが掠め、河のせせらぎが鼓膜を揺する。時々混じるどこの誰のものか分からないすすり泣きの声を聞きながら大きな欠伸を一つ零した。

教皇襲撃の作戦会議終わったかな?……まあ、僕がいなくて支障が出るようならアマダスあたりが迎えに来てくれるだろうし、問題はない、か。それとも新入りの赤毛君だろうか?


「あ、あの……」


「……また来たの?君も暇人だね。何度来てもここには何もない……」


「良かったら、食べます、か?……おにぎり、持って来たの、で……」






++++++++++++++++++


蒼い深遠に白が斑に混ざっている。けぶり霞む蒼穹を見上げ、生欠伸を一つ噛み殺す。河のせせらぎとは違う大海の潮騒が鼓膜を揺さぶり擽っていた。


「王都の本隊は大丈夫でしょうか?」


「さあ、ね。まあ、あの人の事だから抜かりはないと思うけど」


大きく伸びをし、べたつく潮風を吸い込み肺を洗い空気を置換した。腹は膨れないが目は覚める。


「ねえ、君。もしかして迷ってたり?」


「いえ……そんな事は……ただ思うのです。正義はどちらにあるのか、と」


「正義、ね。ふうん……そんな単純な事で迷ってるんだ」


首を横倒しに倒し、瞳を瞬かせた。単純明快すぎる事に何を悩む必要があると言う、その代わりに。くだらないな……と少々間の抜けた口調で言葉を紡いで。


「簡単な事さ。勝った方が正義。さあ、勝鬨が上がる前に僕達も一仕事しようか」


もしかしたら本土では既に決着がついているかもしれないけれど。


「あー……おにぎり食べたい」


≪バロン≫
4/6ページ
スキ