第3章 持たざる者は持てる者
あなた方が躓く事の無いように、私はこれらの事を話して来た。
人々はあなた方を会堂から追放するであろう。それどころか、あなた方を殺す者がみな、自分は神に仕えているのだと思う時が来る。
彼らがこの様な事をするのは、父をも私を知らないからである。
しかし、あなた方がこれらの事を話したのは、その時が来た時、私が言った事を思い起こさせるためである。
【ヨハネによる福音書 第16章】
「見てごらん、鵺」
一つ、また一つ灯火が消えていく。点いて暮れて、闇に飲まれていく。夜の間人々を魔から守っていた灯火達が。東の山の稜線から空が夜の宵闇の衣から薄暮の薄絹へと着替え身支度を整えていた。
朝の光に熱され湧き立つ霞が光を覆い、瞬間視界を閉ざした。風紋が霞の海を泡立たせ波立たせていた。
か細い口笛の様な、あるいは微かに開いた戸の隙間を抜ける様な音が霞の海を震わせる。朝を謳歌する様に、或いは過ぎ去る夜を惜しむ様に囀る娘同然の彼女の声に耳を傾けながら重くない目蓋を降ろし、刹那、解放し見開いた。
昼と夜の端境。朝と夜が重なる時、彼はたれの時ー……空が最も色濃くなる時間。俺が、一番好きな時間。
「新しい”今日”が始まる」
囀り続けている彼女の羽根を撫で一つまだ寒い大気に息を混ぜた。今日が始まる、そんな言葉と共に。
「やあ、カンザサ。星祭りも終わったからそろそろ来る頃じゃないかと思っていたよ。あなたの母君と娘に変わりはないかい?」
「いつも不思議に思っているのだがあなたは千里眼か何かをお持ちなのか?ここに来てわしが挨拶をする前に毎回あなたの方が先に声をかけるのだ」
ドカリ、と重量のある音が縁側に響き、張られた板をたわませ揺する。大量の手荷物を置き、そして大柄な体躯に似つかない所作で荷物の隣に腰掛けた友人からの問い掛けに「造作もない事だよ」と言葉を返して自身もまた彼の隣へと座り込んだ。一杯の粗茶を手渡しながら。
「あなたは性根が真面目だからこの庵に来る頻度がほぼ等間隔なんだ。だから簡単に予想がつく」
「そ、そんなに分かりやすい、か?」
「ふふっ……少なくとも俺が今まで出会って来た人に中で一番あなたが分かりやすいかもしれないな。とは言え、俺が今まで接した事がある人間は数える程度しかいないが。……いつもすまない。こんなに沢山もらってしまって」
「以前貰った反物の礼だから気にしなくていいのだ。娘も喜んでいた事だし……こちらこそ礼を言わねばならないのだ」
淹れたばかりの茶の、微かに甘い芳香が細く立ち上った湯気と共に風に流されて散っていく。彼が持って来てくれた沢山の米や野菜とそして彼とを交互に見つめて改めて礼の気持ちを込めて頭を垂らした。
「今日は、そ、その鵺はいないのか?」
「ああ、あの子ならさっきから裏庭で虫を追い掛けているよ。……連れてくるかい?」
「い、いや、いいのだ。せっかく楽しく遊んでいるところに水を差しては可哀想なのだ……」
ゆるゆると時が流れていた。糸を解く様に、或いは土に昨晩降った雨が染み込んでいくように、緩やかな時が。
俺もこの友人もけして饒舌な人間というわけではない。むしろお互いそれとは逆の人間だ。会話と会話の間に沈黙が伴う事はままある事だった。
だが、この年の離れた友人といる時はその沈黙さえ心地よく感じる。人と人との会話は言の葉を交わす事だけではないのだと今更ながら改めて教えてもらっているー……そんな気がした。
「市井の様子は?あなたの家族には変わりはないかい?」
「……酷いものなのだ……皆傷付き、疲れ果てている。あの雨の日以降、空が晴れる時はあっても心はそうはいかない。幸いにもわしも母も娘も大事なく無事だったがー……他の人達を見ているとわしだけが喜ぶ事は出来ないのだ。それに歓迎している者も多いが、日に日に赤で染まっていく街も不気味でー……わしは赤は好きではないのだ。赤は火の色であり血の色ー……争いの色なのだ……」
いつの間にか裏庭から表へ回って来た鵺を指先に乗せ引き上げ、友の角の上へと移した。腹が膨れて満足しているのだろう、いつもの気性の荒さは今の彼女にはなく、友の角を止まり木代わりに体を丸めてウトウトと、羽根の間に顔を埋め出した鵺を見つめ笑みを溢した。酷く気落ちしている友とは対照的な表情が半分残った顔に浮かび上がる。
「宣伝を賢明に、継続して使用すれば民に天国を地獄と思わせる事も出来るし、逆に極めてみじめな生活を極楽だと思わせる事も出来る」
「索冥殿……確かにあなたが言う通りかもしれないな。自分自身を欺き騙す事は簡単な事なのだ……人は自分が信じたいと思ったものしか信じない。それが正しい事か正しくない事かはそれほど重要な事ではないのかもしれないのだ……」
「主張や宣伝は手段であるか目的であるかという事について分からない人間は多い。主張や宣伝は手段だ。だから、各々が目的の観点から判断しなければならない。……この国は笹を組んで作った小舟の様なものだ。時代という大河に浮かべられて、寄る岸辺も船頭すらなく激流の中を危うく漂う一艘の舟だ。……願わくはー……」
「願わくは……?」
俺が発した言葉の一節を友が鸚鵡返しに紡いだ、その時だった。霞の結界が揺らぎ波打ったのは。俺同様揺らぎを感じ取ったのだろう、今までカンザサの角を止まり木に眠っていた鵺も目を覚まし角から俺の肩へと体を移す。彼女が肩に乗ったのを横目で確認してから腰を上げた。衣擦れの音が僅かに聞える耳鳴りと混じり鼓膜に残響していた。
「……どうやら妹弟子が来たらしい。私は彼女を迎えに行くから少しここで待っていてほしい」
「だ、だいじょうぶか?」
「……たぶん。……なに、ここは俺の山だ。迎えに行くだけだよ。すぐに戻る」
--------------------
白い靄が靡く。師匠が施してくれた幽玄と現世とを隔てる霞の結界が視界を染め上げる。この霞に害はないが、時折方向を見失った人間が山へ迷い込む事がある。
一面の雲海の中によく似た世界で、その色彩は誇る様に咲いていた。夕日のような鮮やかな朱色が。
「鳳翔か?」
「兄弟子様!お久しぶりです!」
「ふふ、久しぶりだな。師匠は?お変わりないか?……立ち話もなんだ、私の庵に来なさい。ちょうどカンザサも来ているよ」
≪索冥≫
