第3章 持たざる者は持てる者
あなた方も聞いている通り、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、私はあなた方に言っておく。悪人に逆らってはならない。右の頬を打つ者には他の頬も向けなさい。
あなたを訴えて財を取り上げようとする者には上着をも取らせなさい。
無理にでも一歩歩かせようとする者とは一緒に二歩歩きなさい。
求める者には与えなさい。あなた方から借りようとする者に背を向けてはならない。
あなた方も聞いている通り、『あなた方の隣人を愛し敵を憎め』と命じられている。
しかし、私はあなた方に言っておく。あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者の為に祈りなさい。
それは天におられる父の子となる為である。天の父は悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである。
自分を愛してくれる者を愛したからと言ってあなた方に何の報いがあるだろうか。徴税人でさえもそうしているではないか。
自分の兄弟だけに挨拶したからと言って、何か特別な事をしたという事になるだろうか。異邦人でさえそうしているではないか。
だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさい。
【マタイによる福音書 第5章】
あたり一面、無数の赤い火の粉の群れが舞う。立ち上る黒煙と共に絡み縺れて夏の夜空を飛ぶ蛍の様に狂った舞踏を踊っていた。
パキリ。どこかで何かが折れる音がした。ガラリ。何かが崩れ落ちる音がした。
重い足取りでボロになった服を引き摺りながら見た事がなく、見覚えるのあるその地を歩く。終点がどこにあるのかどこに繋がっているかを私は既に知っていた。
プツリ。履いていた革靴の焼け爛れた留め金が千切れていく。轟々と浄化の炎が闇に喰いつき、喰いつかれてー……
今日もそこへと辿り着き、私は立ち止まる。焔の作る逆光の中、影になっている私の半分へと伸ばした手は虚空を空しく掻いただけで届かなくてー……明けを告げる鳥の声が酷く遠くからも近くからも聞えた気がした。
目覚めの時は近い。そして、私自身がこの現実に出会う日も、また。だから、だからその日まで……
「ごきげんよう」
--------------------
「出来ましたわ……!お師匠様見て下さい……!ようやく縫い終えましたの……!」
「出来たのかい?見せてごらん」
「はい……自信作ですわ……!ですが……いかが、でしょうか?」
シャラリと生じた衣擦れの音が、昼時でもひんやりとした庵の板の間に満ちる空気を動かす。私の隣に腰掛け完成したばかりの布を見定め始めたその人の横顔と手元とを交互に見つめ、自分の胸の上で手を組みながら言葉を待っていた。
自信作、という先程口にした言葉に嘘偽りなどないけれど、それはあくまで今の私から見てという酷く主観的なものであって客観的な視点ではない。その道に精通してる人に作品を見せるとなれば話は変わって来てー……緊張から、だろうか、言葉待つ一秒が十秒にも一分にも感じた。
この板の間にないはずの時計の秒針が時を刻む音がする。そして、それよりも早く鐘を打つ私の心の臓の音も。
「……ふむ……まだ荒いところもあるが……これだけ縫えれば十分……か」
「じゃあ……!」
不可視の轍で蟠っていた沈黙がお師匠様が吐き出した息と共に霧散していく。
「これならば売り物として売り出しても売れると思う。……頑張ったな、ランダ」
半分残された顔に柔和な笑みを浮かべた人が紡いだ言葉に、私は嬉しさのあまり破顔し一つ手を叩いた。やりましたわ……!
「……新茶だが、飲むかい?」
「まあ……!ふふっ……ありがとうございます」
春先のけぶった空に浮かぶ薄い筋雲の様な湯気がゆらゆらと囲炉裏で沸かされた湯から立ち上り柔らかく鼻先をくすぐる。お師匠様から手渡された陶器の器を両手で包む様に受け取り、唇の端を僅かに弛緩させ言葉を返した。
「……最初は不安だったが、よくここまで織れるようになったものだ。あなたの父君や祖母君も知ったらさぞ驚かれるだろう」
「以前は占いを生業にしていたのですが……疲れてしまって……お師匠様に布の織り方を教えてもらえて本当に助かりました。いつまでもお父様やおばあ様に甘えているわけにはいきませんもの。……私、ほんの少し人より多くご飯を食べるので……」
「…………そうか」
僅かに生じた間に首を傾げれば、「いや、いい」という声が咳払いと共に返って来て、私はと言えば、ただただ目蓋を瞬かせていた。……気管にお茶が間違って入ってしまったのでしょうか?
「……それに私、自分の手で何かを生み出す事は嫌いではありませんの。特に布織は今を紡いで未来を作るようで……」
「今を紡いで未来を作る、か……そうかもしれないな」
庭遊びから戻って来たのだろうか、一羽の小さな鳥が囀りお師匠様の肩へ向って羽搏き器用に止まる。愛おし気に愛鳥の首元を指先で掻く彼を見つめて、先程より少しだけぬるくなった茶を一口含んだ。………あたたかい……
「私は未来は作るものだと、そう思っていますわ。今知るのでも見るのでもなく紡ぎたい、と。あなたが織る布の様に。ふふっ……ありがとうございます。次からは最初から一人で織れそうですわ」
「いや、こちらこそあなたの父君には世話になりっぱなしだ。よろしくと伝えておいてくれ。まあ、律義な彼の事だからそろそろこの庵に来るとは思うが……帰りはどうする、送ろうか?」
「大丈夫ですわ。まだ日もありますし里からこの庵までの道は覚えましたもの」
「そうか……気を付けて帰るんだよ。今日は星祭りの日だから」
--------------------
瑠璃色緋色に煌めく地上の灯火達が厚い大気の層を抜けて届いた天の銀燈と共に滲み揺れる。宙と水面を埋め尽くす灯火と笹の小舟を川辺に座り見つめながら先程屋台で買った串焼きをまた一つ頬張った。「あなたも食べますか?」という言葉と共に。
「いらないよ」
「そうですか?ここの串焼き美味しいですよ~?」
自分のものとは違う低い声が頭上から降り注ぐ。不機嫌さと苛立ちが隠しきれず滲み出ている素直な言葉に気付かないふりをして私は残りの串焼きを頬張って咀嚼する。
「なんでさっき、あんな嘘を吐いた?」
「……嘘?」
「僕が自分の連れだという嘘だよ。君と僕は連れ合いどころか今日会ったばかりの見ず知らずの他人だろ。……暴漢から僕を助けたつもりかい?なら無駄だし、何より迷惑だ」
『あっ……!こんなところにいたんですね、待ち合わせの場所にいなかったから探しましたわ。さあ、早く行きましょう……!早くしないと串焼きが売り切れてしまいますわ』
すっかり空になってしまった串焼きが入っていた紙袋に、すっかり食べ切ってしまった串を入れしまって、刹那目蓋を閉じた。灯火が消えて幻燈が灯る。人ごみの中この人を目に留めた瞬間見えてしまったものが現実と置き換わっていく。
「……でも、今は確かに連れ合いですわ。……お優しいんですね、あなた」
眩しい光が届かぬ世界。全てが朽ち果てたようなモノクロームに沈んでいく世界。紅蓮が貫かれ飲まれて消えていった。その世界にいたのは……
”重なったから”
その言葉は飲み込んで、改めて私は彼を見上げた。
「では、次はたい焼きを食べに行きましょう!」
「ま、まだ食べるのか……」
「えっ?まだ、でしょうか?たい焼きならあと20はいけますわ」
「……」
≪ランダ≫
しかし、私はあなた方に言っておく。悪人に逆らってはならない。右の頬を打つ者には他の頬も向けなさい。
あなたを訴えて財を取り上げようとする者には上着をも取らせなさい。
無理にでも一歩歩かせようとする者とは一緒に二歩歩きなさい。
求める者には与えなさい。あなた方から借りようとする者に背を向けてはならない。
あなた方も聞いている通り、『あなた方の隣人を愛し敵を憎め』と命じられている。
しかし、私はあなた方に言っておく。あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者の為に祈りなさい。
それは天におられる父の子となる為である。天の父は悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである。
自分を愛してくれる者を愛したからと言ってあなた方に何の報いがあるだろうか。徴税人でさえもそうしているではないか。
自分の兄弟だけに挨拶したからと言って、何か特別な事をしたという事になるだろうか。異邦人でさえそうしているではないか。
だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさい。
【マタイによる福音書 第5章】
あたり一面、無数の赤い火の粉の群れが舞う。立ち上る黒煙と共に絡み縺れて夏の夜空を飛ぶ蛍の様に狂った舞踏を踊っていた。
パキリ。どこかで何かが折れる音がした。ガラリ。何かが崩れ落ちる音がした。
重い足取りでボロになった服を引き摺りながら見た事がなく、見覚えるのあるその地を歩く。終点がどこにあるのかどこに繋がっているかを私は既に知っていた。
プツリ。履いていた革靴の焼け爛れた留め金が千切れていく。轟々と浄化の炎が闇に喰いつき、喰いつかれてー……
今日もそこへと辿り着き、私は立ち止まる。焔の作る逆光の中、影になっている私の半分へと伸ばした手は虚空を空しく掻いただけで届かなくてー……明けを告げる鳥の声が酷く遠くからも近くからも聞えた気がした。
目覚めの時は近い。そして、私自身がこの現実に出会う日も、また。だから、だからその日まで……
「ごきげんよう」
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「出来ましたわ……!お師匠様見て下さい……!ようやく縫い終えましたの……!」
「出来たのかい?見せてごらん」
「はい……自信作ですわ……!ですが……いかが、でしょうか?」
シャラリと生じた衣擦れの音が、昼時でもひんやりとした庵の板の間に満ちる空気を動かす。私の隣に腰掛け完成したばかりの布を見定め始めたその人の横顔と手元とを交互に見つめ、自分の胸の上で手を組みながら言葉を待っていた。
自信作、という先程口にした言葉に嘘偽りなどないけれど、それはあくまで今の私から見てという酷く主観的なものであって客観的な視点ではない。その道に精通してる人に作品を見せるとなれば話は変わって来てー……緊張から、だろうか、言葉待つ一秒が十秒にも一分にも感じた。
この板の間にないはずの時計の秒針が時を刻む音がする。そして、それよりも早く鐘を打つ私の心の臓の音も。
「……ふむ……まだ荒いところもあるが……これだけ縫えれば十分……か」
「じゃあ……!」
不可視の轍で蟠っていた沈黙がお師匠様が吐き出した息と共に霧散していく。
「これならば売り物として売り出しても売れると思う。……頑張ったな、ランダ」
半分残された顔に柔和な笑みを浮かべた人が紡いだ言葉に、私は嬉しさのあまり破顔し一つ手を叩いた。やりましたわ……!
「……新茶だが、飲むかい?」
「まあ……!ふふっ……ありがとうございます」
春先のけぶった空に浮かぶ薄い筋雲の様な湯気がゆらゆらと囲炉裏で沸かされた湯から立ち上り柔らかく鼻先をくすぐる。お師匠様から手渡された陶器の器を両手で包む様に受け取り、唇の端を僅かに弛緩させ言葉を返した。
「……最初は不安だったが、よくここまで織れるようになったものだ。あなたの父君や祖母君も知ったらさぞ驚かれるだろう」
「以前は占いを生業にしていたのですが……疲れてしまって……お師匠様に布の織り方を教えてもらえて本当に助かりました。いつまでもお父様やおばあ様に甘えているわけにはいきませんもの。……私、ほんの少し人より多くご飯を食べるので……」
「…………そうか」
僅かに生じた間に首を傾げれば、「いや、いい」という声が咳払いと共に返って来て、私はと言えば、ただただ目蓋を瞬かせていた。……気管にお茶が間違って入ってしまったのでしょうか?
「……それに私、自分の手で何かを生み出す事は嫌いではありませんの。特に布織は今を紡いで未来を作るようで……」
「今を紡いで未来を作る、か……そうかもしれないな」
庭遊びから戻って来たのだろうか、一羽の小さな鳥が囀りお師匠様の肩へ向って羽搏き器用に止まる。愛おし気に愛鳥の首元を指先で掻く彼を見つめて、先程より少しだけぬるくなった茶を一口含んだ。………あたたかい……
「私は未来は作るものだと、そう思っていますわ。今知るのでも見るのでもなく紡ぎたい、と。あなたが織る布の様に。ふふっ……ありがとうございます。次からは最初から一人で織れそうですわ」
「いや、こちらこそあなたの父君には世話になりっぱなしだ。よろしくと伝えておいてくれ。まあ、律義な彼の事だからそろそろこの庵に来るとは思うが……帰りはどうする、送ろうか?」
「大丈夫ですわ。まだ日もありますし里からこの庵までの道は覚えましたもの」
「そうか……気を付けて帰るんだよ。今日は星祭りの日だから」
--------------------
瑠璃色緋色に煌めく地上の灯火達が厚い大気の層を抜けて届いた天の銀燈と共に滲み揺れる。宙と水面を埋め尽くす灯火と笹の小舟を川辺に座り見つめながら先程屋台で買った串焼きをまた一つ頬張った。「あなたも食べますか?」という言葉と共に。
「いらないよ」
「そうですか?ここの串焼き美味しいですよ~?」
自分のものとは違う低い声が頭上から降り注ぐ。不機嫌さと苛立ちが隠しきれず滲み出ている素直な言葉に気付かないふりをして私は残りの串焼きを頬張って咀嚼する。
「なんでさっき、あんな嘘を吐いた?」
「……嘘?」
「僕が自分の連れだという嘘だよ。君と僕は連れ合いどころか今日会ったばかりの見ず知らずの他人だろ。……暴漢から僕を助けたつもりかい?なら無駄だし、何より迷惑だ」
『あっ……!こんなところにいたんですね、待ち合わせの場所にいなかったから探しましたわ。さあ、早く行きましょう……!早くしないと串焼きが売り切れてしまいますわ』
すっかり空になってしまった串焼きが入っていた紙袋に、すっかり食べ切ってしまった串を入れしまって、刹那目蓋を閉じた。灯火が消えて幻燈が灯る。人ごみの中この人を目に留めた瞬間見えてしまったものが現実と置き換わっていく。
「……でも、今は確かに連れ合いですわ。……お優しいんですね、あなた」
眩しい光が届かぬ世界。全てが朽ち果てたようなモノクロームに沈んでいく世界。紅蓮が貫かれ飲まれて消えていった。その世界にいたのは……
”重なったから”
その言葉は飲み込んで、改めて私は彼を見上げた。
「では、次はたい焼きを食べに行きましょう!」
「ま、まだ食べるのか……」
「えっ?まだ、でしょうか?たい焼きならあと20はいけますわ」
「……」
≪ランダ≫
