第3章 持たざる者は持てる者


現在の苦しみは、将来、私達に現わされるはずの栄光と比べると取るに足りないと私は思います。

被造物は神の子らが現われるのを切なる思いで待ち焦がれているのです。被造物は虚無に服従させられていますが、それは自分の意思によらず、そうさせた方のみ旨によるものであり、同時に希望も与えられています。

即ち、その被造物もやがて腐敗の隷属から自由にされて、神の子供の栄光の自由にあずかるのです。

私達は今もなお、被造物が皆と共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている事を知っています。

被造物だけでなく、初穂として霊をいただいている私達自身も、神の子の身分、つまり、体に贖われる事を待ち焦がれて、心の中で呻いています。私達は救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです。

目に見える望みは望みではありません。目に見える物を誰が望むでしょうか?見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです。


【ローマの人々への手紙 第8章】






夕間暮れの光が一条差し込み、昼から夜のものへと変わりつつある風が一陣吹き砂塵を巻き上げる。西の空の端低くに浮かぶ明星に向かって吹く風に、手元近くに生えていた名も知らない草を毟り乗せ、手を離した。


「落ち着かないのか?」


「落ち着かないというよりはザワザワする感じだな。……不思議だな。やけに静かで凪いでると思えば次の瞬間には這いずる様に何かが蠢く。正直、寒いのか熱いのか、それも分かんねえ」


降りしきる、降りしきる。名残日が、沈黙が。寄せては返し、返しては寄せる潮騒の音と連動する様に去来する思いが足先を、指先を、目の奥をチリチリと焼いている気がした。……気がした、だけ。


「無理もないさ。明後日は決行の日だろう?……ほら、見てみろよ、アル」


そう言葉を紡ぎ、どかり、と自分の隣に腰掛け、利き手を開いて見せた親友の姿に、瞬間、息を飲み吐き出した。凍てつく様な冬の朝、かじかんだ時の様に震えている手の平を見、悟って。


「……笑っちまうよな。アルも俺も自分で望んでここにいるのに。本懐を遂げる、あと少しまで来たのに。なのに手の震えが止まらないんだ」


空の茜が一刻、数瞬ごとに色濃いものへと変わっていた。焔の様にこうこうと煌めく朱色へと。


「……俺は、革命の為なら命を賭けてもいいと、そう思っている。……そう思っている、はずなのに……」


互いに震える手を見つめ、共に手を落日へ透かした。けして届かない、掴めない茜色が俺と親友の手を染め上げる、そんな光景を見送りながら。


『アル。君の言う”民”というのは君達の様なー……君達の言葉で言う”持たざる者”のことだよね?……でも、”持つ者”は?僕達の様な貴族はこの国の民ではないの?』


『そう、だね。……でも、アル、これだけは忘れないでいてほしい。”目に見えるものが、示されるものが全て真実だとは限らない”ことを。そして、”最善だと思ってとった行動が最良の結果に繋がるとは限らない”ことも』


なあ、ルフィール。俺達はー……


ガサリ、と僅かに音が届いたのはそんな時でー……喉元から出掛かっていた言葉を慌てて飲み込み音がした方へ視線を向けた。

一体誰が?その疑問はすぐに払拭された。


「フリードリヒさん、だよな?アレ。酒瓶なんか持ってどこへ行くつもりー……お、おい、アル……」


親友の手が空を掻く。ゆるりとその手をかわして立ち上がった。何故かはー……そんな事俺が聞きたいぐらいだ。だけど、無性にあの人の背中を追い掛けたくなったから。追い掛けないといけない、そう思った。

まだ青い、膝丈まで伸びた牧草が波とよく似た音を立てて揺らいでいた。


「おや、君達は……」


「フリードリヒさんこそ、こんなところで何をー……ここは……もしかして……」


「……ああ、アルフォート君、そうだよ。ここは墓さ。とは言え、石を置いただけで亡骸がその下にきちんと埋まっているものは少ないが……」


堅い、樫の様な硬質化した皮膚に覆われた手を墓と呼んだ石に乗せると、彼は僅かに口角を上げて見せた。今空に浮かんでいる三日月の様に下卑た笑みではない。遠くを見つめる時多くの人が自然とそうする様に眦を緩め、ここではないどこかを見つめながら、彼は言の葉を紡いだ。「ここに眠る彼はとにかく酒が好きでね。非番の日は昼間から酒場に駆けこんでいたよ」と。


「そっちの石の下に眠っている彼は反対に下戸でね。よく潰されて吐いていたよ。その奥の彼は鉱山での重労働が原因で重い肺気腫を患っていてね。だが、チェロを弾かせれば彼の右に出る者はいなかった。それからー……」


一歩、また一歩と足を踏み出し順繰りに墓石に触れ、懐かしむ様に、慈しむ様に語られる言葉を夜半の風が攫って行く。……この人はここに眠る無数の人達の事を一人残らず忘れずに記憶している。そう確信するのに時間はさほど必要なかった。


「フリードリヒさん、あなたは……」


「ああ、覚えているとも。皆、私の同志だからね。たとえ黄泉に下っていようともそれは変わらない。志を共にした仲間だ。命を懸け今でも共に戦ってくれている同志諸君の事をどうして忘れる事が出来ようか」


風に僅かに混ざった芳香が鼻腔を掠め擽った。すぐに分かった。今、フリードリヒさんが開け墓石に注いだ葡萄酒が上質なものであるという事が。


「俺は……」


「アルフォート君、君は私が知っている男の若い頃によく似ている。昼と夜と輝きが変わる目をした面差しもだが、何より内面が、だ。アルフォート君、ルフィール君、よく覚えておくといい。死んでもいいと思う事、死にたいと思う事、そして命を賭けるという事は似ているようだが……それは全く別物だ。そして、断言しよう。この石の下に眠る者達は誰一人として死にたいとは思っていなかった。誰一人としてだ。そして、私はそんな彼らが積み上げ作り上げてくれた石の道の先端にいる。立っている。彼らのおかげで私はここまで来ることができたんだ。……引き返したいと思った事がないかと問われれば嘘になる。だが、ここはそんな甘い場所ではない。それにー……」


今更後悔して何になる。知っていて歩んできた道だ。詫びてしまえば、悔やんでしまえばー……全てが閉ざされ水泡に帰すだろう。


「己を捨て大義の為の礎となる。その為なら私はどんなものでも奉げよう。どんなものでも捨てよう。……君達の様な若者が貧困に苦しまなくてもいい、皆が平等なそんな世界を、作りたいものだな」


≪アルフォート≫
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